従仮入真

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TS会では「従仮入真」を、「仮よりしか真に入れない」と教えているようである。(*従は助辞で~より、ということ)「参照

はじめは何を言っているのか意味が判らなかったのだが、どうやら「従真垂仮」と「従仮入真」を間違って使っているらしい。

従真垂仮:真より仮を垂れる(暫用の意味:しばらくもちいる)
未熟の機の為に真(実)より仮(方便)を垂れること。

従仮入真:仮より真へ入れる(還廃の意味:かえりてはいす)
仮にいる者を仮(方便)より真(実)に入らしめること。

用例:
従真垂仮して従仮入真せしめる。

どうしても人を、程度の低い善の奨めへ誘いたいなら「従真垂仮」を使うべきなのだが、宗学用語もまともに理解していないから無理だろうな。

ちなみに本願は18願・19願・20願の次第になっている。
これは真実の18願から19願・20願へと、真(18願)より仮(19・20願)を垂れるという構造をとっている(従真垂仮)。
真実なる18願が仮なるものとして程度を落として、権法(かりのほう)を説くという漸教の教育の方法である。
漸教であるから結果が何時になるか分からない法である。(この意味では「10年や20年で判るものではない」というTS会会長の発言は正しい(笑。)
これを、従真垂仮といい、方便として暫らく用いるから暫用という。

そして、現在、仮にいる者に、仮を捨てて真へ入れというのが、仮より真へ入らしめる「従仮入真」という宗学用語である。
これは、従仮入真といって真実に還ったら方便である仮を廃するから還廃という。
これは頓教なので、今晩聴いて今晩助かる法である。

というわけで、TS会が主張している「従仮入真」の真の意味は、早く方便の教えを説くTS会を止めて、真実のご法義に帰しなさいという意味である(笑

18願の教えさえ説いておれば良いのです。

林遊@なんまんだぶつ Post in 仏教SNSからリモート
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なんのこっちゃという事で、ちょっと書いておく。

> 結論からいえば、仏教は「対機説法」ですから、誰に対しても同じように18願の教えさえ説いておれば良いという考えは間違いです。
http://kiyomorimondo.blog70.fc2.com/blog-entry-355.html

これは仏の説法について語っているのか清森氏自身について言っているのか不明だが、ご当流は「18願の教えさえ説いておれば良い」のである。
浄土真宗の「真」とは仮に対し偽に対する言葉であることが分からないから、上記のような発想になるのであろうか。
それとも自らが仏と同じように「対機説法」が出来ると思いあがっているのであろうか。

『正信念仏偈』に「如来所以興出世 唯説弥陀本願海」(すべての如来が世間に出現されるのは、ただ阿弥陀仏の本願を説くためであった。)とあるように、本願を以って宗と為(本願為宗)すのが浄土真宗である。そして、その体は名号である(名号為体)。「教文類」
http://wikidharma.org/4abd9e917a5df

『正信念仏偈』の「唯説弥陀本願海」とは、阿弥陀仏の四十八願海のことであり、別しては生因三願のことである。究極的には十八願のご法義の事である。
さて、生因三願とは、十八願・十九願・二十願をいうが、その願海に真・仮があると親鸞聖人は言われる。

「真仮対弁」
「しかるに願海について真あり仮あり。ここをもつてまた仏土について真あり仮あり。{中略}すでにもつて真仮みなこれ大悲の願海に酬報せり」
http://wikidharma.org/4aeed4d670688
真実の教・行・信・証を説かれ、その淵源である真仏土巻の末尾で、願海に真・仮ありと対弁されておられる。
そして、「化身土」を説くのは「真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す。」ることがないよう「仮の仏土とは、下にありて知るべし」と化身土を顕わす理由を述べておられる。

真とは真実のことで、真実は、偽と仮に対しているといわれる。
「真仏弟子釈」
「真の言は偽に対し仮に対するなり」
http://wikidharma.org/4b7b6f3fcbcaf
ただ単に「真実」を真実とするのではなく、真実とは、偽と仮に対しているから真実ということが言えるのだとされる。

「仮」とは方便という意味であり、第十九願・第二十願がそれである。
ここでの方便は善巧方便ではなく、権仮方便であって簡非(真仮廃立)するものである。

『浄土和讃』
念仏成仏これ真宗
万行諸善これ仮門
権実真仮をわかずして
自然の浄土をえぞしらぬ
http://wikidharma.org/4ad5c0bab8f33

「仮門」とは、
『愚禿鈔』に依れば、
「ただ阿弥陀如来の選択本願を除きて以外の、大小・権実・顕密の諸教は、みなこれ難行道、聖道門なり。また易行道、浄土門の教は、これを浄土回向発願自力方便の仮門といふなりと、知るべし。 」
http://wikidharma.org/4b90b7e2ca00b
阿弥陀如来の選択本願(十八願)以外の、浄土門の教(十九願・二十願)は浄土「回向」「発願」自力方便であり、仮門であるとされる。(回向は二十願の至心回向、発願は十九願の至心発願のこと)
なお、この「選択本願」という標挙は「大信釈」、
「この心すなはちこれ念仏往生の願(第十八願)より出でたり。この大願を選択本願と名づく、また本願三心の願と名づく、また至心信楽の願と名づく、また往相信心の願と名づくべきなり。」
http://wikidharma.org/4b90be0cb120a
にあり、第十八願のことであるのは言うまでもない。

「権実真仮」とは、
『六要鈔』には、「真実というは、これ仮権に対す」とある。
権は実に対し、真は仮に対する語であるから、仮と権は真実の反対という言葉である。
権←→実・真←→仮のように相反する概念なのである。
つまり、権を廃して実を取り、仮を棄てて真を選び、第十八願だけが真であり実ということである。

浄土真宗のご法義を聴く人は教学や論理を聞きたいのではなく、自らが救われる<真実の法>を聞きたいのである。
救いの法が自己に先行して、名号法として届けられており、それを受け入れ称えることが「念仏成仏これ真宗」という阿弥陀如来の第十八願の真実のご法義である。

これ以外の何を説き、何を「対機説法」として語ろうとしているのか。
謎である(笑

この記事のみ反論用にTBのみ受け付けておこう。

二双四重の教判

林遊@なんまんだぶつ Post in 仏教SNSからリモート
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二双四重

仏教にはすべからく「教相判釈」といって、経典をその形式・内容などによって分類・体系化し、価値を判定して仏の究極の教えがどれであるかを解釈することが最重要である。「教相判釈」がなければ、何を信じ何を行ずるかが解からないからである。

