真実の利益

林遊@なんまんだぶつ Post in 管窺録
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浄土真宗とはなんまんだぶつのご法義である。それを少しく親鸞聖人の『教行証文類』教巻から窺ってみよう。

それ真実の教を顕さば、すなはち『大無量寿経』これなり。この経の大意は、弥陀、誓を超発して、広く法蔵を開きて、凡小を哀れんで選んで功徳の宝を施することを致す。釈迦、世に出興して、道教光闡して、群萌を拯ひ恵むに真実の利をもつてせんと欲すなり。ここをもつて如来の本願を説きて経の宗致とす、すなはち仏の名号をもつて経のとするなり。「顕浄土真実教文類P.135

「現代語」
さて真実の教を顕すならば、それは『無量寿経』である。
この『無量寿経』が明かそうとされている法義を要約すると、まず阿弥陀仏は、万人を平等に救おうという、諸仏に超え勝れた誓願をおこし、わけても愚かな凡夫を哀れんで、仏のみがしろしめすさとりの蔵を開いて、その無量の徳を南無阿弥陀仏という名号におさめて、施されていることが説かれています。この阿弥陀仏のこころを承けて、この世に出現された釈尊は、さまざまな経を説いて未熟なものを導かれましたが、その本意は、一切の衆生に阿弥陀仏の本願のいわれを聞かせて、往生させ、成仏させるという、真実の利益を恵むために、この経を説かれたといわれています。
ですからこの経典は、阿弥陀如来の本願(第十八願)のいわれを説くことを肝要としている経であり、それはすなわち南無阿弥陀仏が経の本体であるということを顕しています。

ここは、『無量寿経』で、釈尊が五徳瑞現といわれる素晴らしいお姿であることに気付いた阿難の問いからはじまる一段である。その問いに応えられて釈尊出世の本懐を説かれるのが上記の「教巻」の一段である。
ここで、「群萌を拯ひ恵むに真実の利」といわれる真実の利とは『大無量寿経』の結論である流通分の一念である。これを行の一念という。衆生をどのようにして救うかといえば、真実の利である名号によって救うのである。これは「行巻」の行一念釈によって判る。なお、『無量寿経』が真実であるという証明は『無量寿経』と異訳の『無量寿如来会』、『平等覚経』を引文され、他の経典は引文されていない。なぜなら『無量寿経』が真実であるという証明に他の経典を依用するならば、その経典の方が真実になってしまうからである。あくまで『無量寿経』の真実であることは『無量寿経』によって証明されているのである。

行一念釈
【73】
おほよそ往相回向の行信について、行にすなはち一念あり、また信に一念あり。行の一念といふは、いはく、称名の遍数について選択易行の至極を顕開す。
【74】 ゆゑに『大本』(大経・下)にのたまはく、「仏弥勒に語りたまはく、〈それ、かの仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せんことあらん。まさに知るべし、この人は大利を得とす。すなはちこれ無上の功徳を具足するなり〉」と。{以上} 『顕浄土真実行文類』[行一念釈]P.187

「現代語」
(73)およそ往相回向の行信に関して、行にも一念ということが説かれており、また信にも一念ということが説かれています。行の一念とは、称名の数の最少単位である一声のところで、阿弥陀仏が選択された易行の称名に込められている究極の意義を顕そうとする教説です。

(74) だから『無量寿経』に説かれている。
「釈尊が弥勒菩薩に仰せになる。<もし、阿弥陀仏の名号のいわれを聞いて信じ喜び、わずか一声念仏すれば、この人は大きな利益を得ると知るがよい。すなわちこの上ない功徳を身にそなえるのである>」

釈尊が出世の本懐として真実の利をもって衆生を救済していこうという真実の利とは、この行一念釋によって、流通分の「乃至一念」(すなわち一念に至るまで)である。この一念は南無阿弥陀仏の一声の一念であり、この無上の功徳によって衆生を救済していくのが名号摂化の浄土真宗という法義である。

さて、この無上の功徳といわれる無上という言葉だが、少しく梯和上の講義録から引用してみる。『教行証文類』「行一念釋」より

[言く。「仏弥勒に語りたまはく。それ彼の仏の名号を聞くことを得て、歓喜踊躍して乃至一念せんこと有らむ、當に知るべし、此の人は大利を得と為す。則ち是無上の功徳を具足するなり。」
とあります。
これは南無阿弥陀仏という一声の念仏が無上の功徳だというのです。
これは大変な言葉です。さてこの無上功徳というのはどういう事かという事は、この後におっしゃいます。

「大利と言うは、小利に対せるの言葉なり。無上と言うは、有上に対せるの言葉なり。」

無上功徳というのは、この上が無いという事です。上が無いという事は上が有るという事に対して上が無いというのです。
だから無上という言葉は有上に対するのだ。小利有上の功徳と大利無上の功徳を此処でお釈迦様はキチッと対判しておられるのだと言うのです。
それはどういう事かというと

「信(まこと)に知ぬ、大利無上は、一乗真実の利益なり。小利有上は則是八万四千の假門なり。」

と言うのです。
そうすると自力の行はどんな行であってもそれは小利有上の行である。それに対してお念仏は一声・一声が大利無上の功徳であるという事を顕すのです。
そうすると無上というのです、これは大変な事をおっしゃっている訳です。
お念仏と仏様どっちが上かといわれたら皆さんはどう答えますか?、お浄土と念仏どちらが上かと聞かれたら、どう答えますか?。
これは全く等しいのです。そうでなければ、お念仏より上のものがあったならば有上です。
お念仏よりも仏様の方が上だったらお念仏は有上功徳になります。お念仏よりもお浄土の方が上だったらお念仏は有上になります。
という事はお念仏とお浄土と仏様と全く同じ功徳であるという事です。仏様も無上の功徳を持つ。仏様の事を無上士と言うでしょう。
お浄土も無上の功徳を持っている。

そしてお念仏も無上の功徳を持っている、という事は私の前に現れている阿弥陀仏がお念仏なのだ。私の前に届いているお浄土がお念仏なのだよという事です。
お念仏は私の前に届いた仏様であり、私の前に届いたお浄土なのです。
浄土が念仏となって私の上に顕現しているのだ。仏様は念仏となって私の上に実現しているのだ。
だから念仏は大利無上というのだという事です。

だからお念仏を頂いているという事が仏様を頂いている事です、阿弥陀仏のお徳の全体を頂いている事であり、お浄土の徳の全てを頂いている事です。

法然聖人のお言葉に、

たゞ心の善悪をもかへりみず、罪の軽重をもわきまへず、心に往生せんとおもひて、口に南無阿弥陀仏ととなえば、こゑについて決定往生のおもひをなすべし。その決定によりて、すなはち往生の業はさだまる也。

と、あるように、なんまんだぶと称えなんまんだぶと聞こえて下さるそのままが、浄土がそして阿弥陀如来が林遊の上に顕現して下さっているのである。

こゑについて決定往生のおもひをなすべし。なんまんだぶ、なんまんだぶ…

念仏禁止

林遊@なんまんだぶつ Post in 仏教SNSからリモート
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『念仏禁止』

うらの仏法は念仏やめよ
うらが称えりゃ名聞利養
人に見せかけ、世間をだまし
己が己に、ごまかされ
うらが称える念仏やめて
うらがの心に、念仏禁止の札かけりゃ
知らずに始まる、なむあみだぶつ
念仏往生さかんなり

