FBのとあるメッセに対する反応

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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浄土真宗は、実にシンプルなご法義である。シンプルであるから非常に領解しにくいご法義でもある。
そのせいか、後生願いの両親の下で育ったので、小学生の頃から法話を聴かされ──爺さん(父親)が、当時珍しいテープレコーダーを買い込んで聴聞を録音してあるいたのでリソースは豊富──るし、小学校5年生の頃には正信念仏偈は暗記していた。
爺さんは、「若いうちに信心もらわなあかん」とか「この世はわが身にあいに来たとこやぞ」と口喧しく言っていた。なにしろ、ご信心を頂くには3000の聴聞がいるという真宗坊主の言葉を実践していた明治生まれの爺さんであったから、林遊は理屈は立つのだが実践の前には抵抗は出来ない。
もっとも「今晩聴いて今晩助かるのが御開山の教えやぞ」が晩年の爺さんの口癖ではあった。
爺さんの言う「わが身にあう」ということは、今にして思えば、真実を目指す生き方であるが、真実なるものを持たない林遊には意味不明の言葉だった。
当時は、お文(御文章二帖)p.1110の「この信心を獲得せずは極楽には往生せずして、無間地獄に堕在すべきものなり。」の文に懊悩した人が、よく爺さんを訪ねて来ていた。ある意味において林遊が「信心正因」というドグマ(教条主義)に反撥を感じるのは、爺さんがどれだけ本願の慈悲を言っても、領解できずに肩を落として玄関の戸を閉める婆ちゃんたちを見たせいでもある。
越前の俚諺では、「他力の中の自力とは、いつも御恩が喜べてびくとも動かぬ信心が、私の腹にあるという、凡夫の力みを申すなり」という言葉があるのだが、思い込みと、ご信心の違いめが判らず苦悩している人も多かった。
そんなこんなで、林遊が本物のなんまんだぶに出あったのは43の歳である。若い頃から、歴史上の人物の年齢に自分の年齢を重ねて時間や歴史を考察してきたのだが、思わず法然聖人の帰浄に間に合ったと思ったものであった。「順彼仏願故(かの仏願に順ずるが故に)」である。
爾来、慈海さんに言わせれば、現在の林遊は、信心デストロイヤーなのだが、私が拵えたわたくしの信心は妄想でしかないのであった。

本願名号正定業 至心信楽願為因
成等覚証大涅槃 必至滅度願成就
本願の名号は、正しく往生の決定する行業である。
その行法を受けいれた第十八願の信心を往生の正因とする。
信を得て如来と等しい徳をいただき、涅槃のさとりに至るのは、第十一願の功である。

ソクラテスは「無知の知」ということを論じたが、知っているものがあるからこそ、「無知の知」ということを言いえたのである。知らないと言い切ることが出来るのは、知っているものがあるから言えるのであって、べたに凡夫とか無知という言葉を使う真宗坊主の逃避の言葉ではないのであった。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだだぶ

丸岡の城の石垣

願作仏心

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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浄土真宗では「信心」について煩いのだが、その信心の根源について論じられることは少ない。
御開山は『教行証文類』の教巻の冒頭で、

つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について真実の教行信証あり。(*)

と、浄土真宗は往相と還相を回向されるご法義である、とされてれおられる。また『浄土文類聚鈔』では、

しかるに本願力の回向に二種の相あり。一つには往相、二つには還相なり。往相について大行あり、また浄信あり。(*)

と、され『教行証文類』では浄土真宗という宗義であらわし、『浄土文類聚鈔』は本願力回向という法義であらわしておられる。つまり浄土真宗とは本願力の回向という宗教であるということである。
この本願力による回向の二種の相が、往相(この世から浄土へ往くことで浄土に往生する相状)と還相(浄土へ往生した者が、他者を救済するためにこの世へ還ってくる相状)である。
その往相と還相を説くのが証巻──その淵源は無量光明土である智慧の顕現する浄土をを説く真仏土巻である──である。
仏教の目的は成仏であって覚りを得る事である。仏教とは、仏説教(仏が説く教え)、説仏教(仏を説く教え)、成仏教(仏に成る教え)であり、仏が、仏について説く教えを拠り所として、自らが仏になる教えである。
そのような仏教の本義について、まるで金魚すくいのような救いを説く浄土真宗の布教使が多いのは困ったことではある。たしかに『十住毘婆沙論』でいう易行道である「信方便易行をもつて疾く阿惟越致に至る」ご法義なのだが「信心」を強調するがゆえに、「願作仏心 度衆生心」という御開山が示して下さった大乗仏教の本義が等閑(物事を軽くみて、いいかげんに扱うこと)に付されているのはないかと思ふ。
もちろん「凡情を遮せず」という「本願を信じ念仏を申さば仏に成る」というシンプルなご法義であるから、あれこれ論ずることは、法然聖人や御開山の本意を誤解する恐れもある。しかし、『教行証文類』という信心の形而上学を論じられた御開山を、真宗坊主が門徒に言うところの「信心正因」というタームを利用していう、まるで反知性主義としての愚者(凡夫)になれという言説には、少しく抵抗を感ずるのではあった。浄土真宗に於けるすくいとは「生死出づべき道」であり、伝説によれば釈尊の四門出遊もまた死の問題の解決であった。
ともあれ、往相と還相を説く「証巻」を考察された、星野元豊師の著述から証巻についての一文を窺ってみる。