親鸞聖人には別掲の「二双四重」の教判がある。全仏教を竪と横に分け、それぞれに出(権教)と超(実教)を組み合わせた教判である。
竪の聖道門に成仏の遅速に応じて漸教と頓教を分けられ、竪出、竪超とされる。

横の浄土門も、漸次に修行して長時間の後に仏果を得る自力の漸教と、すみやかに仏果を得る他力の頓教に分類し、横出、横超とし、二双四重の判釈をされたのである。

この二双四重の教判は、諸所で説いておられる。

「信巻末」横超釈

【73】 横超断四流といふは、横超とは、横は竪超・竪出に対す、超は迂に対し回に対するの言なり。竪超とは大乗真実の教なり。竪出とは大乗権方便の教、二乗・三乗迂回の教なり。横超とはすなはち願成就一実円満の真教、真宗これなり。また横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。大願清浄の報土には品位階次をいはず。一念須臾のあひだに、すみやかに疾く無上正真道を超証す。ゆゑに横超といふなり。
http://wikidharma.org/4b93acfa2387b

「化身土巻」三経通顕(真仮分判)

【35】 おほよそ一代の教について、この界のうちにして入聖得果するを聖道門と名づく、難行道といへり。この門のなかについて、大・小、漸・頓、一乗・二乗・三乗、権・実、顕・密、竪出・竪超あり。すなはちこれ自力、利他教化地、方便権門の道路なり。
安養浄刹にして入聖証果するを浄土門と名づく、易行道といへり。この門のなかについて、横出・横超、仮・真、漸・頓、助正・雑行、雑修・専修あるなり。
正とは五種の正行なり。助とは名号を除きて以外の五種これなり。雑行とは、正助を除きて以外をことごとく雑行と名づく。これすなはち横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門なり。
横超とは、本願を憶念して自力の心を離る、これを横超他力と名づくるなり。これすなはち専のなかの専、頓のなかの頓、真のなかの真、乗のなかの一乗なり。これすなはち真宗なり。すでに真実行のなかに顕しをはんぬ。
http://wikidharma.org/4b936885c5865

信巻本」菩提心釈(菩提心=信)

【52】 しかるに菩提心について二種あり。一つには竪、二つには横なり。
また竪についてまた二種あり。一つには竪超、二つには竪出なり。竪超・竪出は権実・顕密・大小の教に明かせり。歴劫迂回の菩提心、自力の金剛心、菩薩の大心なり。また横についてまた二種あり。一つには横超、二つには横出なり。横出とは、正雑・定散、他力のなかの自力の菩提心なり。横超とは、これすなはち願力回向の信楽、これを願作仏心といふ。願作仏心すなはちこれ横の大菩提心なり。これを横超の金剛心と名づくるなり。
http://wikidharma.org/4b93a105abf98

愚禿鈔(上)

聖道・浄土の教について、二教あり。
一には大乗の教、      二には小乗の教なり。
大乗教について、二教あり。
一には頓教、        二には漸教なり。
頓教について、また二教・二超あり。
二教とは、
一には難行聖道の実教なり。いはゆる仏心・真言・法華・華厳等の教なり。
二には易行浄土本願真実の教、『大無量寿経』等なり。
二超とは、
一には竪超  即身是仏・即身成仏等の証果なり。
二には横超  選択本願・真実報土・即得往生なり。
漸教について、また二教・二出あり。
二教とは、
一には難行道聖道権教、法相等、歴劫修行の教なり。
二には易行道浄土の要門、『無量寿仏観経』の意、定散・三福・九品の教なり。
二出とは、
一には竪出  聖道、歴劫修行の証なり。
二には横出  浄土、胎宮・辺地・懈慢の往生なり。
http://wikidharma.org/4b93a35c8a81a

「行文類」一乗釈では、

大乗は二乗・三乗あることなし。二乗・三乗は一乗に入らしめんとなり。一乗はすなはち第一義乗なり。ただこれ誓願一仏乗なり。
http://wikidharma.org/4b9399ba7bf3a

と、横超・弘願・頓教・実教である第十八願の誓願一仏乗こそが真実の仏道であるとされるのである。
しかるに、TS会では、歴劫迂回の要門・漸教(権教)の辺地・懈慢の往生を会員に勧めている。
これは、会長が『教行証文類』を読んだことがなく、他者の解説書か何かを剽窃して利己心から「教相判釈」をしているのであろうか。

親鸞聖人が畢生の力を込めて顕わされた「二双四重」の教判を歪め、利己心から勝手に教判をし悪用して会員を騙し、あまつさえ会員に真実の浄土真宗の教えである第十八願への道を遮蔽して来たのであれば、その罪は重いと言わざるを得ない。

また、昨今TS会の歪んだ教義解釈に対する批判が行われているにも関わらず、脱会せずに歪(いびつ)な教えを説く事に協力している人々も同罪であるといえよう。

外典の「論語」にも、過(あやま)ちて改めざる是(これ)を過ちという、とある。
過ちは誰でも犯しやすいものだが、過ちを過ちと知っていながら悔い改めないならば、まさに本当の過ちを犯しているのである。

米獲ろうと思たら藁まで採れた

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「信巻」(末)の現生十種の益。

金剛の真心を獲得すれば、横に五趣八難の道を超え、かならず現生に十種の益を獲。
http://wikidharma.org/4ad132af1325b

この文章は少しおかしい文章です。
通常の時系列なら、金剛の真心を獲得すれば、かならず現生に十種の益を獲て、横に五趣八難の道を超え、となる筈です。
信心→十種の益→成仏

ところが、「横に五趣八難の道を超え」と五趣(地獄・餓鬼・畜生・人・天という生存状態)八難(仏に成る事が難しい八つの難)を超えて仏に成ることが先に出され、現生十種の益を後にされている。
信心→成仏→十種の益

これを昔の布教使は、米獲ろうと思たら藁まで採れた、と表現したものです。
米(成仏)を獲ることを目的としていたら、ついでに藁(十種の益)まで採れたということで、仏教は米という成仏が目的であるということです。
現生十種の益には、「十には正定聚に入る益なり」と、正定聚にいる益が説かれていますがこれは信心の利益です。
成仏が決定しているその仲間に入っているという利益のことです。

浄土真宗では「信心正因」といいますが、信心は因であって果ではありません。
果はあくまで成仏であり、信心はその果へ至る為の因であって目的ではありません。
ある団体ではこれを勘違いして、信心を獲れば全ての難が解決し(絶対の幸福)まるでさとりを得たような状態になると教えています。

親鸞聖人は、この正定聚に入っているにも関わらず、
まことに知んぬ、悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥づべし傷むべしと
http://wikidharma.org/4b8b4b1606300
と、述懐なさっておられます。