うらの仏法は餓鬼根性
自分が仏を引き寄せて
うらが仏を摂取して
ご恩報謝の念仏称え
こんな念仏、やめねばあかん
うらが称える念仏止まりゃ
ここへ飛び出る親がある
親から噴き出る念仏は
尊い香りのするものじゃ

うらの仏法は闇夜に鉄砲
的は分からず、無茶苦茶念仏
弥陀の本願利用して
安心決定、自分できめて
ほんとにあぶない決定心
ああなさけなや、お気の毒

うらの仏法は玉手箱
弥陀から賜る玉手箱
如来他力のなむあみだぶつ
あけずにおけばよいものを
あければ驚く玉手箱
中の品物、化けものばかり
うらがあけたら、化けものじゃ
おけずに居られん、この爺々は
うらはそのまま、ままのまま

うらの仏法は分限ちがえ
諸仏は称名、衆生は聞名
ちゃんと分限があるそうな
うらが違えて称名するで
毒気・殺気で人さま逃げる
こらっ、念仏やめんかい
うらが称えるで、なかったわ

うらの仏法は四十九願
どこで一願ふえたのか
よくよく自分に、たずねたら
成ろう、成れるの一願寝とる
これで四十八願、まるつぶれ
うらの仏法は割り切れん
割り切りたいのが、うらの自性
割り切らさんのが、な む あ み だ ぶ つ

明治二十三年に越前に生まれた前川五郎松翁のうたです。
小生の母親に翁が下さった「一息が仏力さま」という自費出版の本に載っているもの。

自分で我が機を開けてみれば、出てくるものは化け物ばかりだなぁ。

うらの仏法は四十九願
どこで一願ふえたのか
よくよく自分に、たずねたら
成ろう、成れるの一願寝とる
これで四十八願、まるつぶれ

TS会では、信心獲得とか信心決定とか、成ろう成れると思っているから、四十八願まるつぶれなんだよね。
迷いだらけの自分の心に着目するよりも、これで大丈夫と称えられ聞こえてくださる、なんまんだぶつに何の不足があるるんだろうな。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ

Open SNS

林遊@なんまんだぶつ Post in つれづれ
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ある方が懇志を提供してくださったので、サーバーを増強し新しいSNSサイトを作ってみた。
ここではSNSとは、同じような価値観、世界観を持っている人のネットワークとして定義しておく。もちろん浄土真宗という宗教によって生と死を超える道を、往生極楽の道として阿弥陀如来の願いを聞いていこうというSNSである。

仏教の三学、戒・定・慧(戒律と禅定と智慧)を磨いて生と死を超え、この世で悟りを得る道もあるのであろう。
しかし、自らで制御できない煩悩に呻吟しながらもなお、仏道を求め仏陀と同じ悟りに至る道もある。それが「往生極楽の道」である。

法然聖人は「聖道門の修行は、智慧をきわめて生死をはなれ、浄土門の修行は、愚癡にかへりて極楽にむまる」と仰ったそうである。これは親鸞聖人の消息の中で「故法然聖人は、「浄土宗の人は愚者になりて往生す」と候ひしことを、たしかにうけたまはり候ひしうへに、ものもおぼえぬあさましきひとびとのまゐりたるを 御覧じては、「往生必定すべし」とて、笑ませたまひしをみまゐらせ候ひき。」『御消息』p.771  とある。

人間を含めた動物、いや植物まで含んで弱肉強食・優勝劣敗が生物の進化という名の歴史であった。
しかし、弱者や世俗から受け容れられない悪人と呼ばれる者を救済の対象として真正面から取り上げ苦闘のなかで組み上げた思想が浄土真宗という、阿弥陀如来の本願を宗となし名号を体とする宗教である。(宗教とは元来、宗とする教えという仏教語だが、明治期に欧米語の翻訳語として使われてから意味が変わった)

日常茶飯の何気ない事柄から、阿弥陀如来に願われている意味を聴いていくのが浄土を真実とする宗である。この”いのち”、どこから来て何処へ行くのか、そして阿弥陀如来とはどのような存在なのかを、心の余裕を持って語り合い、過激な発言にはちょっぴり、はらはらどきどきしならが語り遇えるSNSになって欲しいと思ふ。

念のために書いておくけど、浄土真宗はTS会のいうような、信じて救われるご法義ではありません。
必ずこれで救われてくれるという、阿弥陀如来の本願を聞信するご法義です。私が救われようと思う前に、如来の救済の道が用意されていたことの驚きが如来の名を称えるということです。救われてありがとうというサンキュウの意味は名号にはありません。

Buddhist SNS(よみがえれ仏教) blogを中心としたSNS

Buddhist SNS mixiタイプの日記とフォーラムがメインのSNS

正行・助行・雑行

林遊@なんまんだぶつ Post in つれづれ
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雑行とは、正行に対する語であり、雑は邪雑、雑多の意味で、本来はこの世でさとりを開くことをめざす聖道門の行である諸善万行のことをいう。
この雑行は善導大師の『観経疏』深心釈・就行立信釈正雑ニ行判において、捨てるべきものであるとされている。
就行立信とは、行に就いて信を立てるという意味である。仏教にはさまざまな行があり、浄土門においても十九願の修諸功徳や、『観無量寿経』に説かれる、定善・散善という行があり、どのような行に就いて信を立てるのかというのが就行立信釈である。そして、その就行立信釈を善導大師は深心釈の最後に挙げられて深心釈の結語とされておられる。

浄土教では名号を称えるという行為が正行であり、それ以外の行は助行・雑行として判定し嫌貶されているのが以下の釈である。

就行立信釈の正雑ニ行判
次に行に就きて信を立つといふは、しかるに行に二種あり。 一には正行、二には雑行なり。 正行といふは、もつぱら往生経の行によりて行ずるは、これを正行と名づく。

何者かこれなるや。

一心にもつぱらこの『観経』・『弥陀経』・『無量寿経』等を読誦し、一心に専注してかの国の二報荘厳を思想し観察し憶念し、もし礼するにはすなはち一心にもつぱらかの仏を礼し、もし口に称するにはすなはち一 心にもつぱらかの仏を称し、もし讃歎供養するにはすなはち一心にもつぱら讃歎供養す、これを名づけて正となす。 またこの正のなかにつきてまた二種あり。

一には一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問はず念々に捨てざるは、これを正定の業と名づく、かの仏の願に順ずるがゆゑなり。

もし礼誦等によるをすなはち名づけて助業となす。 この正助二行を除きて以外の自余の諸善はことごとく雑行と名づく。 もし前の正助二行を修すれば、心つねに〔阿弥陀仏に〕親近して憶念断えず、名づけて無間となす。 もし後の雑行を行ずれば、すなはち心つねに間断す、回向して生ずることを得べしといへども、すべて疎雑の行と名づく。 ゆゑに深心と名づく。『観経疏』散善義p.464

この五正行とは、

①読誦正行。浄土の経典を読誦すること。
②観察正行。心をしずめて阿弥陀仏とその浄土のすがたを観察すること。
③礼拝正行。阿弥陀仏を礼拝すること。
④称名正行。阿弥陀仏の名号を称えること。
⑤讃嘆供養正行。阿弥陀仏の功徳をほめたたえ、衣食香華などをささげて供養すること。

