「名」の字は、因位のときのなを名といふ

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「自然法爾章」(御開山の命名ではない)に、

「名」の字は、因位のときのなを名といふ。「号」の字は、果位のときのなを号といふ。

と、あるのだが、なんのこっちゃである。
で、この文の淵源は『華厳経探玄記』の一文に拠られたのであろうといふのでSAT(大正新脩大藏經テキストデータベース)を参照してWikiArcに追記してみた。→「名の字…」
私見だが、欧米の知識人は幼いころから自国語の語彙概念の基底であるラテン語に親しむといわれる。日本でも古くは漢字を真名(まな)と呼び、ひらがなやカタカナを仮名(かな)と呼称した時代があったが、語義の概念を考察する時には漢字に返して言葉の意味を考察したのであろう。御開山の漢字の意味を探る字訓釈もその意であろう。→「字訓釈」

御開山は和語の『唯信鈔文意』や『一念多念証文」で「文字のこころ」といふ語を使われているのも秀徹した眼で漢訳経典の漢字の意味を洞察されたのであった。

そのような意味では、本願寺派の浄土真宗聖典編纂委員会の手による「浄土真宗聖典(註釈版)」は、豊富な脚注があるので理解の助けになる。

「浄土真宗聖典(註釈版第二版」¥5720

この点では大谷派の赤本の聖典とは圧倒的な差がある。また、本願寺派では、宗派の枠を越えて一般の学術的研究に資するように『浄土真宗聖典全書』も発刊している。このような試みは、近代教学の「信心」に毒された大谷派の偏頗な教学では不可能であろう。しらんけど(笑

ともあれ、名号とは「正信念仏偈」に十二光を引かれた後に「本願名号正定業」とあるように、本願の名号は、正しく往生の決定する行業であった。それが、その行法を受けいれた第十八願の信心を往生の正因とする、の信心正因説なのであった。愚直になんまんだぶを称えない坊さんは、これがワカランのです。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

➡「名の字…」

死の「帰」する処、生の「依」って立つ処

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fbより転載

不安にさいなまされたコロナ騒動も一段落ついたようだ。
しかして、その不安感の根底には死への不安があるのだが、人はその事実を認めることを嫌がる。

浄土真宗は、浄土を真実とする宗義である。

死ぬでなし 生まれかはれる 浄土ありと

聞けばたのしき 老いの日々なり

という歌を目にしたことがある。
浄土を持たない人には、生の終わりは死であるが、浄土を持つ門徒の我らには、死は「往生」という仏陀のさとりを得る契機(ドリブン)であった。
その浄土へ往生するかしないかの大問題を、本願寺八世の蓮如さんは「後生の一大事」とおっしゃったのであった。
大谷派の金子大栄師は、浄土に帰依するといふことを、

死の帰するところを浄土におく 我々をしてその不安の世の中におりながら今日一日を落着き、今日一日を不安なるがゆえに、却ってそれを介して念仏申させて貰うことによって、有り難いという感覚をおこさせるものは一体何だろうかと、そういうような場として、私には後の世というものがあるのであります。死ねばお浄土へ行けるのであると。
人間の生涯の終わりには浄土へ行けるのであり、死の帰するところを浄土におくことによって、それが生の依るところとなって、浄土を憶う心があると、その心から光がでてきて、私達に不安の只中にありながら、そこに安住の地を与えられるのであります。つまり意識はどれほど不安を感じていても、どこかその底に安らかに安住させて頂く力があり、それが本願他力であり、それが浄土の教えであるといってよいのでありましょう。

と言われていた。

「死の「帰」する処、生の「依」って立つ処」とは、死ぬることの解決ができてこそ、この生をより深く味わうことができるのであろう。
『論註』に「蟪蛄は春秋を識らず、といふがごとし。この虫あに朱陽の節を知らんや」(論註P.98)とあり、今しか知らない者は、実は今も知らないというのである。生きることに意味があるように死ぬことにも意義を示してくださる言葉が蓮如さんの「後生の一大事」という言葉であった。