極論をすれば、信心獲得とは藁ほどの利益です。
米を獲る為に稲作をするのであって、藁を採ろうとして稲を作るならばそれはおかしいと言わざるを得ません。
しかし、ある団体では藁を採ることを前面に打ち出して米を獲ることを教えていません。

念仏成仏これ真宗であり、本願を信じ念仏を申せば仏に成るのが浄土真宗というご法義です。

五十六億七千万
弥勒菩薩はとしをへん
まことの信心うるひとは
このたびさとりをひらくべし

弥勒菩薩は、五十六億七千万年後にこの娑婆世界で竜華樹の下で悟りを開いて仏に成るといわれますが、念仏の衆生は阿弥陀如来の回向された金剛心を得ているから、臨終一念にたちまち完全なさとりを開くというのが浄土真宗のご法義でした。

藁に目を眩まされるのじゃないですよ、今度というこんどは、完全なさとりを開く弥勒と同じ位にまで巻き上げられていて、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証するのですよ、というのが御開山親鸞聖人の思し召しでありましょう。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ、やったね
追記
→「現生十益
→「藁幹喩経

今将談仏力(いままさに仏力を談ぜんとす)

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『証巻』末尾に「他利利他の深義」と親欝聖人が仰るのだが一切の解説がない。

「宗師(曇鸞)は大悲往還の回向を顕示して、ねんごろに他利利他の深義を弘宣したまへり。仰いで奉持すべし、ことに頂戴すべしと。」
証巻」総結

この他利利他は『浄土論註』の「覈求其本釈(カクグゴホンシャク)」からの引文である。

「しかるに覈(まこと)に其の本を求むるに、阿弥陀如来を増上縁となす。他利と利他と、談ずるに左右あり。 もし仏よりしていはば、よろしく利他といふべし。衆生よりしていはば、よろ しく他利といふべし。いままさに仏力を談ぜんとす。このゆゑに「利他」をも つてこれをいふ。」
覈求其本釈」

本来、他利と利他は同義語であって意味に違いはない筈なのだが、曇鸞大師は「談ずるに左右あり」と言われる。
この解釈に古来から和上方が苦労されてきたところで「覈求其本釈」という。覈(まこと)に其の本を求むるにはという、其の本とは一体なにを意味しているかの考察である。

これは親鸞聖人の「他力=利他力=本願力」という思想の根幹になるもので、古来から各種の説が論じられてきた。
今、ここでは梯實圓和上の論文から一部を抜粋してみる。

>>>引用開始
親鸞聖入の他力観(p17) 梯實圓

私は、他利とは他なる仏に衆生が利益されることをいい、利他とは仏が他なる衆生を利益することをいうとする『論註翼解』の説を採用したいと思う。

従来同義語として用いられていた他利と利他とを「談ずるに左右あり」といわれたのは、仏力成就の五念という特別の義意を表すためであった。

それにしてもこのように左右を見ることができたのは、「利」を動詞と見て、それを中心に、「他利」は「他利自(他が自を利す)」の「自」という目的語を省略した語であり、「利他」は、「自利他(自が他を利す)」の主語の「自」を省略した語型と見られたからではなかろうか。

したがって他利は他者である阿弥陀仏が、衆生、ずなわち私を利益するという状況を表現する言葉になる。この場合は救済される者を「自」すなわち「我」とし、救済する如来を「他」すたわち「汝」と見ていることになるから、「衆生よりしていはば宜しく他利といふべし」ということになる.

それにひきかえ利他は自者である如来が他なる衆生を救済するという状況を表現する言葉になる。

この場合は救済する者を「自」というから如来が「我」であり、救済される衆生は他者すなわち「汝」と見ての発言になる。
それが「仏よりしていはぱ宜しく利他といふべし」といわれた意味であろう。

仏の救済活動を仏の側、すなわち法の側から表すには「我よく汝を救う」と、仏を「我」として衆生を「汝」と呼ぶ表現である「利他」がふさわしいから、「いままさに仏力を談ぜんとす、このゆゑに利他をもつてこれをいふ」といわれたのである。

利他は法の側から仏力を談ずる言葉であるというのである。

後に親欝聖人が本願力回向を表すのに利他という表現を多く用いられたのはその故である。

>>>引用終わり

他利:他利(自) 「他が自を利す」
他である仏(他)が、自である林遊(自)を利益する。

利他:(自)利他 「自が他を利す」
自である仏(自)が、他である林遊(他)を利益する。

つまり、如来の救済を衆生からいえば他(如来)が利すといい、仏からいえば他(衆生)を利すという。ここでは仏の方から語るので利他といわれたのである。

親鸞聖人は、利他深広の信楽、利他真実、利他の真心、利他回向の至心、利他真実の信心、利他真実の欲生心、利他の信海、利他円満の妙位、利他の一心などなど利他という言葉を使われているが、この利他とは、他者に功徳・利益を施して救済することをいい、阿弥陀仏の側からの救いの働きをいう。

これを親鸞聖人は「他力といふは如来の本願力なり。」と仰ったのであって、他が自を救済する意味で他力と仰ったのではない。
「他力釈」

親鸞聖人は『愚禿鈔』の「二河譬」で如来の招喚、

「また、西の岸の上に、人ありて喚ばうていはく、〈汝一心正念にして直ちに来れ、我能く護らん〉」

を釈され、「汝」の言は行者なり、とし、「我」の言は、尽十方無礙光如来なり、不可思議光仏なり、と仰るのもこのような世界をあらわしておられるのである。
http://wikidharma.org/4b7f5e427a7a3

他力という言葉が、他者依存のような意味で用いられているが、本来の他力とは一方的に衆生を救済するという阿弥陀如来の利他力を仏の側から表現した言葉である。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E4%BB%96%E5%8A%9B

さて、仏力を談ずである。

浄土真宗というご法義の枠内におりながら、信心を頂いたとか頂かないとか、助かったとか助からないとか、それは何時であるかなどと論じる輩がいる。
これを昔から越前では、乞食信心とか約生地獄とか言い、「他力の中の自力とは、いつも御恩が喜べてびくとも動かぬ信心が、私の腹にあるという、凡夫の力みを申すなり」と揶揄してきた。

他力といふは如来の本願力であり、全く如来のひとりばたらきを他力というのであって、凡夫の側の造作が入るならそれは真実ではない。

『浄土論註』の真実功徳相釈に、

「真実功徳相」と は、二種の功徳あり。一には有漏の心より生じて法性に順ぜず。いはゆる凡夫人天の諸善、人天の果報、もしは因もしは果、みなこれ顛倒、みなこれ虚偽なり。このゆゑに不実の功徳と名づく。二には菩薩の智慧清浄の業より起りて 仏事を荘厳す。法性によりて清浄の相に入る。この法顛倒せず、虚偽ならず。 名づけて真実功徳となす。いかんが顛倒せざる。法性によりて二諦に順ずるが ゆゑなり。いかんが虚偽ならざる。衆生を摂して畢竟浄に入らしむるがゆゑ なり。
http://wikidharma.org/4b7620ae57020

