FBで、以下の和讃を見かけた。
歡喜信心無疑者をば、
與諸如來ととく
大信心は佛性なり
佛性すなはち如来なり
この和讃は、いわゆる国宝本の和讃で、文明本では、
(94)
信心よろこぶそのひとを
如来とひとしとときたまふ
大信心は仏性なり
仏性すなはち如来なり (*)
で、ある。意味は同じである。
この和讃は、『華厳経』の最後の偈文、
聞此法歡喜 信心無疑者
速成無上道 與諸如來等
と、『涅槃経』の
大信心者即是佛性 佛性者即是如來
の、文言に依って和讃されておられ『教行証文類』の信楽釈で引文されている。
『華厳経』
「この法を聞きて信心を歓喜して、疑なきものはすみやかに無上道を成らん。もろもろの如来と等し」となり。(*)『涅槃経』
大信心はすなはちこれ仏性なり。仏性はすなはちこれ如来なり。(*)
いわゆる天台の五時教判では、『華厳経』は最初に説かれた仏陀の覚りの内容とされ、『涅槃経』は仏陀入滅の最後に説かれた結論であるとされる。
『教行証文類』においてもこの二経は連引されておられるのだが、仏教のアルファとオメガ、つまり釈尊の一代の教説を象徴するという意味で引文されておられるのであろう。ここいらへんは御開山のスケールの大きさを感じさせるところである。ちなみに、『華厳経』の
聞此法歡喜 信心無疑者
速成無上道 與諸如來等
は、当面読みでは、「この法を聞きて歓喜し、心に信じて疑なければ、すみやかに無上道を成じ、もろもろの如来と等しからん」と読むそうであるが、御開山は、上下を入れ替えて「この法を聞きて信心を歓喜して、疑なきものはすみやかに無上道を成らん。もろもろの如来と等し」と読まれている。
如来の信心を歓喜するとして、信心は如来からの賜りものである意を顕すためこのように訓まれたのであろう。その聞信していることが浄土真宗における信心仏性であった。
また、本願成就文の、
諸有衆生、聞其名号、信心歓喜、乃至一念。
あらゆる衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと乃至一念せん。(*)
の意からもこのように訓まれたのであろう。『讃阿弥陀仏偈』の
も、同じ意味であろう。
ようするに、浄土真宗の信心とは自らが発起するのではなく、如来のご信心に包摂されていることを聞信するのである。そのためには常に自己の中に自力の信心らしきものを見出した時は常にこれを否定していくのが、「この法を聞きて信心を歓喜」するということである。
そして「この法」を告げる言葉が、「聞其名号」のなんまんだぶでなのである。
なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