風にふかれ信心申して居る

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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FBへの投稿を少しく判りやすくしてみた。

詩人という存在は、ふだん我々が使う言葉と違った言葉遣いをみせてくれるので面白い。ともすれば詩人は短い言葉という表現の制約のためか技巧にはしると綺語になり、嫌味を感じさせる詩もある。綺語とは仏教の十悪の中の口の四悪、妄語・両舌・悪口・綺語の中の綺語で、うわべだけ美しくかざった言葉のことである。御開山は盛んに今様形式の和讃を作られたのだが、和歌を作らないのは和歌に綺語という耽美的な技巧を感じておられたのであろうとひそかに思ふ。

それはそれとして、自由律俳句の尾崎放哉の句に、

風にふかれ信心申して居る

という句がある。
放哉の持っていた信仰は知らないのだが、言葉は作者の手許を離れたら、受け手による自由な解釈が許容されるものであり、言葉の受け手の感性によって言葉を咀嚼する自由があるのだと思ふので少しく考えてみる。

本願を信じ念仏を申す、これが浄土真宗のご法義である。阿弥陀如来の側からいえば、信じさせ称えさせる、である。
御開山は『教行証文類』の「行文類」の冒頭で、

つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。

と、示しておられる。我々は現在使われる『教行信証』という言葉に引きずられて、単独の《信》なるものがあるように錯覚しているのだが、御開山が「教文類」で「往相の回向について真実の教行信証あり」とされている書物の名前は『顕浄土真実教行証文類』であった。古来から題号は書物の大綱を示すといわれるが、いわゆる行から信を別開された書が『教行証』である。永遠なる救いの法である名号法(なんまんだぶ)の、《教》えと《行》業と《証》(あかし)果という教法を、有限な存在である林遊が、なんまんだぶと受け取ったときを《信》というかたちで別開されたのが「信文類」であろう。
ともあれ、行を離れた信もなければ信を離れた行もない。大悲の願(第十七願)によって起こされつつある如来の信心である名号の大悲の風が、放哉に届いたとき、「風にふかれ信心申して居る」という句になったのであろう。大悲は風のごとく信心として放哉に届いていたのであろう。

さて、浄土真宗には「行信論」というややこしい概念があり、回向された、なんまんだぶを称えるという《行》と、それを受容した《信》である仏心との関係をあれこれ論じられてきた。行は信であり信は行なのだが、どちらかといえば職業坊主は信の理屈を強調し、門徒は口に称えられる、なんまんだぶによって日々の日暮らしをしてきたものではあった。これが「大悲の願(第十七願)より出でた」、「この心すなはちこれ念仏往生の願(第十八願)より出でたり」という「至心信楽の願」である。

御開山は本願文の三心(信)を釈し、

「真実信心 必具名号(真実の信心はかならず名号を具す)」

とされる。
この信心と名号の関係を放哉が、「風にふかれ信心申して居る」と詠じた句と重ねて味わうと、よりいっそう、なんまんだぶの味が深くなるようではある。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