凡夫人天の諸善は全て顛倒であり虚偽で不実であり、菩薩(法蔵菩薩)の智慧清浄の業より起こされたものこそが真実であるといわれている。四十八願によって建立された清浄願心の荘厳は、阿弥陀如来の因浄なるがゆゑに果浄なる浄土だからである。

それでは一切の手がかりが無いではないかと言われるであろうが、私を中心とした世界観で物を分別している限り、微塵劫を超過すれども判らないであろう。
何故か、浄土真宗は、私が助かる事を聞くのではなく、私が助けられる法を聞く本願力回向のご法義であるからである。
これが「仏願の生起本末を聞く」という事である。

私はいま、如来の救済の真っ只中におりながら、私の救済を求め、ありもしない信心を追い求める事を疑心というのである。

「しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。」
http://wikidharma.org/4ad132af1325b

聞くとは、如来の本願を疑いなく聞いている状態を「聞く」という。疑いながら聞いているのではない、疑いなく計らいなく聞いている状態を「聞く」というのである。ここは信によって聞の意味を解釈しているのであって、私のために起こして下さった本願が私に向かって「必ず助けるぞ」と呼びかけていて下さる、それを聞いていることが信心であるというのである。
疑心あることなし、とは無い状態を言うのであって、私に信心という物柄が有るのではない。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり、であるからである。
私が助かるか助からないかは如来が心配して下さる事であって、私が心配することではないのである。私が助けられる法を聞く事が、まさに仏力を談ずることである。

月影のいたらぬ里はなけれども、蓋ある水に影はやどさじ

という法然聖人の本歌取りの歌があるが、私が、という想いの蓋を取り除けば、こうこうと御信心の月は照って下さるのである。

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至誠心釈

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『教行証文類』は不思議な書物で70%くらいは経・論・釈の引文で成り立っている。

昔ネットで『教行証文類』は他者の文章を引用してあるだけだ、という非難を浴びた事があった。
たしかに他者の著作を剽窃して自己の著作のようにする某会の会長のような人もいるから、一見そのように思われるのも、むべなるかなであろう。

しかし、親鸞聖人は経・論・釈を引用ではなく引文しておられるのである。
経・論・釈の文章を引文して、その意味を全く変えてしまっておられるのであるから単なる引用ではない。
つまり、引文によって自己の領解を表現するという創作をやっておられるのである。
同じ文章でも文脈によって意味が変わるように、分引というやり方で縦横に経・論・釈引文されている。
だから『教行証文類』はめちゃくちゃ難しい書物であり、元の文章をどのように引文されているのかを見る事によって親鸞聖人のお示しを窺うのであるといわれている。

もちろん「本願を信じ念仏を申さば仏に成る」という実に明快なご法義であって、教学が要求されるご法義ではないのは勿論であるが、面白いHPがあったので少しく日記に書いてみる。

以下、善導大師の『観経疏』の至誠心釈を見てみる事にする。

原漢文:
経云 一者至誠心 至者真 誠者実

『経』(観経)にのたまはく、「一には至誠心」と。「至」とは真なり、「誠」とは実なり。

ここでは、至誠心を至と誠に分けて、それぞれの意味を別の漢字で表す事によって言葉の示す意味を探求する手法をとっている。
漢字そのものは意味が多義的なため、他の用語との関連性において意味を探求しようとするのである。
至誠心が真実であるという事を、「至」とは真なり、「誠」とは実なりと定義し、真実とは何であるかを顕わそうとされる。

この部分は善導大師と親鸞聖人の間には差異はない。

つまり、至誠心の至誠とは真実であるといい、その真実とはどのようなものであるかを以下述べていくのである。

原漢文:
欲明 一切衆生 身口意業所修解行 必須真実心中作

善導大師:
一切衆生の身口意業所修の解行、かならずすべからく真実心のうちになすべきことを明かさんと欲す。

親鸞聖人:
一切衆生の身口意業の所修の解行、かならず真実心のうちになしたまへるを須ゐんことを明かさんと欲ふ。

ここでは、「須」という漢字を親鸞聖人は「もちいる」と読まれて、善導大師の文章の当分である、身口意業の所修の解行は自らの真実心によってなすべきという意味を変えておられる。

この場合の「須ゐる」は、如来の真実心をもちいるのだ、と意味を転じておられる。

原漢文:
不得 外現賢善精進之相 内懐虚仮

善導大師:
外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ。

親鸞聖人:
外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐いて、

善導大師の文の当分は、真実とは外に賢善精進の相を現じなさい、内に虚仮の心を懐いてはならない事だという。
内と外とが相応して真実であることが真実という意味であるといわれている

しかし、親鸞聖人は真実ということは、内に虚仮を懐いている不実なものが、外に賢善精進の相を現じてはならないとされる。
内が虚仮なのに、外へ賢善な姿を顕わすな、内も外も虚仮ではないかと言われるのである。
つまり、内も外も虚仮であって真実とは自己には無い、ということをもって真実の証明をされているわけである。
真実を解釈する為に自己に真実がないという事をもって真実というのであるから、文章の意味が180度変わってくる。

では何が真実なのですか、と親鸞聖人にお聞きすれば「阿弥陀如来である」という答えが返ってくるであろう。
このような解釈が、古来から浄土真宗における真実という言葉の解釈の一端である。

善導大師の訓点(浄土真宗聖典七祖篇 原典版)
http://wikidharma.org/4b2729bcce30d

御開山の訓点(浄土真宗聖典 原典版)
http://wikidharma.org/4b2729f6b96b9

ところが、浄土真宗を標榜しながら、親鸞聖人の意図に背きこれと全く逆に解釈する団体がある。

高森親鸞会のHP
http://www.shinrankai.or.jp/b/gendai/20080717zensusume.htm
魚拓
http://megalodon.jp/2009-1219-1226-22/www.shinrankai.or.jp/b/gendai/20080717zensusume.htm

>>引用開始
善導大師のご教導

「外に賢善精進の相を現じて、内に虚仮を懐くことを得ざれ」
これは、「大心海化現の善導」と親鸞聖人が称賛される、善導大師の有名なお言葉である。

「外」とは外面(言動)のこと。外面は、光に向かう努力精進の人となり、〝さすが親鸞学徒は違うなぁ〟と信頼される、言葉遣いや行為に努めなさい。
「内」とは内面(心)のこと。外面を幾ら賢善精進に飾っても、内面が醜悪であってはなるまい。心には、ウソ、偽り、妬み、嫉みなど、持たないよう慎むことを心がけなさい。何と厳しい教えではないか。

