平常心是道

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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これは禅語だが、浄土真宗風にいえば、あたりまえということである。

南泉、因みに趙州問う、如何なるか是れ道。
泉云く、平常心是れ道。
州云く、環って趣向すべきや否や。
泉云く、向かわんと擬すれば即ち乖く。
州云く、擬せずんば争でか是れ道なるを知らん。
泉云く、道は知にも属せず、知は是れ妄覚、不知は是れ無記、若し真に不擬の道に達せば、猶大虚の廓然として洞豁なるが如し、豈に強いて是非す可けんや。
州云く、言下に頓悟す。

浄土真宗では「信心獲得」ということがうるさい。
この「獲得」とは獲も得も求めてうる/えるを意味する言葉である。この術語を誤解し幻惑されて、信心とやらを必死で求めようとする者もいる。この信心という「もの」が手に入れば全ての悩みは滅して《安心》できる境地に至ることが出来ると思ふのである。いわゆる求道(ここの道は仏教の覚りの智慧の意)という行為である。これは人が生きるという命題に、少しでも関心を持つ者ならば、程度の差はあれおこるものである。私はどこから来てどこへいくのか、私という存在の意味は何であろうかという問いである。
もちろん無常男の「行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。よどみに浮ぶうたか」とか、戦国ニヒリストの「人生わずか五十年」という無常感では答えの出ない問いである。
ともあれこの解を、信心という生死を出る言葉で表現されたのが御開山聖人であった。これを後世浄土真宗では「信心正因」という言葉で表現するのである。獲も得も求めてうる/えるを意味する言葉だが、結果から言えば、無いものがあるようになったということである。
この浄土真宗の信心とは、『歎異抄』の著者が後序で語るように、「如来よりたまはりたる信心」であった。ようするに、

向かわんと擬すれば即ち乖く

であり、獲得した内容は、求めんとすればたちまち背くという、阿弥陀如来の覚りの世界なのである。

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