どちらがウソか

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fbで井上敬信さんが『慕帰絵詞』をUPして下さったのでwikiarcに転載してみた。→「慕帰絵詞」
で、「絵詞」とあるので、国立国会図書館デジタルコレクションから画像を引用してみた。
ところで浄土真宗を名乗る「高森親鸞会」では、

『どちらがウソか』(高森親鸞会篇)を出版して次のごとく論難している。
もし、本願寺の言うように、親鸞聖人や蓮如上人が、名号でもよし、絵像でもよし、木像でもよし、一つに固執してはいけないと教えられたのが正しいとすれば、『改邪砂』に「親鸞聖人は木像や絵像を本尊とせず、必ず名号を本尊とせられた」と書かれてありますが、覚如上人はウソを書かれたことになります。→「真宗の本尊について」

と、本願寺の木像・絵像の安置を非難し六字の名号こそ本尊であると攻撃していた。しかして覚如上人の子慈俊(従覚)撰述による『慕帰絵詞』の絵によれば、病中の覚如上人を描いたところには、三具足(仏前に供える、華瓶・香炉・燭台)を具して阿弥陀如来の画像が安置してある。

「国立国会図書館デジタルコレクション」

彼の会員は、どれだけ言葉で示しても理解できないのだが、ビジュアルな画像で示せば、覚如上人の著述(改邪鈔)に依拠して仏壇から絵像の阿弥陀仏を降ろし高森親鸞会からレンタルのコピー&ペーストの本尊に入れ替えた愚行に気が付くかもである。

➡「名号画像」

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約束

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fbより転載

お説教などで、阿弥陀仏の誓願を約束という言葉で表現する方もいる。しかし、深川倫雄和上は、本願を約束と思ってはいけません、と示されていた。日本語での約束という表現は、人と人の間の取り決めの意味が強いからであろう。言葉は意味が拡散して本来の意味が見失われることも多いので、御開山が和語の御消息で使われている約束という語を考察してみた。
➡「約束」

なお中国語での約束という漢語の意味をノートに転載しておいた。
➡「ノート:約束」

子どもの頃には「指切げんまん(拳万)、嘘ついたら針千本呑ます、指切った」と無邪気なものだったが、拳万はぐーで一万回殴ることで、針千本呑ますは地獄の責苦であり、指切ったは遊女の客に対する愛情表現で小指の第一関節から指を切って相手に渡すことだそうだ。やくざの忠義だてだな(笑

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安心門と起行門

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浄土真宗では信心を強調するため、安心と起行という概念に分けてご法義を論ずる。これを「安心門」と「起行門」といふ。
安心門と起行門は、その論理構造のあらわし方が違うので、安心門で論ずべきことを起行門の上で語ったり、起行門の上で語ることを安心門で論じたりするなどの混乱が生ずる。
我、何を信ずべき(beeing)かと、我、何をなすべき(doing)とを、ごっちゃするから浄土真宗の御法義は難しいのであり、難信之法といわれるのであった。
ともあれwikiarcの安心門と起行門の項に追記してみた。

→「安心門」
→「起行門」

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観経の三心釈

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観経の三心釈を少しく編集してWikiArcの至誠心のノートへ転載。

梯實圓和上の名著の一つである『法然教学の研究』から、第二篇 法然教学の諸問題の「第三章 法然聖人の信心論」を窺う。

御開山は「仏願の生起本末」といわれ、ただ出来上がったものを受容するのではなく、その本末(一部始終)を学べとされた。例せば、市販の吊るし柿を見ただけでは、初夏に黄白色の小さな花を咲かせ、秋には鮮やかで濃い橙色の実をつけ、その実を収穫し、皮を剥いて冬の軒先に吊るし寒風にさらし熟成された吊るし柿を本当に知ったとはいえないのであろう。吊るし柿には蔕(ヘタ)が付いているから、あのまま木に成っていると誤解するかもである。同じようにゴールである「大乗の至極」の浄土真宗のご法義を学ぶには、各々の祖師方の教学を学ぶべきであろう。
鈴木大拙師は、