>>引用終了

高森氏の言葉を借りれば「あっと驚くタメゴロー」なのだが、最初このHPを見た時は驚いて吹いた。
こんなHPって、私たち高森親鸞会は『教行証文類』を読んだ事がありませんって全世界へ公表しているようなものなのだが、誰か注意する人物はいないのであろうか。

この事を指摘すれば、詭弁と弄言の好きな親鸞会では、善導大師の『観経疏』の至誠心釈を引用したのであって間違ってはいない、と抗弁するであろう。

しからば、浄土真宗親鸞会という呼称を止めろと言いたい。
さしずめ、高森氏の独断の解釈に依って成り立っている団体であるから「浄土偽宗高森会」とでもすべきであろう。

豆と豆腐

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林遊は豆と豆腐が大好きである。
特に水に漬けて置いた大豆を、醤油でカリカリになるまで煮詰めた硬い煮豆が好きなのだが、最近は歯がなくて食べられない(泣
 
豆腐は、土鍋に昆布を布いて、豆腐だけを入れる湯豆腐がいい。
熱燗でこれを肴に呑む酒は、酒の味を壊さないので格別である。
 
また、豆腐に醤油をかけて箸で細かく潰し、温かいご飯にかけて食べるのが好きなのだが、知らない人には時々怪訝な顔をされる。
そんな時は「最近は温かいご飯に、色んなものをトッピングして食べるのが流行っているそうですよ」と誤魔化している。
 
閑話休題
 
家の3000以上の聴聞をしたじいさんから聴いた話。
 
ある御法話で、摂取不捨(せっしゅふしゃ)の話があった。
法話の途中で布教使が一人のばあちゃんに、
 
「おばば、摂取不捨ちゅう事が判ったか?」
 
「そら、ご院さん、豆が豆腐になったちゅう事ですがな」
 
「豆が豆腐に?、なんじゃそりゃ」
 
「あら、ご院さん知らんのですか。豆が豆腐になったら、もう二度と豆腐は豆には戻りませんがね」
 
昔は下手な布教使をぺしゃんこにする、恐ろしい門徒が沢山いたものである。
 
十方微塵世界の
念仏の衆生をみそなはし
摂取してすてざれば
阿弥陀となづけたてまつる
 
浄土和讃:「摂取してすてざれば」の摂取の左訓
「摂(おさ)めとる。ひとたびとりて永く捨てぬなり。
摂はものの逃ぐるを追はへ取るなり。摂はをさめとる、取は迎へとる」
 
の左訓、ひとたびとりて永く捨てぬなり、からの法話である。
 
林遊が豆腐を食べる時、嬉しそうににやにやしているのは、この法話を思い出している時だというのは内緒である(笑
 
極重悪人唯称仏
(極重の悪人はただ仏を称すべし)
我亦在彼摂取中
(われまたかの摂取のなかにあれども)
煩悩障眼雖不見
(煩悩、眼を障へて見たてまつらずといへども)
大悲無倦常照我
(大悲、倦きことなくしてつにわれを照らしたまふといへり)
 
現代語訳:
極重の悪人は、ただ仏の名を称えるほかに救われる道はない。
私もまた阿弥陀仏の光明に摂め取られているが、
煩悩に心の眼が遮られて、阿弥陀仏を拝見することはできない。
しかし阿弥陀仏の大悲は、かたときも目を離さずに私を見護っている。
 
なんまんだぶを称うれば、豆が豆腐になるそうな、ありがたいこっちゃナ。
 
なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ

出体釈の話

林遊@なんまんだぶつ Post in 仏教SNSからリモート
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親鸞聖人の主著は『教行証文類』といいます。
何故ならご本人が総序で『顕浄土真実教行証文類』と呼んでおられるからです。
文類とは教・論・釈の重要な部分をあつめ整理したものという意味です。

つまり、浄土真宗の、教えと行いとその証(あか)しの重要な内容を顕わした書物ということです。

あれっ、T・S会が喧しく言う信心は何処へ行ったのでしょう。

ありました、「教巻」に、
「つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について真実の教行信証あり。」
現代語:
つつしんで、浄土真宗すなわち浄土真実の法をうかがうと、如来より二種の相が回向されるのである。一つには、わたしたち衆生が浄土に往生し成仏するという往相が回向されるのであり、二つには、さらに迷いの世界へ還って衆生を救うという還相が回向されるのである。往相の回向の中に、真実の教と行と信と証とがある。

とあって、浄土へ生まれて往く往相と浄土から還ってきて衆生を済度する還相の二種の回向と、教(おしえ)・行(おこない)・信(まこと)・証(あかし)が記されています。(ちなみにこれを昔から二回向四法と呼んでいます。)

なお、
教とは、阿弥陀如来の本願を説く『無量寿経』、
行とは、なんまんだぶを称えること、
信とは、回向された御信心、
証とは、無上涅槃の浄土(成仏)、のことです。

では、これの出拠を見てみましょう。

教は、「それ真実の教を顕さば、すなはち『大無量寿経』これなり。」
行には、「大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。」
証には、「つつしんで真実の証を顕さば、すなはちこれ利他円満の妙位、無上涅槃の極果なり。」

と、それぞれ出体釈をなされて体がありますが信にはありません。

タイトルに『教行証文類』と三つの法があり、その内容を「真実の教行信証あり」と、四つの法でお示しですが信には出体釈がありません。

これを昔から行より信を開いた四法といわれ、信別開(しんべっかい)と呼称しています。

信心とは『大無量寿経』の本願文によれば、至心・信楽・欲生の三心です。

その、至心釈に
「この至心はすなはちこれ至徳の尊号をその体とせるなり。」
と、至心は名号が体であるとされています。
信楽釈には、
「すなはち利他回向の至心をもつて信楽の体とするなり。」
と、信楽の体は至心であるとされ、欲生釈には
「すなはち真実の信楽をもつて欲生の体とするなり。」
とありますから、三心の体は至徳の尊号(南無阿弥陀仏の名号)だということになります。

これを昔から、行を離れた信もなく信を離れた行もないというので行信不離と言い習わしています。

T・S会では信心獲得とか信心決定を喧しく言い、名号を軽視していると聞いたことがあります。
なんまんだぶつは御恩報謝であるからしなくてもいいとも教えているそうです。
そして、高森教祖が、なんまんだぶつを称えているのを聞いたことがないという会員の声も聞きました。

