正しく読む『正信念仏偈』

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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浄土真宗親鸞会 奥越親鸞学徒の集い」というブログがある。

このブログは高森親鸞会講師のブログであり(宗祖の御名前を使うのにしのびないので以下TS会という)、ここで提示された「一切衆生 必堕無間」なる用語に関して脱会者諸兄と議論があった。

この「一切衆生 必堕無間」の例は、TS会会長の高森顕徹著(昭和44年五月五日発行 平成19年1月5日 第22版)の、『こんなことが知りたい①』のp.7に

経典に釈尊は「一切衆生 必堕無間」と説かれています。これは、総ての人間は必ず無間地獄へ堕ちて苦しむということです」

と、経典に釈尊は、とあるがその釈尊が説かれた「一切衆生 必堕無間」という経典とは何かという議論である。

聖典とは聖智を開いた覚者の言葉をいうのであるが、TS会では会長の高森顕徹氏が編纂した短冊に羅列した文言を『教学聖典』と呼称し、会員に暗記を奨めている。このような聖典を編纂できるほどの力量がある人が間違っても経典に釈尊は、と経典の言葉を創作するとは思えない(たとえ日蓮上人の『撰時抄』が、その根拠にしても)。

そのような意味で、元会員が「一切衆生 必堕無間」の出拠、出典を問うことは当然の行為であり、高森顕徹氏が、もしまともな仏教者であるならば真摯にその問いに答えるべきであろう。

さて、件のTS会ブログでは、「一切衆生 必堕無間」なる語の出拠が提示できないため、「正信念仏偈」から、道綽讃「一生造悪値弘誓」、源信讃の「極重悪人唯称仏」を出してきた。言葉というものは使われた歴史やその思想の背景を把握しなければ、正確にその言葉の持っている意味を領解できないものである。しかるにTS会は自説に都合のよい言葉だけを集め元の文章を断章する。これはTS会の会長が他者の著作を剽窃し、自己に都合のよい部分だけを切り張りしてきた習性なのであろうか。

断章して言葉の意味を入れ替え、文脈から切り離した解釈をするのはTS会の常套手段であり、件のブログで引用している「正信念仏偈」の文は、TS会の特徴の断章であり、「正信念仏偈」を破壊するような引用の仕方をしている。

そもそも、「正信念仏偈」は、以下の偈前の文にもあるように、

おほよそ誓願について真実の行信あり、また方便の行信あり。その真実の行の願は、諸仏称名の願(第十七願)なり。その真実の信の願は、至心信楽の願(第十八願)なり。これすなはち選択本願の行信なり。
その機はすなはち一切善悪大小凡愚なり。往生はすなはち難思議往生なり。仏土はすなはち報仏・報土なり。これすなはち誓願不可思議一実真如海なり。『大無量寿経』の宗致、他力真宗の正意なり。

ここをもつて知恩報徳のために宗師(曇鸞)の釈(論註・上 五一)を披きたるにのたまはく、「それ菩薩は仏に帰す。孝子の父母に帰し、忠臣の君后に帰して、動静おのれにあらず、出没かならず由あるがごとし。恩を知りて徳を報ず、理よろしくまづ啓すべし。また所願軽からず。もし如来、威神を加したまはずは、まさになにをもつてか達せんとする。神力を乞加す、このゆゑに仰いで告ぐ」とのたまへり。{以上}

しかれば大聖(釈尊)の真言に帰し、大祖の解釈に閲して、仏恩の深遠なるを信知して、「正信念仏偈」を作りていはく、「正信念仏偈」偈前の文

と、「正信念仏偈」は、知恩報徳のための讃嘆の偈頌であるとその造由を述べておられる。
TS会では、南無阿弥陀仏という行なき信を標榜するせいであろうか、「正信」という信と「念仏」という行の行信が理解できないのであろう。
また、この『正信念仏偈』は、「また方便の行信あり」と仰るように『方便化身土文類』に説かれる、TS会の主張する『観無量寿経』に説かれる行信に対している。このことは、浄土三部経のそれぞれの教説を、三願・三経・三門・三藏・三機・三往生に分類された「願海真仮論」から明らかである。

さて、「一生造悪値弘誓」である。これは「正信念仏偈」道綽讃の、

道綽決聖道難証 唯明浄土可通入
万善自力貶勤修 円満徳号勧専称
三不三信誨慇懃 像末法滅同悲引
一生造悪値弘誓 至安養界証妙果

の、一生造悪値弘誓からの引文であろう。「七祖聖教」を読むことが禁止されているTS会の講師/会員には意味不明だろうが、これは善を修す仏教と信の仏教の違いをあらわす『安楽集』の「聖浄二門」の言葉である。

当今は末法にして、現にこれ五濁悪世なり。 ただ浄土の一門のみありて、通入すべき路なり。 このゆゑに『大経』にのたまはく、「もし衆生ありて、たとひ一生悪を造れども、命終の時に臨みて、十念相続してわが名字を称せんに、もし生ぜずは正覚を取らじ」と。『安楽集』「聖浄二門

リンク先の文章の文を見るまでも無く、「縦令一生造悪」のものが、自力の行を離れ如来回向のなんまんだぶを称えることによって安養界(浄土)の妙果を証すというのが道綽禅師の文の意である。

さて、次は「極重悪人唯称仏」だ。これは源信僧都の『往生要集』念仏証拠門からの引文である。

源信広開一代教 偏帰安養勧一切
専雑執心判浅深 報化二土正弁立
極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中
煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我

四には、『観経』(意)に、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と。
極重悪人 無他方便 唯称念仏 得生極楽  『往生要集』念仏証拠門

ここでも、唯々なんまんだぶを称えることを勧められ極楽に往生するとされているのであって、一切衆生が悪人であるという意味ではない。
ちなみに、我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我の句は、『往生要集』雑略観の、

われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼を障へて、見たてまつることあたはずといへども、大悲倦むことなくして、つねにわが身を照らしたまふ。我亦在彼摂取之中 煩悩障眼雖不能見 大悲無惓常照我身  往生要集』雑略観

からであり、この文の前に「またかの一々の光明、あまねく十方世界の念仏の衆生を照らして、摂取して捨てたまはず。」と念仏衆生 摂取不捨のなんまんだぶを称えるゆえの摂取が顕されている。この一段は親鸞聖人が『尊号真像銘文』で、「「念仏衆生摂取不捨」(観経)のこころを釈したまへるなりとしるべしとなり。」とあることからもあきらかである。

至誠心については、「至誠心釈」、「雑毒の善」でふれたので参照されたし。

信心の語義

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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浄土真宗では「信心正因」といい、浄土へ往生するには信心が正しい因であるとする。
しかし、その信心というものが世間一般で使われている意味と大きく異なっていることから、さまざまな誤解を生むのである。

蓮師の『お文』には、「信心獲得」とか「信心決定」などという語が多いのだが、これをもって衆生の側に信心という物柄を得るように錯覚することが多い。
古来から浄土真宗では、「信は仏辺に仰ぎ、慈悲は罪悪機中に味わう」といわれ、信を自らの側に見ないという特徴がある。「若不生者」(もし浄土に生まれさせなければ、正覚を取らず)という、如来の信を仰いでいくのが浄土真宗の信であるからである。

さて、それでは、信心という語の意味を『一念多念文意講讃』梯實圓著から窺ってみよう。以下の引用は、『一念多念文意』の本願成就文についての解説からの引用である。なお、それぞれの引文については出拠を示すために『浄土真宗聖典』WIKIARCへリンクを作成しておいた。

信心の語義

「信心は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり」といわれるように、親鸞聖人は、信心とは本願を疑う心がないことであると定義された。いわゆる無疑心である。法然聖人が『選択集』「三心章」(『註釈版聖典七祖篇』一二四八頁)に信疑決判を行い、「生死の家には疑をもつて所止となし、涅槃の城には信をもつて能入となす」といわれた釈を承けて、悟りと迷いとを信と疑によって分けるという信疑対を強調し、信の反対概念を疑とされていたからである。
「信文類」の字訓釈(『註釈版聖典』二三0頁)や法義釈(『同』二三四頁)にもそのことが見られる。
そこには「疑蓋間雑なきがゆゑに、これを信楽と名づく」といい、無疑を信楽すなわち信心の名義とされていた。この疑蓋間雑の「蓋」とは、一般的には煩悩の異名で、真理をおおいかくすという意味を表していた。
しかしここでは本願を疑う心は、ちょうどコップに蓋をしたままで水を注いでいるような状態であるというので蓋という言葉を用いられたと考えられる。いくら本願の法水を注がれても自力の「はからい」という蓋をしていたのでは法が心に届かない。「疑いという蓋を法と機の間に雑えない状態を信心という」と知らせようとされたのであろう。