証巻について

標挙には「必至滅度の願、難思議往生」と記されている。従来の浄土教では、浄土に往生して、そこで正定聚に住し、その後成仏すると解せられている。ところが親鸞では上述のように現生正定聚が主張され、この現実で、信を獲たときすでに正定聚に入るのであって、往生は成仏である。この証巻はそれで、獲信の結果の証がどのようなものかをまず示している。この証を得ることについての願は第十一願である。それは、「たとひわれ仏を得たらむに、国の中の人天、定聚に住し、必ず滅度に至らずは、正覚を取らじ」と誓われている。親鸞は必至滅度の願、証大涅槃の願とよんだ。ではその証とは何かといえば、「謹んで真実の証を顕はさば、則ちこれ利他円満の妙位、無上涅槃の極果なり」(一三九頁)といい、さらに「しかるに煩悩成就の凡夫、生死罪濁の群萠、往相回向の心行を獲れば、即の時に大乗正定聚の数に入るなり。正定聚に住するが故に、必ず滅度に至る。必ず滅度に至るは即ちこれ常楽なり、常楽は即ちこれ畢竟寂滅なり、寂滅は即ちこれ無上涅槃なり、無上涅槃は即ちこれ無為法身なり、無為法身は即ちこれ実相なり、実相は即ちこれ法性なり、法性は即ちこれ真如なり、真如は即ちこれ一如なり。しかれば弥陀如来は如より来生して、報・応・化、種種の身を示し現じたまふなり」(一三九頁)といっている。信の必然的な究極は仏教の究極の証である涅槃、真如そのものである。証とか滅度とかいえば、いかにも静的なものに考えられよう。しかし本来、滅度は静的なものではなくして、全く動的にこの現実に働き続けている活動体なのである。それゆえに親鸞は「真如は一如なり」といい、それに続いて「しかれば弥陀如来は如より来生して、報・応・化、種種の身を示し現じたまふなり」というのである。如来はこの現実にその時、その場、その対象に応じて変現自在に働くのである。そして実は私の往生するところ、そこから如来が生まれてきたのである。従って如来の働きはいわゆる還相廻向の働きとして活動しているといってよかろう。いや如来の働きこそ同時にそれは還相廻向の働きなのである。証巻は、証とは何であるか、それは動的な大悲の働きそのものであり、従って如来の救済の働きであるとともに還相の働きであることを示したものである。
親鸞は『往生論註』を引用して還相廻向の論理を展開しているが、それはまさしく真宗の救済成立の根拠の論証である。従って証巻こそは『教行信証』の中心をなすものといえるであろう。読者は心をひそめて、この点に注目して読んで頂きたいと思う。筆者の内面的な解説もここから説き起こしてゆきたいと思う。

なんまんだぶのご法義は慈悲を強調するから、まるで、阿弥陀如来と衆生のむすびつけを対人関係のように表現することが多い。その故であろうか近頃の真宗坊主は情念に訴える「節談説教」や「仏教社会主義」を論ずる輩がもてはやされているきらいがある。このような傾向は、法然聖人や御開山聖人のお示しと違い、芸能化する一途ではないかと、少しく思量する。どうでもいいけど。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

願生偈から論註の解説へのリンク

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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「願生偈」の漢文を眺めながら、はて、どういう意味だったかなと思ふことがある。
そこで、WikiArcに「願生偈」の偈文から『論註』の対応部分へのリンクを作成したみた。

以下、説明。

「願生偈」とは、天親菩薩ご自身が無量寿経(浄土三部経)によって浄土を願生する旨を述べた『浄土論』の冒頭の偈頌である。偈頌は五字一句、四句一行で全部で24行になっている。国土十七種、仏八種、菩薩四種の荘厳を説くので三厳二十九種といいならわしている。 偈頌とは、広博な仏教の意を総摂して短い偈のなかにおさめて記憶し忘れないように保つためのものである。『浄土論』にもこの偈頌の解説(長行)がある。 曇鸞大師の『浄土論』は、この『浄土論』の偈頌と長行部分の注釈書であり上巻は偈頌について、下巻は長行部分の解説になっている。この対応を判りやすく把握できるように「願生偈」の偈頌の文から、それに対応する『浄土論註』の、それれぞれの釈へリンクしてある。
なお、『浄土論註』の上巻は、「仏本(もと)なんがゆゑぞこの荘厳を起したまへる」と、仏が何故にこの浄土の荘厳を起こさねばならなかったかという因の所以を尋ねる形式になっており、下巻は因である本願によって成就せられた浄土を「これいかんが不思議なる」という浄土の果徳そのものの不可思議性を顕わしておられる。

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願生偈から論註の解説へのリンク