➡帰依
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

『柴門玄話』

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浄土真宗の教学は会通(一見、矛盾して入るようにみえる記述を道理に照らしあわせ、一貫した趣意のものとして説明すること)しまくりで、本来の原点を見失っているのではなかろうと思ふことも多い。
ドグマとは、「宗教・宗派における教義のこと」が原義だそうだが、教条主義ともいわれるように「信因称報」説に、がんじがらめになっているのが浄土真宗の教義なのかもと思っていたりする。
林遊は、幼少の頃からの、なんまんだぶ育ちなのだが、『教行証文類』を読み始めて違和感をもったのが、坊さんの説く「称名報恩説」であった。
あんたの親様は、救うてやるからお礼を申せといふのか、と思ったものだ。親の恩といふ思想が残っていた戦前ならば蓮如さんの「信因称報説」は素直に受け容れられていたのであろうが、戦争に負けて、恩といふ思想が崩壊した現代では「如より来生」する、なんまんだぶといふ、往生のさとりを説いた方がよかろうと思ふ。知らんけど。
その意味では、石泉僧叡師の「法相の表裡」といふ考察はおもしろかった。

→『柴門玄話』

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

念仏者

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浄土真宗では「念仏者」という言葉が死語になってしまった。
そこで、WikiArcに「念仏者」といふ名目を追記してみた。
→「念仏者」

浄土真宗では、信心を強調するあまり、仏法の「法」の示す「行」である、なんまんだぶと称える「行法」を説かないから衰退したのだろうと思ふ。
信心を強調して説く法話は、ある意味では心の持ち方といふ今はやりの「こころ教」になり果てているのであろう。
また安易に「行」無き「信」を説くから、門徒は、御開山のあかされた「大行」としての〔なんまんだぶ〕の意義を見失っているのであろう。

ともあれ浄土真宗に於いて「念仏者」という語が死語となって久しいのだが、浄土真宗は、御開山が、

念仏成仏これ真宗
万行諸善これ仮門
権実真仮をわかずして
自然の浄土をえぞしらぬ

と、示されたように「念仏成仏」の法義を真宗といふのであった。
なんまんだぶを称えることは、私にわけや意味や用事があるのではなく、阿弥陀如来の方に意義や意図があるのであった。これを本願力回向ともいふのであった。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

勅命の他に領解なし

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梯實圓和上は「教行証文類のこころ」といふ講義で、

人間から言っちゃいけない、ただ仏様からだけ仰る。如来さまからだけ言える言葉、私はただ有り難く聞くだけしかない言葉。私の方から言ったら嘘になる。仏様が仰ることを有り難く頂戴する、そういう言葉っていうものがありましてね。これを間違えないようにしないとね。仏様から仰る言葉を、こちら側から言うと嘘になるという言葉はいくらでもあります。どんな愚かな者でも助けるぞ、という言葉は仏様の言葉ですよ。どんな愚かな者でも助けて下さるんですなぁ、と私の方が言うたら、お前が言うな!。ということで、お前が言うな、お前は有り難く頂くだけなんだ、お前から言うな。
これから悪人正機などという、おそろしく過激な言葉が出て参りますが、あの悪人正機などという過激な言葉なんかもね、あれだって、言い場所を間違ったら偽物になるだろうな。だから難しいんです言葉は。誰が言うてもええちゅうもんと違いますで。
例えばほめ言葉でもそうでしょ。お釈迦さまが、阿弥陀さまが誉めてくださる、「この人を分陀利華と名づく」と誉めてくださる。お釈迦さまは「私の親友」であるとまで仰って下さる。あるいは「真の仏弟子」として呼んでくださる。みなあれ仏様の方から仰る言葉ですよ。
わしの方からね、私は阿弥陀さまと、仏様と親友でござんすな、と言ったらお前から言うな!(笑)。誉め言葉というのは聞いて喜ぶ言葉であって、こっちから言うたら嘘になります。→「教行証文類のこころ」