このように本願招喚の勅命を疑いをまじえずに聞いていることは、如来の仰せに随順していることであるから、信は信順と熟字して随順の意味とされる。「信文類」(『同』二二六頁)に引用された善導大師の「二河白道の譬喩」のなかに「いま二尊の意に信順して」といわれているものがそれである。釈尊の発遣と、弥陀の招喚にはからいなく随順して、南無阿弥陀仏という願力の道を我が道と領解したことを信心というのである。

ところで親鸞聖人は、『尊号真像銘文』(『同』六五一頁)に「帰命と申すは如来の勅命にしたがふこころなり」といわれているように、如釆の勅命に随順することを帰命の語義としても用いられていた。
こうして信心と帰命とは、元来別の言葉であったのを、親鸞聖人はどちらも如来のおおせにしたがうという共通の意味をもたせることによって同義語として使われていくのである。

また親鸞聖人は、信心のことを「たのむ」という和語であらわされることがある。『唯信鈔文意』(『同』六九九頁)の初めに「本願他力をたのみて自力をはなれたる、これを唯信といふ」といわれたものがそれである。信心とはわが身をたのむ自力のはからいをすてて、本願他力をたのみたてまつることであるといわれる。
この「たのむ」という言葉は、「行文類」(『原典版聖典』二一一頁)の六字釈にも帰命の帰の字の訓としても用いられていた。
すなわち「帰説(きえつ)也」の左訓に「よりたのむなり」とあり、「帰説(きせい)也」の左訓に「よりかかるなり」といわれたものがそれであって、「本願招喚の勅命」にわが身をまかせている状態をあらわしていた。
「たのむ」には現代では「たよりにする。あてにする。信頼する。たよるものとして身をゆだねる。懇願する」などの意味があるが、親鸞聖人の「たのむ」の用法のなかには「懇願する」という意味は全くなく、「たよりにする、まかせる」という意味でのみ用いられている。それは「たのむ」を漢字で書かれる場合には必ず「憑」を用い、他の漢字に当てはめることがなかったことによって明らかである。「憑」は、「よりたのむ・よりかかる・まかせる」という意味をもち、決して懇願するというような意味はなかったからである。
のちに蓮如上人が信心を専ら「弥陀をたのむ」といい表されたのはこの用法を踏襲されたものである。

また親鸞聖人は信心を「真」の意味とされている。「信文類」(『註釈版聖典』二三0頁)の字訓釈に「信とはすなはちこれ真なり、実なり」といわれたものがそれである。もともと「信」は「真」という意味であり、「真」には「実」という意味があるところから、信を真実といわれたのである。親鸞聖人が、信をつねに真実と関連させ、如来の真実なる智慧と同質の信でなければ如実の信心ではないといわれるのも元来信は真であったからである。
いいかえれば聖人が信心とは「本願他力をたのむ」ことであるといわれたときには、本願こそ究極の真実であるから、はからいなく「たのむ」という信相が成立するのだということを顕したかったのであろう。

通常の仏教では「修因感果」といって、因を修することによって果を感得することが生死の迷いを離れる道であり悟りへの道であるとされる。
しかし法然聖人は、悟りと迷いは信と疑によって決定されるのだと仰るのである。これが有名な「信疑決判」であり、これによって浄土仏教は信心の仏教であると断定されている。これを承けられた親鸞聖人は、その功を「正信念仏偈」の源空讃に讃嘆されておられる。「正信念仏偈」は正信(信)と念仏(行)を偈頌されたものであり信と行は不離である。

還来生死輪転家 決以疑情為所止
(迷いの境界にとどまり、輪廻を繰り返して離れることができないのは、
本願を疑って受けいれないからであり)
速入寂静無為楽 必以信心為能入
(すみやかに煩悩の寂滅したさとりの領域に入ることができるのは、
善悪平等に救いたまう本願を疑いなく受けいれる信心を因とすると決着された。 )

この法然聖人の信疑決判を、曇鸞大師の『浄土論註』に説かれる本願力回向の教説により、信は阿弥陀如来より回向される行信であり、信は仏性であり智慧であり、願作仏心(他力の菩提心)であるから、往生の正因は、信心であるとされたのが「信心正因」という言葉の意味であった。
本願が真実であるからこそ、その真実をはからいなく聞信し、受けいれた念仏の行者に信心が正因ということが成立するのである。

書きかけ.

Open SNS

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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ある方が懇志を提供してくださったので、サーバーを増強し新しいSNSサイトを作ってみた。
ここではSNSとは、同じような価値観、世界観を持っている人のネットワークとして定義しておく。もちろん浄土真宗という宗教によって生と死を超える道を、往生極楽の道として阿弥陀如来の願いを聞いていこうというSNSである。

仏教の三学、戒・定・慧(戒律と禅定と智慧)を磨いて生と死を超え、この世で悟りを得る道もあるのであろう。
しかし、自らで制御できない煩悩に呻吟しながらもなお、仏道を求め仏陀と同じ悟りに至る道もある。それが「往生極楽の道」である。

法然聖人は「聖道門の修行は、智慧をきわめて生死をはなれ、浄土門の修行は、愚癡にかへりて極楽にむまる」と仰ったそうである。これは親鸞聖人の消息の中で「故法然聖人は、「浄土宗の人は愚者になりて往生す」と候ひしことを、たしかにうけたまはり候ひしうへに、ものもおぼえぬあさましきひとびとのまゐりたるを 御覧じては、「往生必定すべし」とて、笑ませたまひしをみまゐらせ候ひき。」『御消息』p.771  とある。

人間を含めた動物、いや植物まで含んで弱肉強食・優勝劣敗が生物の進化という名の歴史であった。
しかし、弱者や世俗から受け容れられない悪人と呼ばれる者を救済の対象として真正面から取り上げ苦闘のなかで組み上げた思想が浄土真宗という、阿弥陀如来の本願を宗となし名号を体とする宗教である。(宗教とは元来、宗とする教えという仏教語だが、明治期に欧米語の翻訳語として使われてから意味が変わった)

日常茶飯の何気ない事柄から、阿弥陀如来に願われている意味を聴いていくのが浄土を真実とする宗である。この”いのち”、どこから来て何処へ行くのか、そして阿弥陀如来とはどのような存在なのかを、心の余裕を持って語り合い、過激な発言にはちょっぴり、はらはらどきどきしならが語り遇えるSNSになって欲しいと思ふ。

念のために書いておくけど、浄土真宗はTS会のいうような、信じて救われるご法義ではありません。
必ずこれで救われてくれるという、阿弥陀如来の本願を聞信するご法義です。私が救われようと思う前に、如来の救済の道が用意されていたことの驚きが如来の名を称えるということです。救われてありがとうというサンキュウの意味は名号にはありません。

Buddhist SNS(よみがえれ仏教) blogを中心としたSNS

Buddhist SNS mixiタイプの日記とフォーラムがメインのSNS

正行・助行・雑行

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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雑行とは、正行に対する語であり、雑は邪雑、雑多の意味で、本来はこの世でさとりを開くことをめざす聖道門の行である諸善万行のことをいう。
この雑行は善導大師の『観経疏』深心釈・就行立信釈正雑ニ行判において、捨てるべきものであるとされている。
就行立信とは、行に就いて信を立てるという意味である。仏教にはさまざまな行があり、浄土門においても十九願の修諸功徳や、『観無量寿経』に説かれる、定善・散善という行があり、どのような行に就いて信を立てるのかというのが就行立信釈である。そして、その就行立信釈を善導大師は深心釈の最後に挙げられて深心釈の結語とされておられる。

浄土教では名号を称えるという行為が正行であり、それ以外の行は助行・雑行として判定し嫌貶されているのが以下の釈である。

就行立信釈の正雑ニ行判
次に行に就きて信を立つといふは、しかるに行に二種あり。 一には正行、二には雑行なり。 正行といふは、もつぱら往生経の行によりて行ずるは、これを正行と名づく。

何者かこれなるや。

一心にもつぱらこの『観経』・『弥陀経』・『無量寿経』等を読誦し、一心に専注してかの国の二報荘厳を思想し観察し憶念し、もし礼するにはすなはち一心にもつぱらかの仏を礼し、もし口に称するにはすなはち一 心にもつぱらかの仏を称し、もし讃歎供養するにはすなはち一心にもつぱら讃歎供養す、これを名づけて正となす。 またこの正のなかにつきてまた二種あり。

