往生成仏教

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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♪梅は咲いたか 桜はまだかいな、柳なよなよ風次第♪というフレーズの端唄(はうた)がある。

だいぶ前だだが、ふと思い立ち自家製の梅干を作りたくなって梅の木を植えた。
梅の木を植えれば花が咲き、花によって梅の実を結び、実を獲って梅干を漬けて、おかずにして食べようと貧乏な林遊が想起したのだが、手入れをせずに放ってあるのでひどいことになっている(笑

というわけで、なんまんだぶを称えるという行為を勧める第二十願には、植諸徳本(もろもろの徳本を植ゑて)という表現がある。

たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、わが名号を聞きて、念をわが国に係け、もろもろの徳本を植ゑて、至心回向してわが国に生ぜんと欲せん。果遂せずは、正覚を取らじ。

この徳本とは本来は徳の根本ということで大乗菩薩の修する六波羅蜜行なのだが、御開山は、なんまんだぶと称えることであると定義されておられる。善本も善の総体・根本の意なのだが同じく、なんまんだぶを称えることであるとされておられる。

顕といふは、経家は一切諸行の少善を嫌貶して、善本・徳本の真門を開示し、自利の一心を励まして難思の往生を勧む。ここをもつて『経』(同)には「多善根・多功徳・多福徳因縁」と説き、釈(法事讃・下)には「九品ともに回して不退を得よ」といへり。あるいは「無過念仏往西方三念五念仏来迎」(同・意)といへり。(*)

というわけで、御開山は『阿弥陀経』の意を表面に顕している第二十願は、「多善根・多功徳・多福徳因縁」の善本・徳本であるなんまんだぶを称えることであるとされる。
植諸徳本の《植》の語によって、自らが徳本を植えるという意が第二十願であると見られたのであろう。

と、ここまで前置きなのだが、なぜ浄土教では、なんまんだぶという徳本を植えるのかということについて、源信僧都は『往生要集』中で天台大師智顗の作といわれる『淨土十疑論』(*)の一説を引用して考察されておられる。

ゆゑに『十疑』にいはく、「浄土に生れんと求むる所以は一切衆生の苦を救抜せんと欲ふがゆゑなり。 すなはちみづから思忖すらく、〈われいま力なし。 もし悪世、煩悩の境のなかにあらば、境強きをもつてのゆゑに、みづから纏縛せられて三塗に淪溺し、ややもすれば数劫を経ん。 かくのごとく輪転して、無始よりこのかたいまだかつて休息せず。 いづれの時にか、よく衆生の苦を救ふことを得ん〉と。
これがために、浄土に生れて諸仏に親近し、無生忍を証して、まさによく悪世のなかにして、衆生の苦を救はんことを求むるなり」と。 {以上}余の経論の文、つぶさに『十疑』のごとし。
知りぬべし、念仏・修善を業因となし、往生極楽を華報となし、証大菩提を果報となし、利益衆生を本懐となす。 たとへば、世間に木を植うれば華を開き、華によりて菓を結び、菓を得て餐受するがごとし。(*)

なんまんだぶを称える行業は、阿弥陀如来の本願に選択して下さった念仏を称えて仏に成り、今度という今度こそ、自分の事だけで苦しむのではなく、普賢の徳(普賢菩薩のように、慈悲行を実践すること)を行じさせしめようという慈悲の至極の行なのであった。ゆえに、なんまんだぶを称える行業を「大悲を行ずる」と、御開山は仰せなのである。

「同情するなら金をくれ」というドラマの台詞があったが、金では解決できない問題、生と死を超える道を、つまり往生極楽の道を示すのが浄土仏教であり、それこそが、なんまんだぶを称えて仏に成る「大乗の至極」のご法義であった。

三心(至誠心、深心、回向発願心)・四修(恭敬修、無余修、無間修、長時修)『礼讃』などということは、なんまんだぶと称え、ただ一向に念仏する中に「みな決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ふうちに籠り候ふなり。」(*)である。

この、なんまんだぶを称えている相が、すなわち「世尊我一心 帰命尽十方 無礙光如来」の一心なのではある。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、やったねという由縁である。