すると、T・S会では体のない信を獲得することを奨めている事になるのでしょう。
まるで空中に楼閣を築くようなもので砂上の楼閣の信心であり、作っては壊れ作っては壊れる信心を奨めているのがT・S会でいう信心と言わざるを得ません。

ひょっとして高森教祖は『教行信証』という名目から、独立した信という体(物柄)があると錯覚したのでしょうか。

昔から行と信の関係を体・相で表現します。
体(たい)は南無阿弥陀仏、相(そう)を信といい、水と波の喩えで表現されます。
水が体であり波が相であると言います。

南無阿弥陀仏という救済の名号法が体であり、信心はその相だと言います。
水の無い波が存在しないように、水を離れて単独の波というものは有り得ません。
18願の真実信とは水の上の波であって、波には体という物柄はありません。波は単独では存在しないのです。

この波を単独で拵えようとするならば、それは浄土真宗の信ではありません。

このご法義で、「はっきりしません」とか「安心できません」などと、判ったとか分からないとかいう人は、水を離れて波をこしらえようとしているから永遠に安心が出来ないのです。
T・S会では行と信を別個のものとして捉え、自己に信という水を離れた波が単独で、ある、と教えているから、永遠に御信心を恵まれることはないのでしょう。

浄土真宗では、「体」である南無阿弥陀仏が、信心という「相」をとって、林遊を場所として、なんまんだぶ、なんまんだぶと現れ「用(はたらい)」ている状態を御信心というのでした。

なんか、酔って書いているので突っ込みどころ満載だな(笑

他力について

林遊@なんまんだぶつ Post in つれづれ
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御開山のお勧めは、ひたすら阿弥陀如来の御本意の願である第十八願である。

しかし、「化巻」に説かれる三願転入をもって「十八願へ転入させるための方便として、阿弥陀仏が十九願で善を勧められているのです」と公言する浄土系新興宗教の一派がある。
全く、御開山の本意と違う教えをもって、如来の選択摂取されたご本願の教えを曲解し隠蔽する集団である。

この集団では、「善をしなければ信仰は進みませんよ」と、財施や人集めの造毒の善を奨めながら、「善をしていけば信仰が進み、やがて助かるようになる」は、間違いだと教えている。

ほとんど理解不能な理屈なのだが、この一派で多用する「人生の目的・なぜ生きるか」のキーワードから判断するに、人間の行動には目的がある、という目的論で浄土真宗というご法義を理解しているようだ。如来の救済をあらわす他力という言葉の解釈を誤っているのであろう。

自己を主体として自己の外部に「他」を措定し、その他へ向かう行為を「信仰が進む」としているのであろう。これは全く浄土真宗でいう他力という概念を誤解し錯覚していることから起る異解である。

有名な二河白道の譬喩では、釈尊は「仁者(きみ)ただ決定してこの道を尋ねて行け。」と発遣し、阿弥陀如来は「汝(なんじ)一心に正念にしてただちに来れ」と招喚される。「七祖p.467

御開山は『愚禿鈔』の中で、「汝」の言は行者なりと示され、「我」の言は、尽十方無礙光如来なり、不可思議光仏なり、とお示しである。「p.538

法蔵菩薩は兆載永劫に、菩薩としての自利・利他の二利の行を積み 「もろもろの衆生をして功徳を成就せしむ大経p.27)」と、往生成仏の功徳を衆生の為に成就された。
これを他を利益するから利他という。

さて、御開山は、利他円満の大行(浄土文類聚鈔)、利他の真心(信巻)、利他円満の妙位(証巻)、と「行」「信」「証」のそれぞれにわたって利他という言葉を使われている。

これは何を表現されようとしておられるのであろうか。利他の他とはいったい誰を指しているのであろう。

ここまで読まれた方はもうお判りであろう、利他の他は衆生である。

釈尊から仁者(きみ)として呼ばれ、阿弥陀如来から汝(なんじ)として呼ばれている者が他である。他とは衆生が自己を主体として自己の外なる仏を他とするのではなく、仏から見て他なる救済対象を他というのである。これを御開山は他力というのである。そして、他を利益する力を本願力というのである。「→他力

件の一派のスローガンを借りれば「人生の目的・なぜ生きるか」の答えは、仏から汝として喚(よ)ばれ続けていた「汝としての我の発見」であろう。
私の目的が仏ではなく、仏の目的が仏から見て他なる私なのである。

「善をしなければ信仰は進みませんよ」などと、自己を中心として仏を他とするような考え方とは全く違うのである。
まさにコペルニクス的転回であって、自己を中心する妄想の世界観ではなく、仏を自とし中心とする世界を表現する言葉が他力という言葉だったのである。

この一派の教祖である高森顕徹氏自身が、全く御開山の示される浄土の真宗というご法義を理解していないところから来る異端の説であろう。もしくは高森氏が、浄土真宗という宗教を利用し自らの名聞利養を目的として、末端の会員を搾取する確信犯であるのかも知れない。

私の白道」によれば、最初は高森氏は以下のように主張していたそうである。

高森先生「会報第5集」59-61P
「一体、どこに十九願相応の修行している道俗が真宗に見当たるのか。どこに二十願相応の念仏行をやっているものがいようか。真宗の道俗はさも易く「あれはまだ十九願だ」「あれは二十願の人だ」と言っているが、願の上からだけなら言えるかも知れぬが、それに相当した行がともなわない人達ばかりだから、本当の十九願の行者、二十願の行者は真宗の道俗には、いないといってよいのだ」

と、十九願、二十願を明確に否定していた。

しかるに、同じく「私の白道」によれば、

○三願転入の説法始まる
しかし平成5年の「親鸞会結成35周年大会」で遂に、三願転入の説法が開始されたのである。驚いた人はどれだけあったでしょうか。
「親鸞聖人の教行信証は三願転入が説かれている。
我々に19願、20願いらぬ、18願だけでいいと公然という学者もいるが、皆三願転入を根基として書かれている。御和讃もそうだ。十方衆生が選択の願海(18願)に救われるのは、19、20願通ってであり、通らねばアリ一匹救われぬ」
(平成18年4月30日教学講義にもそう言われた)

と、ある。
これは、明らかに退歩であり浄土真宗の教義の異解であり、選択摂取された如来のご本意の十八願を貶める立場である。
全分他力のご法義に衆生の側からの「善を奨める」高森氏は、伊藤氏や大沼氏の著書の剽窃に忙しくて『教行証文類』を読んだ事がないのであろうか。
それとも、十八願には善の奨めがないので、十九願の修諸功徳の善をもって会員からの財施を募る意で、教えを変更したのであろうか。