一には一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問はず念々に捨てざるは、これを正定の業と名づく、かの仏の願に順ずるがゆゑなり。

もし礼誦等によるをすなはち名づけて助業となす。 この正助二行を除きて以外の自余の諸善はことごとく雑行と名づく。 もし前の正助二行を修すれば、心つねに〔阿弥陀仏に〕親近して憶念断えず、名づけて無間となす。 もし後の雑行を行ずれば、すなはち心つねに間断す、回向して生ずることを得べしといへども、すべて疎雑の行と名づく。 ゆゑに深心と名づく。『観経疏』散善義p.464

この五正行とは、

①読誦正行。浄土の経典を読誦すること。
②観察正行。心をしずめて阿弥陀仏とその浄土のすがたを観察すること。
③礼拝正行。阿弥陀仏を礼拝すること。
④称名正行。阿弥陀仏の名号を称えること。
⑤讃嘆供養正行。阿弥陀仏の功徳をほめたたえ、衣食香華などをささげて供養すること。

の、五種であり、仏願(弘願)の上からいえば④の称名正行が正行であり、読誦、観察、礼拝、讃嘆供養は助行であるとされる。

この「一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問はず念々に捨てざるは、これを正定の業と名づく、かの仏の願に順ずるがゆゑなり。」の、文によって法然聖人が回心されたのは有名な話だが、この文のどの部分によって回心されたのであろうか。
法然聖人は比叡山の浄土教の伝統の中で学び、念仏が往生の行であるということは既に知っておられた筈である。しかし、その念仏の行が自己の選ぶ行であるという事にためらいがあったのであろう。自己の選んだ行であるならば、選んだ主体の過誤は取り返しのつかない結果になるからである。

しかし、往生の正定の業(如来の選定された正しい行業)として、「かの仏の願に順ずるがゆゑなり」の文、漢文では「順彼仏願故」の文によって、念仏は阿弥陀如来の選択(せんじゃく)された行であったと気付かれたのである。私がとかくはからう前に、如来が念仏の行を選択して下さっていたという「順彼仏願故」の文によって回心されたのである。一字で表わすなら「故」である。
その感動を以下のように述べておられる。

「ただ善導の遺教を信ずるのみにあらず、又あつく彌陀の弘願に順ぜり。順彼仏願故の文ふかくたましいにそみ、心にとどめたる也」 (和語灯録)「法然聖人の回心」参照。

これが、第十八願の至心信楽欲生我国乃至十念の本願に順ずる、乃至十念の行であったのである。決定往生の行は念仏一行であるということである。
法然聖人の主著は『選択本願念仏集』であるが、これをほどその書の性格を現している題号はないであろう。まさに、阿弥陀如来が本願において選択してくださったのが念仏であるからである。

親鸞聖人は法然聖人に遇えた喜びを「後序」に感動をもって語られているのは周知である。ここで、親鸞聖人は不思議な言葉づかいをされておられる。

浄土門に入られた感動を「しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す。」と記述されている。雑行を棄てて本願に帰す、と記述するならば雑行の反対語は正行である念仏であるから、雑行を棄てて正行に帰す、とか雑行を棄てて念仏に帰す、と記述するべきであろう。
それをあえて、雑行を棄てて本願に帰す、といわれるのは前述の法然聖人の回心と同じように、念仏が阿弥陀如来の本願に誓われた行であるからである。まさに順彼仏願故の師弟一味の信心である。

TS会では、雑行そのものは捨てるべきものではなく、それを修する自力心が問題なのだという。色法(一切の存在するもののうち、空間的占有性のあるもの)、心法(心の働きの総称)を意図的に混在させて、会員に雑行という名の善を奨めている矛盾を糊塗しているのだから悪質である。それとも色心二法ということを知らないからの妄言であろうか。

さて、善導大師が、雑行を嫌貶されたことは『往生礼讃』の雑行十三失が詳細である。

光号摂化
答へていはく、諸仏の所証は平等にしてこれ一なれども、もし願行をもつて来し収むるに因縁なきにあらず。しかるに弥陀世尊、本深重の誓願を発して、光明・ 名号をもつて十方を摂化したまふ。ただ信心をもつて求念すれば、上一形を尽し下十声・一声等に至るまで、仏願力をもつて易く往生を得。このゆゑに釈迦および諸仏勧めて西方に向かはしむるを別異となすのみ。 またこれ余仏を称念して障を除き、罪を滅することあたはざるにはあらず、知るべし。

専雑得失
もしよく上のごとく念々相続して、畢命を期となすものは、十はすなはち十ながら生じ、百はすなはち百ながら生ず。なにをもつてのゆゑに。外の雑縁なくして正念を得るがゆゑに、仏の本願と相応することを得るがゆゑに、教に違せざるがゆゑに、仏語に随順す るがゆゑなり。

もしを捨てて雑業を修せんと欲するものは、百は時に希に一二を得、千は時に希に三五を得。なにをもつてのゆゑに。すなはち①雑縁乱動する によりて正念を失するがゆゑに、②仏の本願と相応せざるがゆゑに、③教と相違せるがゆゑに、④仏語に順ぜざ るがゆゑに、⑤係念相続せざるがゆゑに、⑥憶想間断するがゆゑに、⑦回願慇重真実ならざるがゆゑに、⑧貪・瞋・諸見の煩悩来り間断するがゆゑに、⑨慚愧・懺悔の心あることなきがゆゑなり。 懺悔に三品あり。一には要、二には略、三には広なり。下につぶさに説くがごとし。意に随ひて用ゐるにみな得たり。

また⑩相続してかの仏恩を念報せざるがゆゑに、⑪心に軽慢を生じて業行をなすといへども、つねに名利と相応するがゆゑに、⑫人我おのづから覆ひて同行善知識に親近せざるがゆゑに、⑬楽ひて雑縁に近づきて、往生の正行を自障障他するがゆゑなり。なにをもつてのゆゑに。余、このごろみづから諸方の道俗を見聞するに、解行不同にして専雑異なることあり。ただ意をもつぱらにしてなせば、十はすなはち十ながら生ず。雑を修して至心なら ざれば、千がなかに一もなし。この二行の得失、前にすでに弁ぜるがごとし。『往生礼讃』P.659 ○数字は便宜の為付した。

TS会で現代の教行信証と呼ばれ出版準備までされながら、他者の著書からの剽窃が表面化し、出版を断念したというTS会会長の記述した『会報』の中から雑行十三失の解釈を引用しておこう。信心に対する考え方がおかしく全て肯定されるわけではないことを断っておく。また下品で言葉遣いが汚く攻撃的ではあるが、TS会の会長は雑行について、このように述べていた時代もあったのである。

>>引用開始

(一)雑縁乱動して正念を失するに由るが故に。
これは己れの努力によっては真実になれるのだと自惚れて、身口意の三業を磨き上げて功徳善根を積み、それによって弥陀の浄土へ往生しようと考えているのだが、か弱い不確実な自力をたよっているのだから、乱れ来る様々な悪縁にあうたびに思い固めた信心に狂いが生じて悩み苦しむのである。順境には感謝出来るが逆境に見舞われると忽ち信心がぐらつき、常に自己矛盾に悲しまなければならぬのである。

(二)仏の本願と相応せざるが故に。
この仏の本願とは阿弥陀仏の本願のことであるが、阿弥陀仏が十劫の古に、すでに十方の衆生は十悪五逆法謗闡提逆謗の屍であることを見抜いて本願を建立なされてあるのに自分はやればやれるのだと自惚れて諸善を積んだり、念仏を励んだりして助かろうと思っているのだから、苦労しながら阿弥陀仏の本願に相応しないのである。これでは助かる道理がない。

(三)教と相違せるが故に。
この教は釈尊出世本懐の教えをいう。即ち釈尊一代四十五年間の説法は我身知らずの我々に曽無一善、一生造悪、必墮無間の実機を知らせ、その悪機を救う弥陀の本願を信知させんが為のものであったのに、その釈尊の真意が判らず自分は善根功徳の積める善人だと思って雑行を励んでいるのだから釈迦一代の一切経を反古にしているのだ。真実教に背反して助かる筈がない。