と、仰っておられた。
御開山の著述はほとんどが約仏(仏の救済を仏の側から顕すこと)で表現されておられる。それは御開山が「聞」の方であったからであろう。その「聞」とは、如来の仰せを仰せのとおり聞くことで、こちら側の頂き方を用いないような聞であった。それを和上は、如来さまからだけ言える言葉、私はただ有り難く聞くだけしかない言葉、仏様が仰ることを有り難く頂戴するだけと仰っていた。

機を見れば どこをおさえて 正定聚 法にむかえば うれし恥ずかし

といふ句を聞いたことがあるが、わが機を眺めてみれば正定聚などとは決して言えない。しかし法に向かえば汝はこれ正定聚の者よ、と仰って下さるのであった。聞法とは法を聞くことを慶ぶことであった。
聞いた法が聞いたままに作為を用いず心に印現しているような聞を「聞即信」とも「勅命の他に領解なし」ともいふのである。ありがたいことである。

➡「トーク:聞即信」

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

真宗聖典検索 Web site

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大谷派の聖典は、御開山の御自釈が漢文併記なので便利だった。
ちなみに、このサイトは画像で聖典を表示しルビがあるので便利である。
聖典への画像へのリンクも可能なので、ネットで引用文への出拠を示す場合に有用だと思ふ。
ただ、布教使が法話の時に、目の前の聴衆がスマートフォンを眺めてニヤニヤすると、ちょっと自分の内面でのお聖教理解に突っ込まれた気分になるかもではある(笑

ともあれ、冷凍保存されていたお聖教をネット上で公開することは、新しい真宗門徒を獲得する手段になるかも知れないと思っていたりする。
「新しい酒は新しい革袋に盛れ」といふキリスト教のことわざがあるのだが、ラジカルなご法義である浄土真宗の教えは、時代を経て新しい革袋に入れることによって、人が生きて死ぬといふ永遠のテーマに答えを提供できるのかもと思っていたりする。
その意味では文書伝道といふ道を切り開いた蓮如さんは、やはり希代のオルガナイザーであった。(言葉の変遷によって、ちょっと制度疲労を起こしている面もあるけど)

そんなこんなで、昔の門徒とは違い、これからの門徒は坊さん程度にはお聖教に親しんでいるので、芸能や話術としての法話は困難になるのかもと思っていたりする どうでもいいけど。

「真宗聖典検索 Web site」
https://shinshuseiten.higashihonganji.or.jp/

「画像の例」
https://shinshuseiten.higashihonganji.or.jp/contents.html?id=1&page=152

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

読解力

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読解力の低下といふことで、お聖教を読むことの意義を想起した。
https://www.nikkei.com/article/DGXMZO52905290T01C19A2CC1000/

お聖教を読む時に、いつも思ふのだが、日本仏教は漢訳経典の上で展開されているので辞書を引きながら読まないと訳が判らなくなる。
まして、日本語は漢語と、漢語を「テニヲハ」で繋ぐ膠着語なので、意味の判らない単語があっても、漢語を脳内で適当に日本語化して何となく分ったつもりになるのであろう。
欧米では言葉の原義を考察するときはラテン語にかえして推察するそうだが、日本語における漢字語は、明治期に欧米語を日本語化する為に、漢字による造語法に依ったのであった。その為、社会(social)とか経済(economy)とか科学(science)という言葉がうまれたり、宗教(religion)のように既存の言葉の上に新しい意味を付加したのであった。
特に仏教語の場合は、市販の辞書を引けば語句の説明に「仏語」という項目があるように、既存の世俗の言葉の意味と違う意味がある。例:無学