三願を読めば、

(十八) たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。

(十九) たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、菩提心を発し、もろもろの功徳を修して、至心発願してわが国に生ぜんと欲せん。寿終るときに臨んで、たとひ大衆と囲繞してその人の前に現ぜずは、正覚を取らじ。

(二十) たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、わが名号を聞きて、念をわが国に係け、もろもろの徳本を植ゑて、至心回向してわが国に生ぜんと欲せん。果遂せずは、正覚を取らじ。

十九願には「もろもろの功徳を修して」という善があり、二十願には「もろもろの徳本を植ゑて」という善がある。
ひとり十八願にはこのような有漏の善の勧めはない。

なぜ、阿弥陀如来の根本願である十八願には善の勧めはないのか。
法然上人の『選択本願念仏集』によれば

念仏は易きがゆゑに一切に通ず。諸行は難きがゆゑに諸機に通ぜず。
しかればすなはち一切衆生をして平等に往生せしめんがために、難を捨て易を取りて、本願となしたまへるか。もしそれ造像起塔をもつて本願となさば、貧窮困乏の類はさだめて往生の望みを絶たん。しかも富貴のものは少なく、貧賤のものははなはだ多し。もし智慧高才をもつて本願となさば、愚鈍下智のものはさだめて往生の望みを絶たん。しかも智慧のものは少なく、愚痴のものははなはだ多し。
もし多聞多見をもつて本願となさば、少聞少見の輩はさだめて往生の望みを絶たん。しかも多聞のものは少なく、少聞のものははなはだ多し。もし持戒持律をもつて本願となさば、破戒無戒の人はさだめて往生の望みを絶たん。しかも持戒のものは少なく、破戒のものははなはだ多し。自余の諸行これに准じて知るべし。
まさに知るべし、上の諸行等をもつて本願となさば、往生を得るものは少なく、往生せざるものは多からん。
しかればすなはち弥陀如来、法蔵比丘の昔平等の慈悲に催されて、あまねく一切を摂せんがために、造像起塔等の諸行をもつて往生の本願となしたまはず。
ただ称名念仏一行をもつてその本願となしたまへり。「七祖p.1209

と、あるようにあらゆる衆生を無条件で摂取しようという平等の慈悲だからである。

高森一派は善を奨めるが、善を奨めても善を出来ない人はどうなるのですか、という問いにはどう答えるのであろうか。

この高森一派の善の奨めの根拠が『大経』の十九願であるが、御開山のお示しによれば「観経」を所依とする「邪定聚」の教説である。

御開山の浄土三部経のお示しには、『大経』『観経』『小経』について「三経一致」の立場と「三経差別」の立場がある。

三経一致でみられる場合は、三経の根底に説かれているものは、南無阿弥陀仏という称名一行であり、三経差別の場合は『大経』の第十八願を根本とされ、『観経』『小経』の教説は枝末とされる。

浄土真宗を目的へ至るプロセスとみるこの高森一派では、御開山がこれは捨てるべきですよ、と懇ろに示された「化巻」の「六三法門」を悪用し金集め人集めに利用している。

法然聖人は、十九願であらわされる定善・散善の善を、

「まさに知るべし、随他の前にはしばらく定散の門を開くといへども、随自の後には還りて定散の門を閉づ。
一たび開きて以後永く閉ぢざるは、ただこれ念仏の一門なり。弥陀の本願、釈尊の付属、意これにあり。行者知るべし。」「七祖p.1273

と、随他意(観経で韋提希が願った意をあらわす「他の意に随う」)の法であり仏の本意ではないとされる。そして定散の善をなせと善を説くのは、仏の本当の真意である随自意(仏が自らの意に随ってあらわす真意「念仏の一門」)をあらわさんが為であると決判されておられる。

そもそも善を勧める『観経』(十九願の意)は、善導大師のおこころによれば、釈尊と阿弥陀如来の合説である。
釈尊は教位に立ち諸善を勧め、阿弥陀如来はひたすら救済を告げる二重構造になっている経典であると喝破したのが善導大師である。

「娑婆の化主(釈尊)はその請によるがゆゑにすなはち広く浄土の要門を開き、安楽の能人(阿弥陀仏)は別意の弘願を顕彰したまふ。」「七祖p.300

釈尊は韋提希の願いによって要門という定善・散善の教えを説かれ、阿弥陀如来は特別のおこころ(別意)から、弘願という第十八願の法を顕彰されたというのである。
これを二尊二教というが、釈尊も『観経』の結論である流通分に至って、

もし念仏するものは、まさに知るべし、この人はこれ人中の分陀利華なり。観世音菩薩・大勢至菩薩、その勝友となる。まさに道場に坐し諸仏の家に生ずべし」と。
仏、阿難に告げたまはく、「なんぢ、よくこの語を持て。この語を持てといふは、すなはちこれ無量寿仏の名を持てとなり」「七祖p.117

と、無量寿仏の名(南無阿弥陀仏)の称名を未来世の衆生に勧められている。これを二尊一教という。

御開山は、「化巻」冒頭の「結勧」で、

しかれば、それ楞厳の和尚(源信)の解義を案ずるに、念仏証拠門(往生要集・下)のなかに、第十八の願は別願のなかの別願なりと顕開したまへり。
『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。
濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。「p.381

現代語
以上のようなことから、源信和尚の解釈をうかがうと、『往生要集』の念仏証拠門の中に、第十八願について、四十八願の中で特別な願であるとあらわされている。
また、『観無量寿経』に説かれる定善・散善を修めるものについて、きわめて罪の重い悪人はただ念仏すべきであるとお勧めになっているのである。
五濁の世のものは、出家のものも在家のものも、よく自分の能力を考えよということである。よく知るがよい。

この文は『往生要集』の「念仏証拠」の

三には、四十八願のなかに、念仏門において別に一の願を発してのたまはく(同・上意)、「乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ」(第十八願)と。
四には、『観経』(意)に、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と。「七祖p.1098

から引文され、第十八願を特別の願の中の別願であるとされる。つまり十九・二十願に依るのではないぞといわれている。
また、『観経』の定散の諸機(定善・散善を行じている諸機)は、その定散二善を捨てて、そして「極重悪人ただ弥陀を称せよ」と称名の一行を勧励しておられる。
つまり『大経』も『観経』の何れも称名一行を専修せよというのが両経の本意である、とお示しである。

そして「濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよ」と、善が出来ると思いあがっている者を戒めておられるのである。
重ねて「道俗勧誡」では「しかれば穢悪・濁世の群生、末代の旨際を知らず、僧尼の威儀を毀る。今の時の道俗、おのれが分を思量せよ。」とのお示しである。

なお、この、極重悪人唯称仏の文と「雑略観」の我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我の文を「正信念仏偈」で依用されている。