(四)仏語に順ぜざるが故に。
この仏語は三世諸仏のお言葉であるが、その諸仏の証誠讃嘆のお言葉に順っておらぬからである。すでに十七願、諸仏咨嗟の願が成就して「十方恒沙諸仏如来、皆共に無量寿仏の威神功徳の不可思議なるを讃嘆したまう。」とありそれが、『阿弥陀経』の六方恒沙の諸仏如来の証誠護念のお言葉となったのであるが、これは決して諸善万行の徳を讃嘆なされたのではない。南無阿弥陀仏の名号に逆謗の屍を絶対の幸福に生きかえらせ得る威神力のあることを証明し讃嘆なされたものであることは明らかである。この仏語も知らず善根功徳をつんで助かろうと雑行を励んでいるのは当にこれらの仏語を疑い背き順じていないのだから助かることがないのである。

(五)係念して相続せざるが故に。
信楽開発した人なら仏凡一体機法一体だから動くままが、南無阿弥陀仏で問題にならぬことだが微塵ほども真実のないものが、善根を励んで行こうと力んでいるのだから心にかけながらも相続出来ないのは当然である。
(六)憶想間断するが故に。
信決定した人ならば現当二益の大益を頂いているから「憶念の心つねにして、仏恩報ずるおもいあり」だが、自力で励んだ善根功徳で助かろうとするのだから静かな心の時と散乱している時と同じであり得ない。善がやれた時は助かるように思い悪が噴きあげた時はこれでは駄目だと悲観せずにおれないから往生の想念は常に間断せずにはおれないのである。

(七)廻願の慇重真実ならざるが故に。
善根がつめるのだと自惚れているのだから如来に向かっても廻向発願して願生する念が慇懃ではなく、また誠実でもない。善因をつんで善果を得ようという打算的な気持ちだから恭敬の念も尊重の念もある道理がないのである。

(八)貪瞋諸見の煩悩来りて間断するが故に。
三業を真実に出来ると自惚れて努力はしていても貪欲、瞋恚等の煩悩や様々の悪邪見がおきて折角の善根も悉く雑毒の善や虚仮の行となって修道の心を障げることになるのである。

(九)慚愧懺悔の心あることなきが故に。
懺悔といっても仏教では上中下の三種に分けて説かれている。上品の懺悔は全身の毛孔から血を流し眼から血涙を流す熾烈な懺悔である。中品は全身より熱い汗、眼から血涙を流す懺悔、下品は全身と眼から熱汗熱涙を流す懺悔をいう。「真心徹到する人は、金剛心なりければ、三品の懺悔する人と、ひとしと宗師はのたまえり」と『和讃』にあるように、真実の信心が徹底すれば我機に呆れ、本願に呆れ、無二の懺悔をさせられるけれども、自分は諸善が積める善人だと自惚れている者に慚愧の心や懺悔の心がないのは当然である。
以上、九失を聖人は十九願の行者の欠点となされ、折角聖道仏教を廃して浄土仏教に入りながら定散自力の心が廃らず雑行を捨て切れないで、またしても元の古巣へ舞い込まねばならぬとは残念至極ではないかと「定散諸機各別の自力の三心ひるがえし、如来利他の信心に通入せんとねがうべし」と速に雑行を投げすてることを祈念していわれるのである。
{中略}

(十)相続して彼の仏恩を念報せざるが故に。
如来のみ心が判らず、仏壇を立派にしたり、礼拝読経したり、御仏飯やお花を供養したり、念仏を称えることが御恩報謝だと思っている者がいるが、とんでもない思い違いである。
「弥陀の名号称えつつ、信心まことにうる人は、憶念の心つねにして、仏恩報ずるおもひあり」「釈迦弥陀の慈悲よりぞ、願作仏心はえしめたる、信心の智恵にいりてこそ、仏恩報ずる身とはなれ」と『和讃』にあるように、阿弥陀仏が最もお喜びになるのは、我々が信心決定することであり、信楽開発の身になることである。
十劫の古より立撮即行のみ心は、偏えに我々が名号大功徳を受けとって大安心大満足になることを念じての御苦労であれば、これ以上に阿弥陀仏の御満足になることはないのである。その阿弥陀仏のみ心を知らないで、信心決定もせず、これだけ朝夕のお勤行欠かさずにしているから、これだけ真心こめて供養しているから、これだけ念仏称えているから、これだけ御恩報謝しているからと自惚れているのだから続く道理がない。
まだ助かってもいないものに御恩の判る筈もないし、御恩の判らぬ者に報謝の心のないのは当然である。「助正ならべて修するをば、すなわち雑修と名づけたり、一心をえざる人なれば、仏恩報ずる心なし」と聖人は喝破なされている。にもかかわらず、信心決定(助かる)することを忘れて礼拝したり読経したり、仏壇を立派にしたり御仏飯やお花を供養したり、念仏することを報謝だと思って、自惚れて、つとめているから、これだけやっているのだから大丈夫と自力をさしむけて、阿弥陀さまを泣かせているのだ。御恩報謝どころか弥陀を疑いはからい殺しているのだ。
「仏智疑う罪深し、この心おもいしるならば、くゆる心をむねとして、仏智の不思議をたのむべし」である。

(十一)業行を作すと雖も常に名利と相応する故に。
「真実の心はありがたし、虚仮不実のわが身にて清浄の心もさらになし、修善も雑毒なる故に、虚仮の行とぞ名づけたり」と信楽開発して自力浄尽されていないから、自力のはからいが離れ切れないで、口では他力より助かる道はないとはいいながら、これだけ善根をつんでいるから他人がほめてくれるだろう。こんな親切しているから何かよいことがあるだろう、これだけ朝夕勤行しているから死んでも悪いところへはゆかんじゃろう。こんなに仏法の為につくしているから何か御利益があるだろうと、やることなすことが自分の名聞や利養を離れて考えられないのである。

(十二)人我自ら覆うて同行、善知識に親近せざるが故に。
「おれがおれが」という我慢我執の心によって真の知識や同行に近づくことが出来ないのである。「至言は耳にさからう」の諺のように真の知識や同行の言葉はきびしく、はげしく辛辣である。真実の仏法を聞くということは叱られるということである。叱られて有難いと思える程、我々の迷いは浅くないから、真の同行や知識の言葉は聞きたくないのである。
俺だけは大丈夫だと我慢我執の自力の心で固めた信心を持って安心している者は、法の手元の有難い話なら調子が合って喜べるが機の真実を聞かされると信心が動揺し不安になるから、折角、真の知識や同行にめぐり遇いながら離れよう離れようと努めるのである。

(十三)楽みて雑縁に近づきて往生の正行を自障々他するが故に。

自身の信仰の程度のお粗末なことに気がつかず、真実の知識や同行を疑謗して「あんなハッキリしたことをいうのは異安心じゃ、あんな話をきくと迷うぞ」と自分だけが近よらないようにするだけでなく、他人にまで吹聴して、自から第六天魔王になって真実の仏法を求める邪魔をするのである。
>>引用終了

かっては廃立を前面に打ち出し、三願転入を批判していたTS会会長であるが、いつしか三願転入を説き始めたりして腰が定まらないのは、浄土真宗という本願力回向というご法義を理解できないためであろう。当人が理解できていないことを聴かされるほど辛いことはないし会員には理解不能である。しかるに不思議なことにTS会の会員や講師は、教えがころころ変わったり矛盾した会長の言葉や行動を、私には理解できない「深い御心」と受け取るそうである。まさに奴隷の主人に対する服従の姿勢なのだが、自らの人生を他者に委ねてしまう会員は、TS会や講師そして会員間で共依存の関係に陥っているのかも知れない。

浄土真宗というご法義は、なんまんだぶを称える宗旨であり、凡夫が仏の覚りを得るにはこれしかないという、大乗至極の宗教である。

念仏成仏これ真宗
万行諸善これ仮門
権実真仮をわかずして
自然の浄土をえぞしらぬ

浄土真宗はお念仏を称える法義であることは上記の和讃で明らかである。また、『信巻』の「信一念釈」は『行巻』「行一念釈」と不離であり一具であるのだが、TS会会長は若年時の一時の感情の爆発を信心獲得と誤解したところから間違いがはじまったのであろうか。

TS会の会長は、雑行を捨てて正行のなんまんだぶに帰せという「従仮入真」という宗学用語を、仮からしか真に入れないと教えいるらしい。
また、『真仏土巻』の「真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す。」という、これから述べる『化身土巻』の行信に迷っては駄目ですよ、と戒めた親鸞聖人の言葉を、仮をやってこそ真に出会えると全く逆の意味で教えているのである。
このような言説に騙される方もどうかと思うのだが、TS会では外部情報を遮断して本物の浄土真宗への道を遮断している。何千万何億人という人が、本願に誓われた往生の正行である、なんまんだぶを称えよという本願を信じお念仏してきたのが浄土門であり、その結論が浄土真宗である。
歎異抄の著者の言うとおり「本願を信じ念仏を申さば仏に成る」というのが、法然・親鸞両聖人のお勧めである。


