生老病死

林遊@なんまんだぶつ Post in WikiArc編集, つれづれ
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今回のコロナ禍で思ふのだが、仏教では「生老病死」といふ「苦」を説く。
浄土真宗に造詣のあった小林一茶に、

世の中は地獄の上の花見かな 小林一茶

といふ句がある。華やかに楽しく生きているといふ基底には、自己の存在を奈落に叩き落す地獄があるといふ意である。
人類の文化は、釈尊の死、ソクラテスの死、キリストの死といふ、死といふ事象が根底にあるのだが、現代は、その死を忌避して忘れた死の無い文明であるかもである。
二百歳、三百歳といふ友人や知人が無いように、人は生まれたからには必ず死ぬのである。死ぬという「果」は生まれたといふ「因」である。
釈尊は「老病生死ということを、自分がまだ若く青春と健康と生存の誇りにみちていたときに把えた。自分自身は死すべき存在であって死をまぬがれていない。その死を超克していない者が、他人の死とかそういう死の現象を回避しようとしていることは理に合わない。」(→無明と業─親鸞と現代) と省察されたのであった。

浄土教は、この死と格闘し、生きることも尊いことだが、死ぬことも尊いことであると死を「往生」と定義したのであった。もちろん、仏の本願に誓われた、なんまんだぶと称えた者だけに開示される「往生」であり、ありもしない衆生の側からの信心(faith)を妄想する立場と異なった教義が浄土真宗であった。
ともあれ、

ウイルスで 死ぬのではない
生まれてきたから、死ぬのだ
いまさら 驚くことか……

→生きて 死ぬ いのちを 生きている

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