ホテルのカフェから、下の道路を見下ろしている。
ティーカップを前に、気だるいウイークデーの午後。
ふと、向こうから若い男女が歩いてくるのが視界に入る。
恋人どうしなのだろうか。
二人はうつむきかげんで、ゆっくりと歩いている。
まるで、行き交う人々の流れに逆らうように、ゆっくりと歩いて来る。
二人が立ち止まった。
それは、ホテルの前にある、小さな教会。
カソリック教会であろうか、正面にはクリスチャンのシンボルが掲げられている。
二人は、教会の前で、何か話あっている。
やがて、女の方がこくりとうなずいて、二人は教会の中に消えた。
まるで、そこだけは、時間が止まった世界のように見える空間。
喧騒とした街の中にある、ひっそりとした教会。
ふたりは、教会に何を求めて入ったのだろう。
静かな、ホテルの午後のティールーム。
ガラス一枚を隔てた、小さなチャーチを眺めながら、ふと、若いふたりに興味を覚える。
なにか、辛いことや悩みごとがあったのであろうか。
教会に、若いふたりの求めるものがあることを願う、私がいた。
二杯目のティーを飲み干したとき、さきほどの男女が教会から出てきた。
何かが、ふっきれたのか、ふたりの足取りは軽い。
やがて雑遝に中に、手をつないだふたりは消えていった。
教会の中で、何があったのだろう。
それは、ふたりと、十字架上のキリストのみが知ることであろう。
—————————————————————
だいぶ昔だが、このような内容のエッセイを読んだ記憶を思い出した。
たぶん、筆者の外国旅行中のワンシーンであろうが、キリスト教の教会の存在と、日本の仏教寺院との差異を考えさせられるエッセイだった。
キリスト教には、「神との対話」という言葉があるが、仏教では「仏との対話」という語はあまり聞かない。
仏や神との対話はモノローグであり、自己の内面を吐露する自己自身との対話であろう。
神は人格神であり仏教では人格神を否定しているから、モノローグが成立しにくいという事情もあるのかも知れない。
昔の女性は、御仏壇の前で泣いた。
もう少したってからは、女性は三面鏡の前で泣いた。
現在は、さしずめノートパソコンの前で泣くのだろう。
いや、携帯電話の文字を眺めしながら泣くのかも知れない。
人は、何かを前にして、泣き、泣けるのである。
ひょとすると、人間関係が複雑になっている現代では、泣くという行為そのものが出来なくなってきているのかも知れない。「十分に悲しみ」、そして「充分に泣ける」場所は、安全でなければならない。
人が安心して泣ける場所、そして、悲しみを生きる力に変換にできる場所。
いま、仏教に、本当に求められているのは、このような寺院の役割かも知れないと、思っていたりする。
なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ
「2011年06月27日」