阿弥陀如来のご信心

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ, 管窺録
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浄土真宗では信心をご信心と表現することが多い。
信について、『教行証文類』「三心字訓釈」で、「信楽といふは、信とはすなはちこれ真なり、実なり、誠なり…」とある。
これは信心とは真実など全くない衆生の側で論ずるのではなく、阿弥陀如来の信心が衆生のために恵まれることを意味している。このようなわけで如来の信心であるから「ご信心」と言い慣わしてきています。
ところが、信心というものを勘違いして、自分が思いこむ事を浄土真宗のご信心だと説く団体がある。「信巻末」の信一念釈を誤解しているのだが、このような人は「行巻」の行一念釈も知らないから、選択摂取されたお念仏を軽視するので困ったものだ。

そこで、如来の信心という梯實圓和上の講義の抜書きをUPしてみる。

>>>
如来が私達を救うという事に付いて、如来の側に一点の疑慮もない。決定して摂取する。決定摂取というのが如来のお心です。一点の疑い心もない。「あいつを助けてやる事できるかな。うまい事いくかな」そんな一点の疑い心もない。必ず摂取する。これは決定摂取です。

その決定摂取に対した時に私の方から「助かるだろうか、どうだろうか」という様なものがある訳がない。向こうが「助ける」と仰っているのに、こちらが助かるかどうかという事を案じるという事は如来の仰せを聞いていないという証拠です。如来の仰せを仰せの通りに聞けば疑いようがないのです。疑いを雑えるという事はまことに失礼な事だという事です。如来の仰せを誤解している事ですから如来様に対して非常に失礼な事なのです。

そこで「如来の誓願疑蓋雑わることなし」故に私の領受また疑蓋雑わることなし。それが信楽という事だ。だから信楽というのは如来の心でもあり衆生の心でもある。衆生の心でもあり、そのままが如来の決定摂取の心でもある。それが信楽というものだという事です。だから涅槃の真因決定という事になる訳です。これが「三一問答」の結論なのです。
三心一心の問答というのは、これが言いたいのです。

「疑蓋雑わることなきがゆゑに信とのたまへる」ここに疑蓋の「蓋」には「ふた」という左訓があります。これは面白い左訓です。蓋というのは鍋の蓋、コップの蓋みたいなものです。鍋に蓋をしたまま、コップに蓋したまま水を入れようとしても入りません。全部外へ出てしまって一滴も中に入りません。ちょうどその様に心に蓋をしていたら法は入らない。
心の蓋をとれば水は自然と入っていくように心の蓋を取れば法は法の通りに届いて来るのです。その法が法の通りに届いた相(*すがたのこと)を信というのです。だから信というのは法が機にある相です。法が衆生の機の上にある相を信というのです。だから信を得るといいますが、信に体はありません。

信というものは疑いのない状態です。ない状態なのです。だから宗祖は「信心というは如来の御誓いを聞きて疑う心のなきなり」ここで「疑いない心」とは言わないで「疑う心なきなり」といいます。
では何があるのか、あるのは如来の御心が私に届いているという事なのです。あるのは如来の心が私にあるのです。だから信は私の上にあるけれども私のものではない。それを如来回向の信心というのです。

「それでは具体的に信の物柄というのは何ですか」といったら、それは勅命です。如来の仰せなのです。如来の仰せの他に信というものは存在しない。だから「勅命の他に領解なし」如来の仰せを聞く以外に信というものはない。だから仰せを仰せの通りに聞き入れている状態を信心と呼ぶのです。
だからあるのは如来の仰せがあるのです。仰せがあるという事は、仰せとなって如来の心が私に届いているという事です。

必ず救おう、救済するという如来の心が私の上に顕現している相が信心っというもの。だから信心とは如来の心である。衆生の上にあるけれども如来の心なのです。だからまた逆に言うと「誓願疑蓋雑わる事なし」誓願に疑いがないという事は、その如来の心が私の上に届いて来ないと意味をなさない訳です。だから「常に信は仏辺に仰ぐ」と昔の人が言うのはそれなのです。信心は自分の心に探さない。自分の心の中に「私は信心を得たか」と自分の心を探して見たって何もないのです。あるのは妄念煩悩だけです。何も無い。これは実に見事なもので何も無くなります。あるように思っていのは、あれはみな錯覚です。熱が三九度出たら頭の中には何もない。フワーとしてしまう。何にも残りません。実に見事に無くなってしまいます。そんなものなのです。

しかしそのままでお浄土行くのです。だから何か持って行くのではないのです。何もないのです。そのままで、生まれたままの裸で行くのです。だから信心らしいものを心の中に見つけたら、それはまず偽物でしょう。それは自分がそう錯覚しているだけです。だから感激があっても、そんなものはすぐに消えるでしょう。だから信心っていうのは感情ではないのです。そういう事です。
>>>

ご信心

疑いの蓋

補足:
ここは、三経通顕(真仮分判)釈についての講義の一部です。

「ここをもつて『大経』には「信楽」とのたまへり、如来の誓願、疑蓋雑はることなきがゆゑに信とのたまへるなり。」「註釈版p.393

ここの文章の疑蓋の蓋という漢字に「フタ」という左訓(文字の意味を示したカナ)がされていて、それについての講義から画像をUPしました。「原典版」ではp.496です。元来、疑蓋とは五蓋の欲貪蓋・瞋恚蓋・惛眠蓋・掉悔蓋・疑蓋の疑蓋のことで煩悩の異名。ゆえに通常は蓋にはカイと右訓されている。

高森親鸞会の人は「信一念釈」がお好きらしく、

「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。「註釈版p251」

を、よく依用します。意味が判っていないのでしょうが、これは原文では、
聞者 衆生聞仏願生起本末 無有疑心 是曰聞也 言信心者 則本願力廻向之信心也。

ここでは聞によって信をあらわしておられるのですが、この無有疑心を『一念多念証文』では、

「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふ は、信心をあらはす御のりなり。「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり「註釈版p.678」

と、仰って、信心とは「疑ふこころのなきなり」とされています
ない状態を信心と仰っているのであって、高森親鸞会でいう、ハッキリしたとか、只の只のただじゃった、というような感情の爆発のような心のない状態を信心というのだと仰せです。

ところが、高森顕徹氏は、「無有疑心」を「疑いの無い心」が有ると思いこみ、それを信心であると思ったのが長い高森親鸞会の不幸の始まりでした。いわゆる一時の感情の爆発を信心と高森氏は錯覚してしまったのでしょう。こういう人は自分が真剣な求道をしていると思っている人に結構居ます。

「信一念釈」の一念は本願の名号を領受した初めの時間の瞬間をいうのですが、何か物柄が自分の心に出来上がったことのように領解してしまったのでしょう。

一念岩をも通すなどというように、ひたすら心に深く思いこむことを一念であり信心であると誤解した立場なのでしょう。
高森氏は軍国少年だったそうですが、一念という言葉を当時の軍国主義の影響から、一念岩をも通すのようにひたすら心に深く思いこむことと受け取ったのでしょう。「行一念釈」と「信一念釈」は不離であり古来から行信不離といわれています。

これは、私が助かる法を聴く聴き方と、私を助ける法を聴く聴き方では聞き方が違うのですが、前者の求道主義者は、一念をひたすら心に深く思いこむことと取り誤ってしまうのです。「単信無称」の観念論に陥ってしまうのです。

越前でも「信心乞食」といって、このご法義の信心を勘違いして、確かな物柄というか体験を欲しがり、聴聞に苦しんでいる人が沢山いらっしゃっいましたが、救済の法で苦しむなんて本末転倒ですね。

富士の白雪ゃ朝日で溶ける
凡夫疑い晴らさにゃ解けぬ
とけよとけよというよりも
晴れたお慈悲を聞きほれる

などと越前の先達は言っていましたが、私の心に着目するよりも私を助ける法に着目すべきなのです。
そして、それを聞信している相(すがた)が、このご法義の信心です。
弥勒菩薩でさえ成仏するには56億7千万年もかかるというのに、末世の凡夫が拵えた信心では往生成仏は不可能です。
「信巻」では、衆生には、「法爾として真実の信楽なし。」とされていますが、光に向かってこれを求めよというTS会はおかしい人の集団であるとしか思えません。