ともあれ、浄土真宗のご法義の場合は、伝統的な通仏教の言葉を使いながら、全く違う精神世界を表現するのであった。それは、現実的な社会(妄想だけど)に於いて自己を完成しようという宗教に対して、真実の自己の完成は死をドリブン(契機)とする往生であるとするのが浄土真宗のご法義であった。
それが、生きることに意味があるように、死ぬることにも意義がある、と、往生浄土に於いて自己の完成を目指す仏法であった。アメリカ文化は、現実主義であり、死の無い文化ともいわれるようだが、戦争(大東亜戦争)に負けてから、浄土思想は弊履のごとく捨てられ、現今の浄土教は現世を説く「いのち教」や「こころ教」に成り下がったのは、困ったものである。
馬鹿は死ななきゃ治らないといふのだが、死ななければ自己完成が出来ないという、煩悩に纏わられて呻吟している林遊に、なんまんだぶと称えられ聞えるのが「垂名示形」の阿弥陀仏という仏陀であった。

念仏成仏これ真宗
万行諸善これ仮門
権実真仮をわかずして
自然の浄土をえぞしらぬ (浄土 P.569)

と、御開山が讃詠されたように、なんまんだぶ(念仏)を称えて仏になる法義が真宗であった。頭の賢い人はこれが解らんから「読解力」が無いのです(笑

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

➡ 垂名示形

選択本願

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御開山は、信心(大信心)を説く「信巻」で、

 この心すなはちこれ念仏往生の願(第十八願)より出でたり。この大願を選択本願と名づく、また本願三心の願と名づく、また至心信楽の願と名づく、また往相信心の願と名づくべきなり。p.211

と、「念仏往生の願」より出でた信を「この大願を選択本願と名づく」とされておられる。
矮小化された「自覚」としての信心しか知らない「信心正因」派の輩は、まるで浄土真宗では「無行単信」のように誤解するのであった。
この「念仏往生の願」と「選択本願」といふ語を、どのように消釈(矛盾点を解消してわかるように解釈すること)するのであろうか。
御開山が第十八願を念仏往生の願とよばれたのは、法然聖人が『三部経大意』で、「念仏衆生摂取不捨」の意を示す中で、

 このゆへに弥陀善逝 平等の慈悲にもよおされて、十方世界にあまねく光明をてらして、転(うたた)、一切衆生にことごとく縁をむすばしむがために、光明無量の願をたてたまへり、第十二の願これなり。
つぎに名号をもて因として、衆生を引摂せむがために、念仏往生の願をたてたまへり。第十八の願これなり。
その名を往生の因としたまへることを、一切衆生にあまねくきかしめむがために諸仏称揚の願をたてたまへり、第十七の願これなり。聖教全書四p.784

といふ文の指示によって、第十八願の「乃至十念」のなんまんだぶを、第十七願に拠って顕されたから後学に様々な問題を起こしたのであろう。
その為に、関東の疑問を持つ門弟に対して、

信の一念・行の一念ふたつなれども、信をはなれたる行もなし、行の一念をはなれたる信の一念もなし。p.749

と、「行信不離」ということを示されたのであった。
そもそも論だが、浄土真宗の門徒は坊さんの説く偏頗な信心に騙されずに、五劫思惟という時を経て、因位の阿弥陀仏が往生の業因として選択摂取したのは、口称のなんまんだぶであった。頭の賢い真宗の坊さんは、これがワカランのです(笑

「トーク:選択」
「行信不離
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通夜の赤飯

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越前では夜伽(通夜)には赤飯を振る舞った。
この赤飯を提供するのは、嫁方の実家が為すべきこととされていた。
もっとも、この赤飯は通常の赤飯と違って少しく色の薄い赤飯であった。この通夜に赤飯を振る舞う風習に関して、地元の新聞に東京の方から、福井(越前)の人間が常識がないといふ投稿があったこともある。
関東の野蛮人は、浄土真宗のご法義が衰退している「地方」であるから、人が死ぬという日本の伝統文化の意義を知らないのだと、新聞を読んだ青年期に思ったものである。
ともあれ、関西では、人が死ぬことを「往生の素懐を遂げる」といふのだが、その往生の素懐を遂げたことを祝って越前では通夜に赤飯を振る舞ったものであった。もっとも遺族の心を忖度して赤飯の色は少しく薄い。