の、五種であり、仏願(弘願)の上からいえば④の称名正行が正行であり、読誦、観察、礼拝、讃嘆供養は助行であるとされる。

この「一心にもつぱら弥陀の名号を念じて、行住坐臥に時節の久近を問はず念々に捨てざるは、これを正定の業と名づく、かの仏の願に順ずるがゆゑなり。」の、文によって法然聖人が回心されたのは有名な話だが、この文のどの部分によって回心されたのであろうか。
法然聖人は比叡山の浄土教の伝統の中で学び、念仏が往生の行であるということは既に知っておられた筈である。しかし、その念仏の行が自己の選ぶ行であるという事にためらいがあったのであろう。自己の選んだ行であるならば、選んだ主体の過誤は取り返しのつかない結果になるからである。

しかし、往生の正定の業(如来の選定された正しい行業)として、「かの仏の願に順ずるがゆゑなり」の文、漢文では「順彼仏願故」の文によって、念仏は阿弥陀如来の選択(せんじゃく)された行であったと気付かれたのである。私がとかくはからう前に、如来が念仏の行を選択して下さっていたという「順彼仏願故」の文によって回心されたのである。一字で表わすなら「故」である。
その感動を以下のように述べておられる。

「ただ善導の遺教を信ずるのみにあらず、又あつく彌陀の弘願に順ぜり。順彼仏願故の文ふかくたましいにそみ、心にとどめたる也」 (和語灯録)「法然聖人の回心」参照。

これが、第十八願の至心信楽欲生我国乃至十念の本願に順ずる、乃至十念の行であったのである。決定往生の行は念仏一行であるということである。
法然聖人の主著は『選択本願念仏集』であるが、これをほどその書の性格を現している題号はないであろう。まさに、阿弥陀如来が本願において選択してくださったのが念仏であるからである。

親鸞聖人は法然聖人に遇えた喜びを「後序」に感動をもって語られているのは周知である。ここで、親鸞聖人は不思議な言葉づかいをされておられる。

浄土門に入られた感動を「しかるに愚禿釈の鸞、建仁辛酉の暦、雑行を棄てて本願に帰す。」と記述されている。雑行を棄てて本願に帰す、と記述するならば雑行の反対語は正行である念仏であるから、雑行を棄てて正行に帰す、とか雑行を棄てて念仏に帰す、と記述するべきであろう。
それをあえて、雑行を棄てて本願に帰す、といわれるのは前述の法然聖人の回心と同じように、念仏が阿弥陀如来の本願に誓われた行であるからである。まさに順彼仏願故の師弟一味の信心である。

TS会では、雑行そのものは捨てるべきものではなく、それを修する自力心が問題なのだという。色法(一切の存在するもののうち、空間的占有性のあるもの)、心法(心の働きの総称)を意図的に混在させて、会員に雑行という名の善を奨めている矛盾を糊塗しているのだから悪質である。それとも色心二法ということを知らないからの妄言であろうか。

さて、善導大師が、雑行を嫌貶されたことは『往生礼讃』の雑行十三失が詳細である。

光号摂化
答へていはく、諸仏の所証は平等にしてこれ一なれども、もし願行をもつて来し収むるに因縁なきにあらず。しかるに弥陀世尊、本深重の誓願を発して、光明・ 名号をもつて十方を摂化したまふ。ただ信心をもつて求念すれば、上一形を尽し下十声・一声等に至るまで、仏願力をもつて易く往生を得。このゆゑに釈迦および諸仏勧めて西方に向かはしむるを別異となすのみ。 またこれ余仏を称念して障を除き、罪を滅することあたはざるにはあらず、知るべし。

専雑得失
もしよく上のごとく念々相続して、畢命を期となすものは、十はすなはち十ながら生じ、百はすなはち百ながら生ず。なにをもつてのゆゑに。外の雑縁なくして正念を得るがゆゑに、仏の本願と相応することを得るがゆゑに、教に違せざるがゆゑに、仏語に随順す るがゆゑなり。

もしを捨てて雑業を修せんと欲するものは、百は時に希に一二を得、千は時に希に三五を得。なにをもつてのゆゑに。すなはち①雑縁乱動する によりて正念を失するがゆゑに、②仏の本願と相応せざるがゆゑに、③教と相違せるがゆゑに、④仏語に順ぜざ るがゆゑに、⑤係念相続せざるがゆゑに、⑥憶想間断するがゆゑに、⑦回願慇重真実ならざるがゆゑに、⑧貪・瞋・諸見の煩悩来り間断するがゆゑに、⑨慚愧・懺悔の心あることなきがゆゑなり。 懺悔に三品あり。一には要、二には略、三には広なり。下につぶさに説くがごとし。意に随ひて用ゐるにみな得たり。

また⑩相続してかの仏恩を念報せざるがゆゑに、⑪心に軽慢を生じて業行をなすといへども、つねに名利と相応するがゆゑに、⑫人我おのづから覆ひて同行善知識に親近せざるがゆゑに、⑬楽ひて雑縁に近づきて、往生の正行を自障障他するがゆゑなり。なにをもつてのゆゑに。余、このごろみづから諸方の道俗を見聞するに、解行不同にして専雑異なることあり。ただ意をもつぱらにしてなせば、十はすなはち十ながら生ず。雑を修して至心なら ざれば、千がなかに一もなし。この二行の得失、前にすでに弁ぜるがごとし。『往生礼讃』P.659 ○数字は便宜の為付した。

TS会で現代の教行信証と呼ばれ出版準備までされながら、他者の著書からの剽窃が表面化し、出版を断念したというTS会会長の記述した『会報』の中から雑行十三失の解釈を引用しておこう。信心に対する考え方がおかしく全て肯定されるわけではないことを断っておく。また下品で言葉遣いが汚く攻撃的ではあるが、TS会の会長は雑行について、このように述べていた時代もあったのである。

>>引用開始

(一)雑縁乱動して正念を失するに由るが故に。
これは己れの努力によっては真実になれるのだと自惚れて、身口意の三業を磨き上げて功徳善根を積み、それによって弥陀の浄土へ往生しようと考えているのだが、か弱い不確実な自力をたよっているのだから、乱れ来る様々な悪縁にあうたびに思い固めた信心に狂いが生じて悩み苦しむのである。順境には感謝出来るが逆境に見舞われると忽ち信心がぐらつき、常に自己矛盾に悲しまなければならぬのである。

(二)仏の本願と相応せざるが故に。
この仏の本願とは阿弥陀仏の本願のことであるが、阿弥陀仏が十劫の古に、すでに十方の衆生は十悪五逆法謗闡提逆謗の屍であることを見抜いて本願を建立なされてあるのに自分はやればやれるのだと自惚れて諸善を積んだり、念仏を励んだりして助かろうと思っているのだから、苦労しながら阿弥陀仏の本願に相応しないのである。これでは助かる道理がない。

(三)教と相違せるが故に。
この教は釈尊出世本懐の教えをいう。即ち釈尊一代四十五年間の説法は我身知らずの我々に曽無一善、一生造悪、必墮無間の実機を知らせ、その悪機を救う弥陀の本願を信知させんが為のものであったのに、その釈尊の真意が判らず自分は善根功徳の積める善人だと思って雑行を励んでいるのだから釈迦一代の一切経を反古にしているのだ。真実教に背反して助かる筈がない。