阿弥陀如来のご信心であるからこそ、涅槃の真因に成り得るのです。
凡夫がどのように「身心を苦励して、日夜十二時急に走り急になすこと、頭燃を救ふがごとくするものも、すべて雑毒の善と名づく。」「至誠心釈p.455」と善導大師が仰っているように、真実(至誠心)は凡夫の側にはありえないのです。

ましてや、
・獲信の因縁(宿善)として諸善をせよ
・諸善と獲信はよい関係にある
・善をしなければ信仰は進みませんよ

などの雑毒の善を奨め三願転入しなければ救われないと教えるに至っては、まさに

悲しきかな、垢障の凡愚、無際よりこのかた助正間雑し、定散心雑するがゆゑに、出離その期なし。みづから流転輪廻を度るに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。まことに傷嗟すべし、深く悲歎すべし。

現代語:
悲しいことに、煩悩にまみれた愚かな凡夫は、はかり知れない昔から、迷いの世界を離れることがない。果てしなく迷いの世界を生れ変り死に変りし続けていることを考えると、限りなく長い時を経ても、本願力に身をまかせ、信心の大海にはいることはできないのである。まことに悲しむべきことであり、深く嘆くべきことである。

ですね。

聖道門と浄土門

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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TS会の人は浄土真宗を通じてしか仏教という教えを捉えていないのでないかと思ふ。
特に講師と言われる人たちは、高森氏の歪(いびつ)な仏教理解の視点を離れて仏教というものに対して謙虚に学ぶべきだろう。

高森氏自身が聖道門仏教と浄土門仏教の綱格の違いが分からないから、TS会では聖道・浄土の教えが混じり合って、意味不明な高森教になってしまっているのである。
浄土門仏教は聖道門仏教を批判的媒介項とした仏教であって、いわば人間側の論理ではなく如来の側からの論理によって成り立っているのである。このことが理解できないから、

・獲信の因縁(宿善)として諸善をせよ
・諸善と獲信はよい関係にある
・善をしなければ信仰は進みませんよ

などと善という名の献金と人集めを声高に叫び、TS会の講師も高森氏の蒙昧な仏教理解に引きづられて、人生の時間を無駄にしているのであろう。
そもそも、浄土真宗のおける善とは『浄土論註』の真実功徳釈、

「真実功徳相」とは、二種の功徳あり。一には有漏の心より生じて法性に順ぜず。いはゆる凡夫 人天の諸善、人天の果報、もしは因もしは果、みなこれ顛倒、みなこれ虚偽なり。このゆゑに不実の功徳と名づく。『浄土論註』p.56

に、あるように、凡夫 人天の諸善、人天の果報、因も果も、すべて顛倒であり虚偽であるとされている。
たぶん、修善を奨める高森氏が、浄土門と聖道門を分判し仏教の綱格が違うのだという、道綽禅師の「聖浄二門判」を知らないからであろうと思われる。

道綽禅師の『安楽集』の「聖浄二門判」を600年後の法然聖人が、

「いまこの浄土宗は、もし道綽禅師の意によらば、二門を立てて一切を摂す。いはゆる聖道門・浄土門これなり。」『選択本願念仏集』「二門章

と開顕されたのが浄土宗である。

いわゆる、全仏教を聖道門と浄土門に分判し、浄土門仏教は聖道門の論理と全く違う論理による仏教であるとされたのが法然聖人であった。
これは仏教史におけるコペルニクス的転回であって、まさに自己を中心とする世界観ではなく阿弥陀如来を中心とする世界観であった。浄土真宗ではあまり注目されていない道綽禅師だが、この「聖浄二門判」が600年後の法然聖人の琴線に触れたのである。

これを受けた親鸞聖人は、浄土真宗は人間側の論理ではなく、阿弥陀如来の側からの論理によって成り立っていると「本願力回向」という阿弥陀さまの本願のご法義を顕わして下さったのである。
廃悪修善が救済の条件であるなら、廃悪修善ができない人は救済対象ではないのか。犯してしまった悪に泣き苦悩している人は仏教では救われないのか。
このような、自業自得の因果論から、煩悩に悩み苦悩に喘ぐ凡夫に焦点を結んだのが阿弥陀如来の本願のご法義である。
自因自果の自業自得の仏教から、いわば苦悩する衆生への医療の論理で成り立っているのが浄土真宗である。

法然聖人は『選択本願念仏宗』「約対章」で、TS会の奨める雑善に約対して念仏の優位性を、

ただ念仏の力のみありて、よく重罪を滅するに堪へたり。ゆゑに極悪最下の人のために極善最上の法を説くところなり。例するに、かの無明淵源の病は、中道腑臓の薬にあらずはすなはち治することあたはざるがごとし。
いまこの五逆は重病の淵源なり。またこの念仏は霊薬の腑臓なり。この薬にあらずは、なんぞこの病を治せん。『選択本願念仏集』「約対章

と、示されているのもその意であり、親鸞聖人が五逆罪、謗法罪を犯した者、仏教に関心のない者に対して、

それ仏、難治の機を説きて、『涅槃経』(現病品)にのたまはく、「迦葉、世に三人あり、その病治しがたし。一つには謗大乗、二つには五逆罪、三つには一闡提なり。かくのごときの三病、世のなかに極重なり。ことごとく声聞・縁覚・菩薩のよく治するところにあらず。善男子、たとへば病あればかならず死するに、治することなからんに、もし瞻病随意の医薬あらんがごとし。もし瞻病随意の医薬なからん、かくのごときの病、さだめて治すべからず。まさに知るべし、この人かならず死せんこと疑はずと。善男子、この三種の人またまたかくのごとし。仏・菩薩に従ひて聞治を得をはりて、すなはちよく阿耨多羅三藐三菩提心を発せん。『教行証文類』「逆謗摂取釈」

と、医療の論理を説かれているのもその意である。

この阿弥陀如来のご法義の対して、高森教では病気になったら、それは自因自果だからあきらめろ、善をしなかったから自業自得の当然の報いであるから地獄へ行けというのであろう。これはもう仮ですらなく善と恐怖を利用した邪義の宗教と言わねばならないのである。

コピー&ペースト正本尊

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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偽造本尊

偽造本尊

TS会のご本尊は、貼り合わせの偽造だったのか。

親鸞聖人のご署名を真っ二つに分断するなんて酷すぎる。
愚禿と名乗られた親鸞聖人の深い御心を無視するのが、高森氏の深いみこころなのかな。
現物が手に入ったら、しかるべき処で御真蹟を精査して貰おうと思っていたけど、その必要もないか。高森氏は、まさかネットで御開山の御真蹟が公開されるとは予想してなかったんだろうな。
それにしても、昭和51年発行の親鸞会と本願寺の主張『どちらがウソか』で以下のように記述してたTS会だったのに、切り抜き貼り付けのコラージュ偽造の本尊を会員にレンタルしてたなんて、会長は切腹ものだよな。
「言うまでもなく御本尊とは、読んで字の如く、根本に尊ぶべきものであり、宗教、特に仏教にとっては最も重要な意味を持つものであることは、何人も認めるところであります」(『どちらがウソか』親鸞会p5)

正本堂とか正御本尊とか変に正という事にこだわるTS会なのだが、こんなコピー&ペーストしたものを「正御本尊」と呼び、夜中に脱会者宅へ押しかけて取り返そうとするって、おかしな行為だな。偽造した本尊だと世間にばれるのが怖いから、相手の迷惑も顧みず夜中に大勢で押しかけて無理やり回収しようとしているのだろう。かまたさ~んと絶叫する女性の声が哀れだ。

TS会って、やっていい事とやっちゃいけない事の区別がついてないんだろうな。それにしても親鸞聖人の御真蹟を真っ二つに裁断するなんて、宗教者として以前に人間として有り得ない行為だよなあ。
『どちらがウソか』と他を非難する前に、偽造の偽物の本尊を会員に下付してきた罪は重いな。
もちろん、それに加担してきたTS会の幹部や講師はウソの本尊を頒布した責は当然に取るべきだなと思ふ。
なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ

果因の道理

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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阿弥陀如来の果が因になるのです

