垂名示形 (名を垂れて形を示す)

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
0

浄土真宗では、なんまんだぶを「垂名示形」(名を垂れて形を示す)と表現する。
形なきものが名をあらわして形を示すとは、『一念多念証文』で、

一実真如と申すは無上大涅槃なり。涅槃すなはち法性なり、法性すなはち如来なり。宝海と申すは、よろづの衆生をきらはず、さはりなくへだてず、みちびきたまふを、大海の水のへだてなきにたとへたまへるなり。
この一如宝海よりかたちをあらはして、法蔵菩薩となのりたまひて、無碍のちかひをおこしたまふをたねとして、阿弥陀仏となりたまふがゆゑに、報身如来と申すなり。
これを尽十方無碍光仏となづけたてまつれるなり。この如来を南無不可思議光仏とも申すなり。
この如来を方便法身とは申すなり。方便と申すは、かたちをあらはし、御なをしめして、衆生にしらしめたまふを申すなり。すなはち阿弥陀仏なり。(*)

と、いわれているように、「かたちをあらはし、御なをしめして、衆生にしらしめたまふを申すなり。すなはち阿弥陀仏なり」である。この「御な」を称え聞く南無阿弥陀仏という可聞可称の行法が、浄土真宗に於ける本願力回向の「大行」なのである。可聞可称であるから「なんまんだぶ」なのである。

ともあれ、このように名(ことば)の流出する場の形而上の考察について、井筒俊彦氏の書かれた『意識の形而上学』の、イスラム神秘学の哲学者イブヌ・ル・アラビーに対する考察は面白かったので一部を抜粋してリンクしておく。
もちろん、氏の言うように「それぞれの術語の背景にある言語的意味のカルマが違う」ので、同値することは出来ないのだが、イスラム・スーフィズム(イスラームの神秘主義哲学)の、神との一体化を求める発想に、他力という「本願力回向」の、なんまんだぶのご法義の意味を思ったことである。

御開山は、「行巻」で「重誓偈」を引文して乃至され《聞》ということを強調しておられるのも、

我至成仏道 名声超十方
われ仏道を成るに至りて、名声十方に超えん。
究竟靡所聞 誓不成正覚
究竟して聞ゆるところなくは、誓ひて正覚を成らじ。(*)

《聞》によって開かれる領域を示そうとされたのであろう。聞くことによって信知するから「聞見」とされる。このような名(みな)による救いをいわんとして、元照律師の、

 「いはんやわが弥陀は名をもつて物を接したまふ。ここをもつて、耳に聞き口に誦するに、無辺の聖徳、識心に攬入す。永く仏種となりて頓に億劫の重罪を除き、無上菩提を獲証す。まことに知んぬ、少善根にあらず、これ多功徳なり」(*)

の「我弥陀 以名接物(わが弥陀は名をもつて物を接したまふ)」文を引文された意(こころ)であろう。
「私の口に なんまんだ仏 と称えられている事実に、驚くことが信心ですよ」、と聴いたことがあったが、ありがたいこっちゃな。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
リンク:『意識の形而上学』