(四)仏語に順ぜざるが故に。
この仏語は三世諸仏のお言葉であるが、その諸仏の証誠讃嘆のお言葉に順っておらぬからである。すでに十七願、諸仏咨嗟の願が成就して「十方恒沙諸仏如来、皆共に無量寿仏の威神功徳の不可思議なるを讃嘆したまう。」とありそれが、『阿弥陀経』の六方恒沙の諸仏如来の証誠護念のお言葉となったのであるが、これは決して諸善万行の徳を讃嘆なされたのではない。南無阿弥陀仏の名号に逆謗の屍を絶対の幸福に生きかえらせ得る威神力のあることを証明し讃嘆なされたものであることは明らかである。この仏語も知らず善根功徳をつんで助かろうと雑行を励んでいるのは当にこれらの仏語を疑い背き順じていないのだから助かることがないのである。

(五)係念して相続せざるが故に。
信楽開発した人なら仏凡一体機法一体だから動くままが、南無阿弥陀仏で問題にならぬことだが微塵ほども真実のないものが、善根を励んで行こうと力んでいるのだから心にかけながらも相続出来ないのは当然である。
(六)憶想間断するが故に。
信決定した人ならば現当二益の大益を頂いているから「憶念の心つねにして、仏恩報ずるおもいあり」だが、自力で励んだ善根功徳で助かろうとするのだから静かな心の時と散乱している時と同じであり得ない。善がやれた時は助かるように思い悪が噴きあげた時はこれでは駄目だと悲観せずにおれないから往生の想念は常に間断せずにはおれないのである。

(七)廻願の慇重真実ならざるが故に。
善根がつめるのだと自惚れているのだから如来に向かっても廻向発願して願生する念が慇懃ではなく、また誠実でもない。善因をつんで善果を得ようという打算的な気持ちだから恭敬の念も尊重の念もある道理がないのである。

(八)貪瞋諸見の煩悩来りて間断するが故に。
三業を真実に出来ると自惚れて努力はしていても貪欲、瞋恚等の煩悩や様々の悪邪見がおきて折角の善根も悉く雑毒の善や虚仮の行となって修道の心を障げることになるのである。

(九)慚愧懺悔の心あることなきが故に。
懺悔といっても仏教では上中下の三種に分けて説かれている。上品の懺悔は全身の毛孔から血を流し眼から血涙を流す熾烈な懺悔である。中品は全身より熱い汗、眼から血涙を流す懺悔、下品は全身と眼から熱汗熱涙を流す懺悔をいう。「真心徹到する人は、金剛心なりければ、三品の懺悔する人と、ひとしと宗師はのたまえり」と『和讃』にあるように、真実の信心が徹底すれば我機に呆れ、本願に呆れ、無二の懺悔をさせられるけれども、自分は諸善が積める善人だと自惚れている者に慚愧の心や懺悔の心がないのは当然である。
以上、九失を聖人は十九願の行者の欠点となされ、折角聖道仏教を廃して浄土仏教に入りながら定散自力の心が廃らず雑行を捨て切れないで、またしても元の古巣へ舞い込まねばならぬとは残念至極ではないかと「定散諸機各別の自力の三心ひるがえし、如来利他の信心に通入せんとねがうべし」と速に雑行を投げすてることを祈念していわれるのである。
{中略}

(十)相続して彼の仏恩を念報せざるが故に。
如来のみ心が判らず、仏壇を立派にしたり、礼拝読経したり、御仏飯やお花を供養したり、念仏を称えることが御恩報謝だと思っている者がいるが、とんでもない思い違いである。
「弥陀の名号称えつつ、信心まことにうる人は、憶念の心つねにして、仏恩報ずるおもひあり」「釈迦弥陀の慈悲よりぞ、願作仏心はえしめたる、信心の智恵にいりてこそ、仏恩報ずる身とはなれ」と『和讃』にあるように、阿弥陀仏が最もお喜びになるのは、我々が信心決定することであり、信楽開発の身になることである。
十劫の古より立撮即行のみ心は、偏えに我々が名号大功徳を受けとって大安心大満足になることを念じての御苦労であれば、これ以上に阿弥陀仏の御満足になることはないのである。その阿弥陀仏のみ心を知らないで、信心決定もせず、これだけ朝夕のお勤行欠かさずにしているから、これだけ真心こめて供養しているから、これだけ念仏称えているから、これだけ御恩報謝しているからと自惚れているのだから続く道理がない。
まだ助かってもいないものに御恩の判る筈もないし、御恩の判らぬ者に報謝の心のないのは当然である。「助正ならべて修するをば、すなわち雑修と名づけたり、一心をえざる人なれば、仏恩報ずる心なし」と聖人は喝破なされている。にもかかわらず、信心決定(助かる)することを忘れて礼拝したり読経したり、仏壇を立派にしたり御仏飯やお花を供養したり、念仏することを報謝だと思って、自惚れて、つとめているから、これだけやっているのだから大丈夫と自力をさしむけて、阿弥陀さまを泣かせているのだ。御恩報謝どころか弥陀を疑いはからい殺しているのだ。
「仏智疑う罪深し、この心おもいしるならば、くゆる心をむねとして、仏智の不思議をたのむべし」である。

(十一)業行を作すと雖も常に名利と相応する故に。
「真実の心はありがたし、虚仮不実のわが身にて清浄の心もさらになし、修善も雑毒なる故に、虚仮の行とぞ名づけたり」と信楽開発して自力浄尽されていないから、自力のはからいが離れ切れないで、口では他力より助かる道はないとはいいながら、これだけ善根をつんでいるから他人がほめてくれるだろう。こんな親切しているから何かよいことがあるだろう、これだけ朝夕勤行しているから死んでも悪いところへはゆかんじゃろう。こんなに仏法の為につくしているから何か御利益があるだろうと、やることなすことが自分の名聞や利養を離れて考えられないのである。

(十二)人我自ら覆うて同行、善知識に親近せざるが故に。
「おれがおれが」という我慢我執の心によって真の知識や同行に近づくことが出来ないのである。「至言は耳にさからう」の諺のように真の知識や同行の言葉はきびしく、はげしく辛辣である。真実の仏法を聞くということは叱られるということである。叱られて有難いと思える程、我々の迷いは浅くないから、真の同行や知識の言葉は聞きたくないのである。
俺だけは大丈夫だと我慢我執の自力の心で固めた信心を持って安心している者は、法の手元の有難い話なら調子が合って喜べるが機の真実を聞かされると信心が動揺し不安になるから、折角、真の知識や同行にめぐり遇いながら離れよう離れようと努めるのである。

(十三)楽みて雑縁に近づきて往生の正行を自障々他するが故に。

自身の信仰の程度のお粗末なことに気がつかず、真実の知識や同行を疑謗して「あんなハッキリしたことをいうのは異安心じゃ、あんな話をきくと迷うぞ」と自分だけが近よらないようにするだけでなく、他人にまで吹聴して、自から第六天魔王になって真実の仏法を求める邪魔をするのである。
>>引用終了

かっては廃立を前面に打ち出し、三願転入を批判していたTS会会長であるが、いつしか三願転入を説き始めたりして腰が定まらないのは、浄土真宗という本願力回向というご法義を理解できないためであろう。当人が理解できていないことを聴かされるほど辛いことはないし会員には理解不能である。しかるに不思議なことにTS会の会員や講師は、教えがころころ変わったり矛盾した会長の言葉や行動を、私には理解できない「深い御心」と受け取るそうである。まさに奴隷の主人に対する服従の姿勢なのだが、自らの人生を他者に委ねてしまう会員は、TS会や講師そして会員間で共依存の関係に陥っているのかも知れない。