TS会では善因善果 悪因悪果 自因自果の因果の道理をやかましく言うらしい。これに嵌って苦しんでいる人が多いと思うのでちょっと書いてみる。

米を作る為に因である種籾を播けば、果という稲が出来る。当たり前の事である。
しかし、ちょっと待て、その種は何処から持ってきたと問えば、去年獲れた稲の種籾だと答えるであろう。
つまり、去年取れた「果」である種籾を「因」として今年の果である稲を獲るわけである。

浄土真宗では、因位の阿弥陀如来が法蔵菩薩として五劫兆載の修行の果として、衆生を救う為に全徳施名と名号になって下さったというご法義である。阿弥陀如来から言えば名号は果である。

この如来の徳であり果である名号を林遊が受け取るのを信心といい、これが往生成仏の種(因)であるというのである。

(果=因)→往生成仏の果、ということである。

果である阿弥陀如来の名号が、林遊には因となって往生成仏の果となるのである。
単純に言えば、仏願の正起本末を聞くとは、阿弥陀如来の果を聞くことであり、その果が林遊の往生成仏の因であるという事を聞くことである。

TS会では善因善果として善を奨めているが、人間の行った善は往生成仏の因にはなり得ない。「善をしなければ信仰は進みません」とか「諸善は獲信とよい関係にある」というような理屈は本願力回向の浄土真宗ではあり得ないのである。
人間がどのような善(因)を行っても、それは人間の世界での因果であって阿弥陀仏の世界の因果ではないからである。

『往生論註』真実功徳釈では、真実ということを以下のようにいう。

「真実功徳相」とは、二種の功徳あり。一には有漏の心より生じて法性に順ぜず。いはゆる凡夫 人天の諸善、人天の果報、もしは因もしは果、みなこれ顛倒、みなこれ虚偽なり。このゆゑに不実の功徳と名づく。
二には菩薩の智慧清浄の業より起りて仏事を荘厳す。法性によりて清浄の相に入る。この法顛倒せず、虚偽ならず。名づけて真実功徳となす。いかんが顛倒せざる。法性によりて二諦に順ずるが ゆゑなり。いかんが虚偽ならざる。衆生を摂して畢竟浄に入らしむるがゆゑなり。
往生論註 p56

凡夫人天の諸善や果報は、因も果もすべて顛倒であり虚偽であるという。因位の法蔵菩薩の智慧清浄の業によって成就された浄土には、凡夫人天の善行は不実なのである。TS会のように、このような顛倒・虚偽の善を追い求めさせるような幼稚な因果論こそ、会員を虚偽の善へ向かわせて阿弥陀如来の選択された真実の道から遠ざけているのである。

浄土真宗は往生即成仏であり、仏に成る為には仏の果を用い、その果を林遊の因として仏に成るご法義である。
『尊号真像銘文』では、 安養浄土の往生の正因は念仏を本とすとある。これが仏になる種(行業)である。

『選択本願念仏集』といふは、聖人(源空)の御製作なり。「南無阿弥陀仏往生之業念仏為本」といふは、安養浄土の往生の正因は念仏を本とすと申す御ことなりとしるべし。正因といふは、浄土に生れて仏にかならず成るたねと申すなり。
尊号真像銘文 p665

人間の種(因)ならまた人間という果を生み、仏の種(因)なら仏に成る(果)のは当然である。仏の果である種、仏の功徳の総体である名号を称えるから何の不思議もなく仏に成るのである。当たり前のことであろう。

なんか、称名正因みたいな文章になっちゃたな、まあいいか(笑

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ、やったね

電車間違えた

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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幸福行き大阪駅で東京行きの電車に乗ろうとして、福岡行きの電車に乗ってしまったら悲惨である。
途中で間違いに気が付かないと、時間が経てば経つほど目的地の東京が遠くなる。
しかし、東京へ行くためには、必ず福岡行きの電車に乗る必要があるという人がいる。

TS会の会長であるT氏である。
T氏が駅にやってきた。
ホームへ出てみたら上り「報土行」の線路と下り「化土行」の線路がある。
目的地は上り線の報土なのだが、なぜ上り線と下り線の線路があるのだろうとT氏は考えた。
上りの線路だけでよいのに下りの化土行きの線路があるには、きっと意味があるはずだ。
上りの線路だけで良いならば、下りの線路があるはずがない。

「なにしろ自惚れ強く、相対の幸福しか知らない我々を、絶対の幸福まで導くことは難中の難事。どうしても善巧方便が不可欠だった」『文証で破る』p16より

という論理である。

さて、T会長は駅のホームで叫ぶのである。
報土へ行きたいなら「化土行」の電車に乗ろう、「化土行」の電車に乗ることこそが報土へ行く早道なのだ。
絶対の幸福とは方便の彼方にあるのだ。方便があってこその報土だ。
方便の善を積まずにどうして善が不要であるという真実の報土へ行くことが出来るか、無駄な線路がある筈がないではないか、と。

通常の思考の人間ならこんな戯言は聞かないのだが、時々人の言葉を真に受ける真面目な人が存在する。
このような人は、T氏に騙され「絶対の幸福」行きの列車と思い込み「化土行」の電車に乗るのである。

しかし、途中でひょっとして間違っているのではないか、と思うのだが周囲の誰も言い出さない。しかたがないので、乗客(会員)は報土行きの列車であると必死に思い込もうとする。
なにせ蓮如上人以来の偉い善知識さまであるから、疑問を抱くことは謗法である、と進んで思考停止状態になる。

たまに間違いに気付いて列車を乗り換える(真実へ転入する)人が出てくる。
すると、全員で降りた人を地獄行きとか謗法罪と罵って残った乗客の団結を固めようとする。列車内では、「善をしなければ信仰は進みません」とか「諸善は獲信とよい関係にある」などと煽られ所持金と貴重な時間を吸い取られる。
「善に励んだら善が出来ないと知らされる」という名の電車そのものが間違っているのだが、乗客は「ゆで蛙症候群」に陥って、深い御心で茹であげられていく。

もっともっとと励んで、修諸功徳の電車の果てである行き着く先は臨終である。ここで積んできた善の真価が問われる。
第十九の発菩提心と修諸功徳に合致しているかいないかの判定である。
「寿終るときに臨んで、たとひ大衆と囲繞してその人の前に現ぜずは、正覚を取らじ」の第十九願であるから、臨終に阿弥陀如来の来迎がなかった場合は、全ての修善行為は失敗であり、やり直しであって化土までも往生できない。善因善果・悪因悪果の自業自得の因果論に迷い善悪を超えた阿弥陀如来の仏智不思議を疑い「造毒の善」を励んできた結果である。

かくて、化土行きの列車に乗っている時間が長ければ長いほど、真実の浄土(大願清浄の報土)への距離は開いていくばかりである。
(乗ってる電車が違うのにねえ)

ちなみに、T氏の主張、

「なにしろ自惚れ強く、相対の幸福しか知らない我々を、絶対の幸福まで導くことは難中の難事。どうしても善巧方便が不可欠だった」

この主張は第十八願を謗法しているのだがT氏は気付いていない。
『歎異抄』に、

「弥陀、いかばかりのちからましますとしりてか、罪業の身なれば、すくはれがたしとおもふべき」と候ふぞかし。

とある。

『無量寿経』に「難中之難無過此難」とあり、阿弥陀経』には「難信之法」とある。
この難は、衆生に善が出来るという自力根性によって本願力を疑う衆生側の<難>を指すのである。

T氏は「難中の難事」と、弥陀の救済力を難事であると言っている。
これは第十八願の十方衆生一切を救うという本願力を疑い謗法している立場だ。「弥陀、いかばかりのちからましますとしりてか」このような誹謗を吐くのであろうか。

『浄土論』荘厳不虚作住持功徳成就には、

なんとなれば荘厳不虚作住持功徳成就とは、偈に「観仏本願力 遇無空過者 能令速満足 功徳大宝海」といへるがゆゑなり。「不虚作住持功徳成就」とは、けだしこれ阿弥陀如来の本願力なり。
{中略}
いふところの「不虚作住持」とは、本(もと)法蔵菩薩の四十八願と、今日の阿弥陀如来の自在神力とによるなり。願もつて力を成ず、力もつて願に就(つ)く。願徒然な らず、力虚設ならず。力・願あひ符(かな)ひて畢竟じて差(たが)はざるがゆゑに「成就」と いふ。
[註釈版聖典七祖篇p.130]

