玄関とか挨拶のように何気なく使っている日本語だけど、実は仏教語だったり仏教由来の言葉だったりする。
一応辞書には「仏教語」という項目が立てられているのだが、本来の仏教語の意味が見失われて使われるので仏教書を読む場合には困ったことになることが多い。
たとえば「縁起」という仏教語は、縁(よ)りて起こるという意味で仏教にとっては重要な概念を示す語なのだが、縁起が悪いとか、縁起を担ぐなどのように使われる用例によって言葉の本来の意味が判らなくなっている。
仏教は難しいということをよく耳にするのだが、仏教語の示す言葉の定義が混乱しているから難しいと感じるのだと思ふ。いわゆる普段使っている言葉の脳内辞書を仏教語の定義にアップデートする作業が必要なのである。
西欧文化圏では、共有語のラテン語に返すことによって言葉の本来の意味を考察するのだが、日本語は漢語と大和語のハイブリッドな単語を膠のテニヲハでくっつけた膠着言語だから、より元の言葉の意味を考察することは難しい。
ともあれ、日常語になっている仏教語を知ることで、日本語は仏教の影響を受けているということを示唆するページをリンクしてみた。なおリンクページの合掌のシンボルは、私が合掌するのではなく阿弥陀如来がわたくしに浄土へ生まれてくれと合掌して下さる姿をシンボルとしたのである。真宗教団連合のシンボルマークのパクリなのだが、本家ではシンボルの意味すら判らなくなっているのは悲しいことではある。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
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