浄土真宗というご法義は、なんまんだぶを称える宗旨であり、凡夫が仏の覚りを得るにはこれしかないという、大乗至極の宗教である。

念仏成仏これ真宗
万行諸善これ仮門
権実真仮をわかずして
自然の浄土をえぞしらぬ

浄土真宗はお念仏を称える法義であることは上記の和讃で明らかである。また、『信巻』の「信一念釈」は『行巻』「行一念釈」と不離であり一具であるのだが、TS会会長は若年時の一時の感情の爆発を信心獲得と誤解したところから間違いがはじまったのであろうか。

TS会の会長は、雑行を捨てて正行のなんまんだぶに帰せという「従仮入真」という宗学用語を、仮からしか真に入れないと教えいるらしい。
また、『真仏土巻』の「真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す。」という、これから述べる『化身土巻』の行信に迷っては駄目ですよ、と戒めた親鸞聖人の言葉を、仮をやってこそ真に出会えると全く逆の意味で教えているのである。
このような言説に騙される方もどうかと思うのだが、TS会では外部情報を遮断して本物の浄土真宗への道を遮断している。何千万何億人という人が、本願に誓われた往生の正行である、なんまんだぶを称えよという本願を信じお念仏してきたのが浄土門であり、その結論が浄土真宗である。
歎異抄の著者の言うとおり「本願を信じ念仏を申さば仏に成る」というのが、法然・親鸞両聖人のお勧めである。


俵山夏安居

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僧侶主体の安居(於 西念寺)は6月だが、一般の門徒を対象とした安居。

信心の欲しい人は、ぜひぜひ参詣するとよいですよ。
光摂坊(本寺 西念寺の支坊)の周りには、なんまんだぶのご法義にあって、捨てられた信心がいっぱい落ちていますから、自分の機に合わせてよりどりみどり、あおみどりで拾えます(笑

深川倫雄和上は、古いタイプの感覚(航空士官学校卒)をお持ちですから、安易に気安く話しかけるとどえらい雷が落ちますから注意(笑

宿は、
http://www.tawarayama-onsen.com/
で、案内されていますが、そもそも俵山温泉は湯治客主体で、自炊しながら一ヶ月くらい泊まって治療する温泉なのですが、夏安居の時はなぜか高い。

日本にまだこんな風情が残っていたんだとか、なんまんだぶという救済法に関心があるなら、行く価値はあるな。

残念ながら、林遊は参加できないけど、インターネットで林遊から和上様の話を聞きましたと言えば、怒られないかもね(笑い

願海真仮

林遊@なんまんだぶつ Post in 仏教SNSからリモート
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TS会最後の砦「要門」であるが、判りやすく図にしてみた。

要門・真門・弘願という言葉は善導大師が使われた用語である。
この用語を三願・三経に配当し、真仮を分判されたのが親鸞聖人の願海真仮論であり、『無量寿経』の三願を三願・三経・三門・三藏・三機・三往生の六種に分けて六三法門と呼ぶ。
六三法門

この六三法門を見れば三願転入などという発想は起きない筈なのだが、TS会では時間の方向の捉え方がおかしいので盛んにこれをいう。

宿善とは現在から過去を振り返る時に使う用語なのだが、TS会ではこれを未来へ使おうとする。
同じように、御開山が過去を振り返って、この道は行くのではないですよ、と仰っている三願転入を未来を示す求道用語として使うから論理が無茶苦茶になるのである。

浄土真宗というご法義は、求道も修行も全て因位の法蔵菩薩がなされ「弥陀如来は如より来生して」下さる如・来するご法義である。

弥陀成仏のこのかたは
いまに十劫をへたまへり
法身の光輪きはもなく
世の盲冥をてらすなり
浄土和讃

この御和讃にもあるように浄土真宗は、今・いま・今の、今現在に無明煩悩の衆生に名号法となって届けられているご法義である。この今現在の救済を三願転入などといって拒否し/拒否させているのがTS会である。

三願転入派は、本物を知るためには偽者(仮)を知らなければならないという発想なのだろうが、贋物は100万年たっても偽物である。本物を知ることによって贋物が偽物であることが判るのである。

これが本物であると第十八願の弘願を示されてあるのに何故偽者である「仮」を選ぶのかMCとは怖いものである。

なお、善導大師は、すでに要門と弘願の二門の違いを判定されている。

たまたま韋提、請を致して、「われいま安楽に往生せんと楽欲す。 ただ願はくは如来、われに思惟を教へたまへ、われに正受を教へたまへ」といふによりて、しかも娑婆の化主(釈尊)はその請によるがゆゑにすなはち広く浄土の要門を開き、安楽の能人(阿弥陀仏)は別意の弘願を顕彰したまふ。

その要門とはすなはちこの『観経』の定散二門これなり。 「定」はすなはち慮りを息めてもつて心を凝らす。 「散」はすなはち悪を廃してもつて善を修す。この二行を回して往生を求願す。

弘願といふは『大経』(上・意)に説きたまふがごとし。 「一切善悪の凡夫生ずることを得るものは、みな阿弥陀仏の大願業力に乗じて増上縁となさざるはなし」と。
『観経疏』要弘二門

これによれば、『観経』には、釈尊の要門の教えと阿弥陀如来の弘願による救済が述べられていることが判る。
『観経』には、

かの国に生ぜんと欲はんものは、まさに三福を修すべし。一つには父母に孝養し、師長に奉事し、慈心にして殺さず、十善業を修す。二つには三帰を受持し、衆戒を具足し、威儀を犯さず。三つには菩提心を発し、深く因果を信じ大乗を読誦し、行者を勧進す。かくのごときの三事を名づけて浄業とす」と。仏、韋提希に告げたまはく、「なんぢいま、知れりやいなや。この三種の業は、過去・未来・現在、三世の諸仏の浄業の正因なり」と。『観無量寿経

と、世福(世俗の善)・戒福(戒善)・行福(行善)の三福を挙げられて、全ての仏教をこの観経一巻に納められていることが判る。

釈尊は八万四千の仏教を小乗仏教も含めて『観経』一巻に納めて要門として説かれ、安楽世界の救主である阿弥陀如来は、特別のお心で別意の弘願を 顕彰して下さっているのが『観経』という経典である。

つまり、要弘二門釈で、この『観経』に代表される聖道門の教えを要門とし凝集し、この教えと阿弥陀如来の弘願(第十八願)とを対判されているのである。
仏教では「行は願によって転ず」というように、行ないというものは願いによってその意味を変えるものである。本来此土入聖の聖道門の行をもって往生浄土をせしめようというのが『観経』であり、これを聖道門から浄土門へ入らしめる肝要の法門であるから要門というのである。

ちなみに最後の経典を後世に伝える流通分には、釈尊も『観経』の結論として、阿弥陀如来と同じに、なんまんだぶをお勧めになる。

もし念仏するものは、まさに知るべし、この人はこれ人中の分陀利華なり。観世音菩薩・大勢至菩薩、その勝友となる。まさに道場に坐し諸仏の家に生ずべし」と。仏、阿難に告げたまはく、「なんぢ、よくこの語を持て。この語を持てといふは、すなはちこれ無量寿仏の名を持てとなり」と。仏、この語 を説きたまふとき、尊者目犍連・阿難および韋提希等、仏の所説を聞きてみな大きに歓喜す。
『観無量寿経』「流通分

