FBで、夜明け云々という表現があったので、仏教SNS「なむなむ」に記した文章をサルベージ。
>>引用開始
夜明けさしてもろたかや
時々昔の年寄りの会話を思い出すのだが、ご法義のご示談の場で上記のような言葉をよく耳にしたものだ。
ご示談とは、お互いが阿弥陀如来の救済について語り合うという意味。
報恩講の時などはお寺に泊まるのだが寒いので、本堂で布団を被って火鉢を囲み話し合っていた年寄りがいたものだ。
また、3食分の弁当とか米や副食を用意して篤信家の人の家を尋ねて、夜明かしでのご示談もあった。
夜明けさしてもろたかや、とは真宗宗歌にもある「とわの闇より すくわれし」ことの表現である。
夜明けしましたか、ではなく、さしてもろたかという受動表現をとるのが他力のご法義の特長であろう。
もちろん、夜明けさせてもらうのは阿弥陀如来の本願力である。
より端的にいえば名号である、口に称えられる、なんまんだぶであろう。
なんまんだぶが林遊の口から称えられている事を、回向されたご信心というのだ。
頭の悪そうな者は、信心決定とか信心獲得とかを喧しくいうそうだが、そもそも信心って何?と聞いても答え切る人に会ったことはない。あほである。
夜明けさしてもろたかや
『安心決定鈔』に、
たとへば日出づれば刹那に十方の闇ことごとく晴れ、月出づれば法界の水同時に影をうつすがごとし。月は出でて影を水にやどす、日は出でて闇の晴れぬことあるべからず。かるがゆゑに、日は出でたるか出でざるかをおもふべし、闇は晴れざるか晴れたるかを疑ふべからず。
と、あるが、太陽がのぼれば夜の闇は去るのである。
心の闇が去るから日が昇るのではない。
日が出るから闇が開けるのであって、断じて闇が開けるから日がのぼるのではない。
夜明けさしてもろたかや
はい、なんまんだぶつが出来上がったから、林遊の案じることではありませんでした。
なんまんだぶ、なんまんだぶ、やったね。
>>引用終了。
生きる意味とか死ぬる意味とか、百年考えても答えがでない問いなのだが、親鸞聖人が示して下さったのは、如実修行相応の、なんまんだぶであった。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
« Prev:畏怖心の去らぬ者 垂名示形 (名を垂れて形を示す):Next »
2015年6月8日 6:56 AM
>はい、なんまんだぶつが出来上がったから、林遊の案じることではありませんでした。
「案じる」こころのある間を「闇」といわれているのでしょう。案じる必要のないことを案じるバカが私でした、と晴れればそれが信心決定、如実修行相応の身になることと、有り難く頂いております。
2015年6月8日 8:40 PM
同行の坊さんが、なんで「信巻」の信楽釈のまとめに、
【37】『論の註』にいはく、「如実修行相応と名づく。このゆゑに論主、建めに〈我一心〉とのたまへり」
って如実修行相応の行が出てくるんですか?と問われたことがありました。
あんた行と信を分けて考えてるやろ、同じことや、『論註』の「二不知三不信」を読めと答えたことがありした。
阿弥陀如来の信の内容は、林遊に、なんまんだぶを称えさせることであり、それが如来の目的なのでした。
なんまんだぶを称え聞くことは、まさにいま、阿弥陀如来の目的の中にあるということですから、我が案ずることは無しなのでした。
如来が決定しておられのに、なんまんだぶを称えながら、こちら側が決定しなければならないというのはおかしなことになると思っていたりします。もちろん約生(衆生の側からの表現形態)での信心決定という言い方もあるのですが、これは人に語り得るものではないと思量してます。
このような場合は他者の綴ったよろこび文章を、うまいこというなあと引用して味あわせてくださることです。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
2015年6月8日 11:57 PM
>このような場合は他者の綴ったよろこび文章を、うまいこというなあと引用して味あわせてくださることです。
なるほどこの世は美味しいご馳走に溢れた有難い世だことと、改めて感謝いたします。
南無阿弥陀仏 ごちそうさまでした