ともあれ浄土真宗では、グリーフ・ケア(別離の悲嘆)を超越する言葉として、無くなった人に対する最上の賛辞が、なんまんだぶという言葉であった。あなたは、もう既に西方仏国の仏さまに成られたのですね、煩悩の憂いの無い仏陀と成られたのですねと、なんまんだぶ、なんまんだぶと讃嘆するのであった。
あんたも、親様の浄土へ往きなさったか、おっつけウラも参らしてもらうで、お浄土で再会しような、と、なんまんだぶを称えるのが「往生の素懐を遂げた」同朋への賛辞であった。それで越前では、「往生の素懐」を遂げた祝いとして、通夜の振る舞いに赤飯を提供するのであった。もっともこの赤飯の風習は、最近寂れているので越前の坊さんがんばれよ、と無責任な在野の門徒であった。

生きることに意味があるように、死ぬることにも意義がある、と説くのが往生浄土の真宗であった。ありがたいこっちゃ。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

同一念仏 無別道故

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「同一に念仏して別の道なきがゆゑに」

昔は、念仏相続とか称名相続といって、なんまんだぶを相続(自らが称え受け伝えること)に煩かった。幼児のころからナンナン(なんまんだぶを示す幼児語)せぇよといわれたものであった。最近は信心を偏重する法話のせいか、法座の場でも、なんまんだぶを称えると奇異の目で見られることが多い。
しかして、聴聞の達人になればこそ「癖になるほどのお称名」と、なんまんだぶせぇよの念仏相続に煩かったものだ。人生に懊悩してきた深い経験によって、識揚がり神飛ぶ「信心」としての意業を信じていなかったからであろう。
そんなこんなで、WikiArcに追記した『西方指南抄』「四箇条問答」の一説を転載。

問。法蔵菩薩の本願の約束は、十声・一声なり。一称ののちは、法蔵菩薩の因位の本誓に心をかけて、名号おば称すべからざるにや。

答。無沙汰なる人は、かくのごとくおもひて、因位の願を縁じて念仏おも申せは、これをしえたるここちして、願を縁ぜざる時の念仏おば、ものならずおもふて、念仏に善悪をあらするなり。これは無按内のことなり。法蔵菩薩の五劫の思惟は、衆生の意念を本とせば、識揚神飛のゆへ、かなふべからずとおぼしめして、名号を本願と立たまへり。この名号はいかなる乱想の中にも称すべし。称すれば、法蔵菩薩の昔の願に、心をかけむとせざれとも、自然にこれこそ本願よとおぼゆべきは、この名号なり。しかれば、別に因位の本願を縁ぜむと、おもふべきにあらず。(『西方指南抄』四箇条問答p.178)

新井俊一著『西方指南抄』現代語より。

問。法蔵菩薩の本願のお約束は、十声でも一声でも称える者を往生させるというものです。一度名号を称えた後は、法蔵菩薩の因位の本誓に心をかけることが大切で、さらに名号を称えるべきではないのではありませんか。

答。教えを深く理解していない人は、このように思って、因位の願を心に懸けないで申す念仏は往生のためには効果がないと思って、念仏に善い念仏と悪い念仏があるかのように言っています。これは教えを十分に理解していないからです。法蔵菩薩はその五劫の思惟の中で、衆生が心の中で仏を念ずることを基本とすると、意識が落ち着かず心があちこちに飛ぶので往生を遂げられない、と思われて、名号を本願として立てられたのです。

この名号はいかに心が乱れていても、称えることができます。名号を称えると、法蔵菩薩の昔の願に心を懸けようとしなくても、自然に、これこそ本願であったと、と気づかされるのがこの名号です。

従って、念仏する時はことさらに、法蔵菩薩の本願を心に懸けなければならない、と思う必要はありません。

➡「同一念仏」

インフルエンザで熱を出せば、意業としての信心は何処かへ飛んで(識揚神飛)いってしまうのであった。
加齢によって、娑婆の知人より西方仏国へ移住した知り合いが多くなるのだが、「同一念仏 無別道故」と、倶会一処(ともに一処に会することを)得る世界観を持てることは有難いこっちゃな。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