このように一見すれば、聖道門の発菩提心と修諸功徳が説かれているように見える『観経』は、聖道門仏教から浄土門仏教へという異の方便、欣慕浄土の仮の法門であるというのが親鸞聖人のお心である。

しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如 来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。すでにして悲願います。修諸功徳の願(第十九願)と名づく、また臨終現前の願と名づく、また現前導 生の願と名づく、また来迎引接の願と名づく、また至心発願の願と名づくべきなり。
「化身土巻」「要門釈、第十九願開説、観経の意

浄土門仏教は阿弥陀如来が救い主であって、釈尊はその道を教えて下さった教え主なのだが、救主と教主を混同するからTS会のように聖道と浄土を混雑させたわけの判らない思考になるのだろう。

他力の他は私です

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言葉は長い間使われているうちに意味の拡散が起こり、本来の意味とはかけ離れた意味で使用されることがあります。浄土真宗で阿弥陀如来の救済力をあ らわす他力本願という用語もこのような言葉の一つです。

他力とは利他力のこと

本来的には他力という言葉は、主体(仏:救済する者)と客体(衆生:救済される者)を自と他に分け、仏である自から衆生を他とした言葉で す。

である阿弥陀如来の救済力が、如来からみてである衆生を救済し続ける本願力を他力と表現したのです。阿弥 陀如来を中心とした秩序のある世界観を表わす言葉だったわけです。

他力の他は私なのです。自他が逆転しているのです。仏から汝と喚(よ)び続けられる存在が他なのです。このような意味で親鸞聖人は 「他力というは如来の本願力なり」と仰られたのです。

これは親鸞聖人の「本願力=利他力=他力」という思想の根幹である『浄土論註』覈求其本釈によっています。

参照:今将談仏力(いままさに仏力を談ぜんとす)

縦の線と横の線

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高森親鸞会のいう縦の線と横の線について考えてみました。

まさに高森親鸞会の廃刊になった「会報」にあるごとく
「一体、どこに十九願相応の修行している道俗が真宗に見あたるか。どこに二十願相応の念仏行をやっているものがいようか。真宗の道俗はさもいと易く「あれはまだ十九願だ」「あれは二十願の人だ」といっているが願の上からだけなら言えるかも知れぬが、それに相当した行がともなわない人達ばかりだから本当の十九願の行者、二十願の行者は真宗の道俗にはないといってもよいのだ。」
であって、19願(要門)、20願(真門)は名前だけあって修する人がいない道ですね(笑

浄土真宗は第十八願の本願力回向のご法義です。
では、『正信念仏偈』から、その思し召しを少しく窺ってみましょう。

まず、龍樹菩薩は「易行道」と「難行道」との二つに分けて、

顕示難行陸路苦 信楽易行水道楽
憶念弥陀仏本願 自然即時入必定

龍樹菩薩は、この土での修行は、険しい陸路をたどるように難行道であり、 念仏往生の道は、大船に乗って安らかに目的地へ往くような易行道であると教えられた。
そして、阿弥陀仏の本願の救いを疑いなく聞き受ければ、  本願力によって、即時に必ず仏になる位に入れしめられる。
と、仰せになりました。

これは、『十住毘婆沙論』「易行品」の

仏法に無量の門あり。世間の道に難あり易あ り。陸道の歩行はすなはち苦しく、水道の乗船はすなはち楽しきがごとし。菩薩の道もまたかくのごとし。あるい は勤行精進のものあり、あるいは信方便易行をもつて疾く阿惟越致に至るものあり。 『十住毘婆沙論』p.5
人よくこの仏の無量力威徳を念ずれ ば、即時に必定に入る。この ゆゑにわれつねに念じたてまつる。 『十住毘婆沙論』16

に、依られたものである。

天親菩薩は、この本願力回向の阿弥陀仏の本願を憶念することを一心の信心であると仰いました。

広由本願力回向 為度群生彰一心
帰入功徳大宝海 必獲入大会衆数

本願力の回向によって、普く衆生が救われることを知らせるために、 それを受けいれる一心(信心)が往生の因であると彰された。
本願の名号を受けいれ、海のように広大な本願の世界に帰人した人は、阿弥陀仏の脊属になり、かならず仏になる位に定まる。

これは、以下の『浄土論』の内容である。

世尊、われ一心に尽十方無礙光如来に帰命したてまつりて、安楽国に生ぜんと願ず。
仏の本願力を観ずるに、遇ひて空しく過ぐるものなし。よくすみやかに功徳の大宝海を満足せしむ。
阿弥陀仏を讃歎し、名義に随順して如来の名を称し、如来の光明智相によりて修行するをもつてのゆゑに、大会衆の数に入ることを得。

この二菩薩のお心を受けられた曇鸞大師は、

往還回向由他力 正定之因唯信心
惑染凡夫信心発 証知生死即涅槃

往相も還相も、すべて本願力によって回向されるから、 往生の正因は疑いなく受けいれる信心一つである。
愛憎の煩悩に染まった凡夫も、信心が発るならば、生死する身でありながら、生死を超えた涅槃をさとるべき身となる。

つつしみて龍樹菩薩の『十住毘婆沙』(易行品・意)を案ずるに、いはく、「菩薩、阿毘跋致を求むるに、二種の道あり。一には難行道、二には易行道なり」と。「難行道」とは、いはく、五濁の世、無仏の時において阿毘跋致を求むるを難となす。この難にすなはち多途あり。ほぼ五三をいひて、もつて義の意を示さん。{中略}五にはただこれ自力にして他力の持つなし。かくのごとき等の事、目に触るるにみなこれなり。たとへば陸路の歩行はすなはち苦しきがごとし。「易行道」とは、いはく、ただ信仏の因縁をもつて浄土に生ぜんと願ずれば、仏願力に乗じて、すなはちかの清浄の土に往生を得、仏力住持して、すなはち大乗正定の聚に入る。 『浄土論』

と、本願力の一心による易行道を「他力」と表現して下さいました。

さて、ここで注意が必要なのですが、ここまでの信心という表現は、「易行道」、それを受け容れる「一心」、他力(本願力)に随順するということ、つまり阿弥陀如来の本願力を信じるということが「信心」という言葉の意味だということです。

そして、これをコペルニクス的展開で仏教を二分されたのが道綽禅師でした。自分が中心であるという天動説の世界観から、如来が中心であるという地動説の世界観を提唱されたのです。これを、「聖浄二門判」といい、仏教には「聖道門」と「浄土門」いう二種類の仏教があり、末法では「浄土門仏教」でなければ証(さとり)することが出来ないと仏教をひっくり返してしまったのです。

道綽決聖道難証 唯明浄土可通入
万善自力貶勤修 円満徳号勧専称

道綽禅師は、自力聖道の修行によってこの土でさとることは不可能であり、 ただ浄土に往生することのみが、さとりを得る道であると決択された。
この世でさまざまな修行をしても、かならず挫折すると自力修道を退け、あらゆる功徳が円かに具わった名号をひたすら称えることを勧められた。