正統派の学者達は出来上がった御膳立を味わうことに気をとられて、そのものがどうしてそう組み上げられねばならなかったということを問はないようである。

と、いわれていたが、出来上がった解釈をあれこれ会通するよりも、その思想の本末や背景を学ぶことによって、立体的により深く、なんまんだぶのご法義を味わえるのであろう。
なお、強調の太字や修飾、出典へのリンクはUPしてある聖典へリンクし、脚注の◇以下の部分、ルビおよび〔〕内の漢文読下し等は便宜のため適宜林遊が付した。「隠/顕」をクリックすることで漢文の読下しを表示できる。

➡トーク:至誠心

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WikiArcに新規作成

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以下の項目をWikiArcに新規作成。

行信不離

聖浄二門

教相判釈

唯信仏語

自覚

文類

教証 (文証)

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自力念仏

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そもそも、阿弥陀仏の念仏往生のご法義には自力も他力もないのだが、称える側の者(機)の心によって自力の念仏と他力の念仏に分かれるのであった。

と、いう訳でwikiarcに「自力念仏」という項目を記述してみた。

→「自力念仏」

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人惑を受けず

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高森親鸞会を脱会した方の、善知識帰命説を否定するブログに触発されて、wikiarcに臨在禅師由来の「人惑を受けず」の語を追記してみた。

ほとんど、何が言いたいのか意味不明だろうが、林遊の脳内では整合性がとれているので了である(笑

名聞と利養しか頭にない、真宗布教使にも言えるのだが、芸能としての節談や、カルト崩れの求道主義者には意味不明だな、どうでもいいけど。

ところで、徳永一道勧学寮頭は、

「一緒性」の提言は「大乗仏教の精神そのもの」と賛同され、そして「親鸞聖人は浄土真宗を『大乗の中の至極なり』と示されていますね。

と、公言されていますが、大乗仏教では、個のさとりである「八聖道」から関係性を重視した「六波羅蜜」へ移行したのですが、その第一の徳目である布施行の実践として、貧乏な林遊に100万ほど布施して下さい。布施とは言葉ではなく実践ですから請求書出してもいいですか(笑

そんなこんなで、出来もしない大乗精神を言う輩の「人惑を受けず」だな(笑

→「人惑を受けず」

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興福寺奏状と教行証文類

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御開山の著述を拝読するには、御開山がおられた時代の思想や、御開山の持っておられた問題意識に留意して読めば、領解できることが多い、と浄土真宗の和上様方はお示しであった。例えば承元の念仏弾圧のきっかけとなった『興福寺奏状』という補助線を入れることによって、御開山の問題意識を探り、御開山の著述を拝読するときの助(資助)けになるのであろう。
ここでは、梯實圓和上の『法然教学の研究』──『興福寺奏状』と『教行証文類』──から一部を抜粋し、法然教学と興福寺奏状、それの御開山の著述への影響を考える資料としてUPした。御開山の著述を拝読するときの資助になれば幸いである。

→「興福寺奏状と教行証文類」

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浄土真宗では「嘘も方便」という言葉は使わない。

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浄土真宗では「嘘も方便」という言葉は使わない。

何故なら、仏教の上では、嘘とはマイナスの概念を示す語であり、方便とはプラスを示す仏教語であるからである。
仏教語と世俗語は、そもそも存立基盤が違うのであり、辞書でも同じ語に「仏語」という項目があり仏教での意味を別に示してある。
仏教では身心(東洋的)や心身(西欧風)ではなく、身・口・意として、口業(語業)という言葉を重視するのであった。その意味では言葉を超えた世界を言葉で表現するのが仏教の論理であり、言葉を大事にするのである。その意味で「信」(人と言からなる会意)を重視する浄土真宗では「嘘も方便」というような表現法を使うことはない。
ともあれ、仏陀のさとりを示す世界を言語化しようとしてきたのが、仏教の歴史であり、浄土真宗では、なんまんだぶと称えるか称えないかが「信疑決判」であった。

それにしても、阿弥陀仏の善巧方便を「騙し」と表現した高森親鸞会の高森顕徹氏は、いよいよ「病膏肓に入る」だな(笑

画像はブログ:→親鸞会を脱会した人(したい人)へ から

善巧方便と権仮方便

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文殊の法はつねにしかなり。

林遊@なんまんだぶつ Posted in WikiArc編集
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御開山の引文はややこしい。

ただ本願寺派の註釈版聖典は、引文とその意図を脚注に記しているので、後学の学ぶ者にとってはありがたいことである。
とりあえず愚昧ながら「文殊の法はつねにしかなり」の文意を解釈してみた。

→文殊の法はつねにしかなり

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