親鸞聖人は、この句を喜ばれ、和讃(やわらげほめ)されている。

本願力にあひぬれば
むなしくすぐるひとぞなき
功徳の宝海みちみちて
煩悩の濁水へだてなし

T氏は、ひとり第十八願の念仏往生の願だけが成就していないというのであろうか。
善の奨めは、実は善を出来ない人を排除している論理なのだが、病院のベッドでなんまんだぶつを称えているばあちゃんには阿弥陀如来の救済力は届いていないというのであろうか。
このような善を強制するT氏の立場こそ、善悪を超えて衆生を救済する、阿弥陀如来の本願力を疑う誹謗正法であると言わずして何と言うのであろうか。
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雑毒の善

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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TS会では、「善をしなければ信仰は進みません」とか「諸善は獲信とよい関係にある」などと教えているそうである。
善とは何か、という定義をしないで善を奨めるから会員は指示された「人集め・金集め」が善だと思い込んでしまう。

さて、浄土真宗でいう善とはなにか。

TS会が善の出拠とする『観無量寿経』では、

もし衆生ありてかの国に生ぜんと願ずるものは、三種の心を発して即便往生す。なんらをか三つとする。一つには至誠心、二つには深心、三つには回向発願心なり。三心を具するものは、かならずかの国に生ず。
[註釈版聖典p.108]

と、ある。

これは古来から略観経とよばれ「具三心者 必生彼国」(三心を具するものは、かならずかの国に生ず。)の「必」に浄土願生者が深い関心を持って来たところである。

さて、善導大師は『観経疏』至誠心釈下で次のように仰っている。

「『経』(観経)にのたまはく、「一には至誠心」と。 「至」とは真なり、「誠」とは実なり。
一切衆生の身口意業所修の解行、かならずすべからく真実心のうちになすべきことを明かさんと欲す。
外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ。
貪瞋・邪偽・奸詐百端にして、悪性侵めがたく、事蛇蝎に同じきは、三業を起すといへども名づけて雑毒の善となし、また虚仮の行と名づく。 真実の業と名づけず。
もしかくのごとき安心・起行をなすものは、たとひ身心を苦励して、日夜十二時急に走り急になすこと、頭燃を救ふがごとくするものも、すべて雑毒の善と名づく。
この雑毒の行を回して、かの仏の浄土に生ずることを求めんと欲せば、これかならず不可なり。 」
[註釈版聖典七祖篇p.455]

これによれば真実とは、外に賢善精進の相(すがた)を現わし、内心に虚仮の思い(煩悩)を懐いてはならないとされる。
心の内の思いと外にあらわしている状態とが一致していてこそ、真実の善が行えるというのである。

まず、貪欲・瞋恚・愚痴という三毒煩悩を無くせ。そしてその煩悩をなくした状態を行動にあらわせとされる。
だから内に煩悩を持っていて、些細な事で腹を立てたり、欲をおこしたり、そして自分本位のものの考え方をしたり、そういう根性を内に持っていて、そして外にだけ賢者のように振る舞ってもそれはダメだ、内も外もぴったり一致した、まことの心を持てというのが至誠心であるといわれる。

その至誠心によらずに行われた「善」は、全て造毒の善(毒の雑わった善を造る)であり、雑毒の善では浄土へ往生することは不可であるといわれている。

「なにをもつてのゆゑに。 まさしくかの阿弥陀仏因中に菩薩の行を行じたまひし時、すなはち一念一刹那に至るまでも、三業の所修、みなこれ真実心のうちになしたまひ、おほよそ施為・趣求したまふところ、またみな真実なるによりてなり。」
[註釈版聖典七祖篇p.455]

何故ならば、因位の法蔵菩薩が修行した善行は、一念一刹那の身口意の修行も全て真実心でなされたからであり、これに相応する真実の善行でなければならないからとされるのである。
これが真実の善であり、それ以外の善は「造毒の善」、つまり毒(悪)を造る善とされる。

TS会では、この善導大師の「至誠心」釈を、会員に奨める善の根拠としている事は以下のHPで明かである。

高森親鸞会のHP
魚拓

TS会は「善をすると善ができない自分が知らされる」とか「実地に善をやって見なければ知らされない」などと教えるが、真実の善とは何か分かっているのであろうか。やってみなくても判りそうなものだ。

阿弥陀如来の因位であった法蔵菩薩と同じような善行以外は、「三業を起すといへども名づけて雑毒の善」であり「虚仮の行」であると善導大師は仰るのだが、TS会ではこの法蔵菩薩と同じ善を会員に奨めているのである。

衆生が一念一刹那も真実の善が出来ないからこそ大悲の本願(十八願:念仏往生の願)が建立されたのであるが、TS会の会員は会の奨める造毒の善を修して、阿弥陀如来に成ろうとしているのであろうか。

TS会の「善をしなければ信仰は進みません」や「諸善は獲信とよい関係にある」という善の奨めの主張が非難されるのは、善に執着してしまう人々を作り出してしまうという事にある。

それは「信罪福心」に執着する心を増長させ、会員を真実のご法義から遠ざける行為だからである。
信罪福心の罪福とは因に返せば、善と悪である。
因→果
悪→罪
善→福
自らが行った善と悪に執着して、善悪の因果を超えた阿弥陀如来の仏智を疑う心が、己の罪福を信じる信罪福心である。
TS会では幼稚な因果の道理を説き、会員には善因善果 悪因悪果と自己の修した造毒の善因を信じ込ませ、因果を超えた仏智を信じる道を妨げているのである。

『無量寿経』智慧段では、釈尊がこの信罪福心を戒められている。

仏、慈氏に告げたまはく、「もし衆生ありて、疑惑の心をもつてもろもろの功徳を修してかの国に生れんと願はん。仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了らずして、この諸智において疑惑して信ぜず。しかるになほ罪福を信じ善本を修習して、その国に生れんと願ふ。このもろもろの衆生、かの宮殿に生れて寿五百歳、つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞の聖衆を見たてまつらず。このゆゑに、かの国土においてこれを胎生といふ。
[註釈版聖典p.76]

現代語:
釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。「さまざまな功徳を積んでその国に生れたいと願いながら疑いの心を持っているものがいて、無量寿仏の五種の智慧を知らず、この智慧を疑って信じない。それでいて悪の報いを恐れ、善の果報を望んで善い行いをし、功徳を積んでその国に生れたいと願うのであれば、これらのものはその国に生れても宮殿の中にとどまり、五百年の間まったく仏を見たてまつることができず、教えを聞くことができず、菩薩や声聞たちを見ることもできない。そのため、無量寿仏の国土ではこれをたとえて胎生というのである。

親鸞聖人は、晩年この信罪福心に高い関心を持たれた。
85歳以降とされる『誡疑讃』では、この信罪福心を戒められ末尾には、

以上二十三首、仏不思議の弥陀の御ちかひをうたがふつみとがをしらせんとあらはせなり。
[註釈版聖典p.610]
とされ、自己の修した善を信じ、善因善果 悪因悪果 自因自果の因果に縛られ、因果を超えた仏智を疑う事を厳しく戒められている。

TS会会長はかって以下のように説いていたそうである。

「顕正」
常に虎の説法124P

「然るに、わが浄土真宗は、このような十九、二十の本願に当る浄土宗とは違って、十八願の願意である、信心正因称名報恩の仏意を弘通する教えであるから、信前の人にも信後の人にも、終始一貫して信心正因、称名報恩の教えを勧めなければならない。ーー
手本はいかに信心正因、称名報恩でも機執によって、そのようになれず、或いは定散自力の称名となり、称名正因となるものもあろうが、たゆまずアキラメず信心正因、称名報恩の教えを勧めていれば、やがてその真意を諦得出来るようになるのである。ーー
未熟な人に合わせて信心正因、称名報恩の教え以外の法門を説いて、信心を得る方法に称名せよ、などと教えれば、あたかも猫の手本を与えて虎を書く方法とするようなものである。故に教家は常に虎の説法をしなけらばならないである。

真仮廃立128P
「廃立とは、廃は捨てもの、立は拾いもの、ということで雑行雑修自力は、捨てものであり、廻向せられるものは名号六字である」

しかるに、正本堂を建てる金集めと自身の名利栄達のためであろうか、幼稚な因果の道理を説き、会員を善の求道地獄に陥れている。
彼もかっては熱狂的に法を求めた事があり、まともな説教をしていた時期もあるのであろう。たとえそれが狂信的であろうとも、十八願の法の真実を求めた時期もあったのであろう。
しかし歳月は、彼を宗教を食い物にする一介の宗教ビジネス屋に仕立て上げてしまった。

あはれといいふもなかなかおろかなり、ではある。

参照:親鸞聖人の至誠心釈

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ、慚謝、慚謝