これが、法然聖人の立教開宗の根拠となった「聖浄二門判」である。

大乗の聖教によるに、まことに二種の勝法を得て、もつて生死を排はざるによる。 ここをもつて火宅を出でず。 何者をか二となす。 一にはいはく聖道、二にはいはく往生浄土なり。その聖道の一種は、今の時証しがたし。 一には大聖(釈尊)を去ること遥遠なるによる。 二には理は深く解は微なるによる。 このゆゑに『大集月蔵経』(意)にのたまはく、「わが末法の時のうちに、億々の衆生、行を起し道を修すれども、いまだ一人として得るものあらず」と。
当今は末法にして、現にこれ五濁悪世なり。 ただ浄土の一門のみありて、通入すべき路なり。 このゆゑに『大経』にのたまはく、「もし衆生ありて、たとひ一生悪を造れども、命終の時に臨みて、十念相続してわが名字を称せんに、もし生ぜずは正覚を取らじ」と。 『聖浄二門』

ところで、TS会の会員って、『正信念仏偈』を読誦してるのかな。真面目に読誦してれば「三願転入」などという高森氏の詭弁に騙されるはずはないのだが、ひょっとして『正信念仏偈』を意味も判らずに唱えていたのかな、謎だな。

阿弥陀如来のご信心

林遊@なんまんだぶつ Post in つれづれ, 管窺録
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浄土真宗では信心をご信心と表現することが多い。
信について、『教行証文類』「三心字訓釈」で、「信楽といふは、信とはすなはちこれ真なり、実なり、誠なり…」とある。
これは信心とは真実など全くない衆生の側で論ずるのではなく、阿弥陀如来の信心が衆生のために恵まれることを意味している。このようなわけで如来の信心であるから「ご信心」と言い慣わしてきています。
ところが、信心というものを勘違いして、自分が思いこむ事を浄土真宗のご信心だと説く団体がある。「信巻末」の信一念釈を誤解しているのだが、このような人は「行巻」の行一念釈も知らないから、選択摂取されたお念仏を軽視するので困ったものだ。

そこで、如来の信心という梯實圓和上の講義の抜書きをUPしてみる。

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如来が私達を救うという事に付いて、如来の側に一点の疑慮もない。決定して摂取する。決定摂取というのが如来のお心です。一点の疑い心もない。「あいつを助けてやる事できるかな。うまい事いくかな」そんな一点の疑い心もない。必ず摂取する。これは決定摂取です。

その決定摂取に対した時に私の方から「助かるだろうか、どうだろうか」という様なものがある訳がない。向こうが「助ける」と仰っているのに、こちらが助かるかどうかという事を案じるという事は如来の仰せを聞いていないという証拠です。如来の仰せを仰せの通りに聞けば疑いようがないのです。疑いを雑えるという事はまことに失礼な事だという事です。如来の仰せを誤解している事ですから如来様に対して非常に失礼な事なのです。

そこで「如来の誓願疑蓋雑わることなし」故に私の領受また疑蓋雑わることなし。それが信楽という事だ。だから信楽というのは如来の心でもあり衆生の心でもある。衆生の心でもあり、そのままが如来の決定摂取の心でもある。それが信楽というものだという事です。だから涅槃の真因決定という事になる訳です。これが「三一問答」の結論なのです。
三心一心の問答というのは、これが言いたいのです。

「疑蓋雑わることなきがゆゑに信とのたまへる」ここに疑蓋の「蓋」には「ふた」という左訓があります。これは面白い左訓です。蓋というのは鍋の蓋、コップの蓋みたいなものです。鍋に蓋をしたまま、コップに蓋したまま水を入れようとしても入りません。全部外へ出てしまって一滴も中に入りません。ちょうどその様に心に蓋をしていたら法は入らない。
心の蓋をとれば水は自然と入っていくように心の蓋を取れば法は法の通りに届いて来るのです。その法が法の通りに届いた相(*すがたのこと)を信というのです。だから信というのは法が機にある相です。法が衆生の機の上にある相を信というのです。だから信を得るといいますが、信に体はありません。

信というものは疑いのない状態です。ない状態なのです。だから宗祖は「信心というは如来の御誓いを聞きて疑う心のなきなり」ここで「疑いない心」とは言わないで「疑う心なきなり」といいます。
では何があるのか、あるのは如来の御心が私に届いているという事なのです。あるのは如来の心が私にあるのです。だから信は私の上にあるけれども私のものではない。それを如来回向の信心というのです。

「それでは具体的に信の物柄というのは何ですか」といったら、それは勅命です。如来の仰せなのです。如来の仰せの他に信というものは存在しない。だから「勅命の他に領解なし」如来の仰せを聞く以外に信というものはない。だから仰せを仰せの通りに聞き入れている状態を信心と呼ぶのです。
だからあるのは如来の仰せがあるのです。仰せがあるという事は、仰せとなって如来の心が私に届いているという事です。

必ず救おう、救済するという如来の心が私の上に顕現している相が信心っというもの。だから信心とは如来の心である。衆生の上にあるけれども如来の心なのです。だからまた逆に言うと「誓願疑蓋雑わる事なし」誓願に疑いがないという事は、その如来の心が私の上に届いて来ないと意味をなさない訳です。だから「常に信は仏辺に仰ぐ」と昔の人が言うのはそれなのです。信心は自分の心に探さない。自分の心の中に「私は信心を得たか」と自分の心を探して見たって何もないのです。あるのは妄念煩悩だけです。何も無い。これは実に見事なもので何も無くなります。あるように思っていのは、あれはみな錯覚です。熱が三九度出たら頭の中には何もない。フワーとしてしまう。何にも残りません。実に見事に無くなってしまいます。そんなものなのです。

しかしそのままでお浄土行くのです。だから何か持って行くのではないのです。何もないのです。そのままで、生まれたままの裸で行くのです。だから信心らしいものを心の中に見つけたら、それはまず偽物でしょう。それは自分がそう錯覚しているだけです。だから感激があっても、そんなものはすぐに消えるでしょう。だから信心っていうのは感情ではないのです。そういう事です。
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ご信心

疑いの蓋

補足:
ここは、三経通顕(真仮分判)釈についての講義の一部です。

「ここをもつて『大経』には「信楽」とのたまへり、如来の誓願、疑蓋雑はることなきがゆゑに信とのたまへるなり。」「註釈版p.393

ここの文章の疑蓋の蓋という漢字に「フタ」という左訓(文字の意味を示したカナ)がされていて、それについての講義から画像をUPしました。「原典版」ではp.496です。元来、疑蓋とは五蓋の欲貪蓋・瞋恚蓋・惛眠蓋・掉悔蓋・疑蓋の疑蓋のことで煩悩の異名。ゆえに通常は蓋にはカイと右訓されている。

高森親鸞会の人は「信一念釈」がお好きらしく、

「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。「註釈版p251」

を、よく依用します。意味が判っていないのでしょうが、これは原文では、
聞者 衆生聞仏願生起本末 無有疑心 是曰聞也 言信心者 則本願力廻向之信心也。

ここでは聞によって信をあらわしておられるのですが、この無有疑心を『一念多念証文』では、

「聞其名号」といふは、本願の名号をきくとのたまへるなり。きくといふは、本願をききて疑ふこころなきを「聞」といふなり。またきくといふ は、信心をあらはす御のりなり。「信心歓喜乃至一念」といふは、「信心」は、如来の御ちかひをききて疑ふこころのなきなり「註釈版p.678」