以上のように、御開山のお勧めは、阿弥陀如来の御本意の願である第十八願にあるという事は当然のことである。
有漏の善を奨め、有漏の善によって、「十八願へ転入させるための方便として、阿弥陀仏が十九願で善を勧められているのです」というような立場は、仏智の不思議を疑い、選択摂取された念仏を誹謗していると言えるであろう。

念仏誹謗の有情は
阿鼻地獄に堕在して
八万劫中大苦悩
ひまなくうくとぞときたまふ 「p.607」

悲しきことである。

三願転入派

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浄土真宗を『教行証文類』の「化巻」に説かれている「三願転入」という概念で信仰のプロセスとして捉える者がいる。 ここでは、いまこれらの人々を三願転入派と呼ぶ。 三願転入という概念は、『大経』四十八願の中に、十方衆生と誓われた法蔵菩薩の願が三つある。

十八願 設我得仏 十方衆生 至心 信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆誹謗正法

十九願 設我得仏 十方衆生 発菩提心 修諸功徳 至心 発願 欲生我国 臨寿終時 仮令不与 大衆囲繞 現其人前者 不取正覚

二十願 設我得仏 十方衆生 聞我名号 係念我国 植諸徳本 至心廻向 欲生我国 不果遂者 不取正覚

読下し

十八願 たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。

十九願 たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、菩提心を発し、もろもろの功徳を修して、至心発願してわが国に生ぜんと欲せん。寿終るときに臨んで、たとひ大衆と囲繞してその人の前に現ぜずは、正覚を取らじ。

二十願 たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、わが名号を聞きて、念をわが国に係け、もろもろの徳本を植ゑて、至心回向してわが国に生ぜんと欲せん。果遂せずは、正覚を取らじ。

現代語訳

十八願 わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます。

十九願 わたしが仏になるとき、すべての人々がさとりを求める心を起して、さまざまな功徳を積み、心からわたしの国に生れたいと願うなら、命を終えようとするとき、わたしが多くの聖者たちとともにその人の前に現れましょう。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。

二十願 わたしが仏になるとき、すべての人々がわたしの名を聞いて、この国に思いをめぐらし、さまざまな功徳を積んで、心からその功徳をもってわたしの国に生れたいと願うなら、その願いをきっと果しとげさせましょう。そうでなければ、わたしは決してさとりを開きません。

この、十八・十九・二十の三願を衆生往願であるから「生因三願」と呼ぶ。 三願には「至心・信楽・欲生」、「至心・発願・欲生」、「至心・廻向・欲生」のそれぞれ三心がある。

生因三願中、如来の御本意の願は十八願であって、この事については三願転入派にも異論はない。

何故なら、下記の信楽釈にあるように、十八願の「至心・信楽・欲生」の三心を信楽一心に納めた信楽が往生成仏の真因であって、これを「信心正因」とするのが浄土真宗という教法であるからである。

次に信楽といふは、すなはちこれ如来の満足大悲円融無碍の信心海なり。このゆゑに疑蓋間雑あることなし。ゆゑに信楽と名づく。すなはち利他回向の至心をもつて信楽の体とするなり。 {中略}
この心はすなはち如来の大悲心なるがゆゑに、かならず報土の正定の因となる。如来、苦悩の群生海を悲憐して、無碍広大の浄信をもつて諸有海に回施したまへり。これを利他真実の信心と名づく。「信楽の体相」p.234

(注) 三心一心についての詳しい解説は、『やさしい安心論題の話』灘本愛慈著 p26~←をクリックして参照されたい。

三願転入派は、この三願を信仰のプロセスであると誤解して(誤解させて)、十九願から二十願へ回入し、二十願から根本の十八願へ転入しなければならないと教えるのである。

如来の御本意の願は十八願であるが、本意でない願を通らなければ真実の願へは転入出来ないというのである(転入と回入は全く違う論理なのだが三願転入派には理解することが不可能な概念であろう)。

このような思考をする者達は、「三願転入」を、まるで一階から二階へ上がる階段のように思っているのであろう。 階段は一階の者が二階へ上がる為のものであり、階段を一歩一歩上がったところに二階があるというのである。

三願転入派は次のように言う。 階段を上がるという自力を尽くさなければ、どうして二階へ上がるという自力が廃るのであるか、と。
これは階段を途中まで上がって、そこで力尽きて一階へ落ちろ、そうすれば二階へ上がるという事が不可能だと判るのだと言っているのである。

階段から落ちる事を目的に階段を上がれというのだからまるで喜劇である。「自業自得の救済論」 でも述べたが、このような発想は、自力を尽くした彼方に他力があるという竪の論理である。

十八願は「信楽」であり、十九願は「発願」であり、二十願は「廻向」であって、願の内容のそれぞれの心が違っている。

十八願は、至心信楽の願(正定聚の機 難思議往生)*
十九願は、至心発願の願(邪定聚の機 双樹林下往生)*であり、
二十願は、至心回向の願(不定聚の機 難思往生)*であって、
階段の例でいえば階段そのものが違うのである。

京都の本山へ行くのにニューヨーク行きの飛行機には乗らないし、ISS(International Space Station:国際宇宙ステーション)へ行くのに自転車に乗るなら馬鹿であろう。

親鸞聖人には「願海真仮論」があるが、これは三願はそれぞれ別の法門であり、御本意の願は十八願ひとつであって他の願に迷うのではありません、というお示しである。
如来の御本意である十八願と仮である十九・二十願を対判して、不本意の願に迷うのではないですよ、というのが親鸞聖人のお示しである。

三願転入というプロセスを説く三願転入派は、親鸞聖人が「真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す」「真仮対弁」p.372と仰られるように、如来の本願を疑い如来の広大な恩徳を迷失する事を奨めているのである。

階段は二階から見れば、二階が一階へ降りているのであり、一階にいるものを二階へ上げていくものが階段である。 まさに一階にいるままで、本願力回向の他力によって二階へ上げられるという教説が本願力回向という他力の教説である。

如来から回向される教説には、自らが救済に関与する選択肢はないのである。

もし、三願転入派が「光に向かって」などと奨めるならば、それは誘蛾灯が虫を誘引するようなもので光に飛び込んで焼け死ぬであろう。

光に向かう者に光はない。光に向かう者の背後には、返って求道しているという思いあがりと仏智疑惑の闇が拡がるのである。

光なき者にこそ、如来の大智大悲の光明は常に照らし、護り、摂取して下されるのである。

手をついて、あたまの下がらん、かえるかな (十九願)

水にいて、雨を求める、かえるかな (二十願)

釣瓶(つるべ)にて、汲み上げられたる、かえるかな (十八願)