と、仰って、信心とは「疑ふこころのなきなり」とされています
ない状態を信心と仰っているのであって、高森親鸞会でいう、ハッキリしたとか、只の只のただじゃった、というような感情の爆発のような心のない状態を信心というのだと仰せです。

ところが、高森顕徹氏は、「無有疑心」を「疑いの無い心」が有ると思いこみ、それを信心であると思ったのが長い高森親鸞会の不幸の始まりでした。いわゆる一時の感情の爆発を信心と高森氏は錯覚してしまったのでしょう。こういう人は自分が真剣な求道をしていると思っている人に結構居ます。

「信一念釈」の一念は本願の名号を領受した初めの時間の瞬間をいうのですが、何か物柄が自分の心に出来上がったことのように領解してしまったのでしょう。

一念岩をも通すなどというように、ひたすら心に深く思いこむことを一念であり信心であると誤解した立場なのでしょう。
高森氏は軍国少年だったそうですが、一念という言葉を当時の軍国主義の影響から、一念岩をも通すのようにひたすら心に深く思いこむことと受け取ったのでしょう。「行一念釈」と「信一念釈」は不離であり古来から行信不離といわれています。

これは、私が助かる法を聴く聴き方と、私を助ける法を聴く聴き方では聞き方が違うのですが、前者の求道主義者は、一念をひたすら心に深く思いこむことと取り誤ってしまうのです。「単信無称」の観念論に陥ってしまうのです。

越前でも「信心乞食」といって、このご法義の信心を勘違いして、確かな物柄というか体験を欲しがり、聴聞に苦しんでいる人が沢山いらっしゃっいましたが、救済の法で苦しむなんて本末転倒ですね。

富士の白雪ゃ朝日で溶ける
凡夫疑い晴らさにゃ解けぬ
とけよとけよというよりも
晴れたお慈悲を聞きほれる

などと越前の先達は言っていましたが、私の心に着目するよりも私を助ける法に着目すべきなのです。
そして、それを聞信している相(すがた)が、このご法義の信心です。
弥勒菩薩でさえ成仏するには56億7千万年もかかるというのに、末世の凡夫が拵えた信心では往生成仏は不可能です。
「信巻」では、衆生には、「法爾として真実の信楽なし。」とされていますが、光に向かってこれを求めよというTS会はおかしい人の集団であるとしか思えません。

阿弥陀如来のご信心であるからこそ、涅槃の真因に成り得るのです。
凡夫がどのように「身心を苦励して、日夜十二時急に走り急になすこと、頭燃を救ふがごとくするものも、すべて雑毒の善と名づく。」「至誠心釈p.455」と善導大師が仰っているように、真実(至誠心)は凡夫の側にはありえないのです。

ましてや、
・獲信の因縁(宿善)として諸善をせよ
・諸善と獲信はよい関係にある
・善をしなければ信仰は進みませんよ

などの雑毒の善を奨め三願転入しなければ救われないと教えるに至っては、まさに

悲しきかな、垢障の凡愚、無際よりこのかた助正間雑し、定散心雑するがゆゑに、出離その期なし。みづから流転輪廻を度るに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。まことに傷嗟すべし、深く悲歎すべし。

現代語:
悲しいことに、煩悩にまみれた愚かな凡夫は、はかり知れない昔から、迷いの世界を離れることがない。果てしなく迷いの世界を生れ変り死に変りし続けていることを考えると、限りなく長い時を経ても、本願力に身をまかせ、信心の大海にはいることはできないのである。まことに悲しむべきことであり、深く嘆くべきことである。

ですね。

一心不乱の事

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醍醐本という法然聖人の語録がある。
漢文(日本漢文)なのでよく判らないのだが、適当に意訳してみた。

原文:
一、阿弥陀経一心不乱事
一心者、何事心一スルソト云、一向念仏申阿弥陀仏心我心一成也。
如天台十疑論云。如世間慕人能受慕者機念相投必成其事。
慕人者阿弥陀仏也、恋ラルル者我等也。
既心発一向阿弥陀、早仏心一成也。
故云一心不乱。
上少善根福徳因縁念ウツサヌ也云々。

意訳:
『阿弥陀経』の一心不乱ということ。

一心とは何に心を一つにするかといえば、
ひとむきに念仏を申せば阿弥陀仏の心と私の心が一つになるのである。

天台の『十疑論』に、
世間で人が慕うように、
人が慕うことを受け入れる者は、
お互いの思いがあい通じ合って必ず成就するようなものである。

慕う人とは阿弥陀仏である。恋せられる者は私たちである。
すでにひとむきに阿弥陀仏はそのような心を発されたのであるから、
はやく仏のお心と一つになるべきである。
そのようなわけで、一心不乱というのである。

これはまた、自力で行うわずかな善根功徳の諸行に、心をうつさないということである。

これは、以下の『阿弥陀経』にある「一心不乱」という経文について法然聖人が述べられたものである。

>>
舎利弗若有善男子善女人聞説阿弥陀仏
執持名号若一日若二日若三日若四日若
五日若六日若七日一心不乱其人臨命終
時阿弥陀仏与諸聖衆現在其前是人終時
心不顛倒即得往生阿弥陀仏極楽国土舎
利弗我見是利故説此言若有衆生聞是説
者応当発願生彼国土

舎利弗、もし善男子・善女人ありて、阿弥陀仏を説くを聞きて、名号を執持すること、もしは一日、もしは二日、もしは三日、もしは四日、もしは五日、もしは六日、もしは七日、一心にして乱れざれば、その人、命終のときに臨みて、阿弥陀仏、もろもろの聖衆と現じてその前にましまさん。この人終らんとき、心顛倒せずして、すなはち阿弥陀仏の極楽国土に往生することを得。舎利弗、われこの利を見るがゆゑに、この言を説く。もし衆生ありて、この説を聞かんものは、まさに発願してかの国土に生るべし。
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一心とは、阿弥陀如来の我を思う心と、阿弥陀仏如来を念ずる我の心が一つに成ることであるといわれる。
そして、不乱とは少善根としての善根功徳の諸行に心を移して乱さないことであるとされている。
もちろん浄土門の善とは、執持名号としてのなんまんだぶを称えることであり、これが善本(善の根本)であり徳本(徳の根本)であることは当然のことである。

それにしても、阿弥陀如来が林遊を恋慕して下さるという表現は、清僧とされていた法然聖人にしては面白い表現ではある。
「われ称え、われ聞くなれど なんまんだぶつ 連れていくぞの 弥陀の呼び声」という句があったが、阿弥陀さまに恋せらるるなら、浄土へ往かにゃぁなるまいなあ、ありがたいこっちゃ。

この阿弥陀経の一段だが、じいさんの阿弥陀経のおっとめの助音をしながらばあさんが、
「なあオメ、ここ有難いな。我見是利故説此言(がけんぜりこせつしごん)、われこの利を見るがゆえに、この言を説く、と言うてなさるんやなあ。仏さまは嘘つきなさらんからなあ」
と言っていたものだった。

当時はなんのこっちゃと想っていたが、林遊が阿弥陀経を拝読するとき、この「我見是利故説此言」の八文字をゆっくり丁寧にとなえるようになったのは、ばあさんのおかげだったな。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ…