よく御覧よ、根が生えてる

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ある寺の住職が夕立にあったので急いで寺に帰ろうとした。
ところが急いで帰ろうとした為か、下駄の鼻緒が切れた。

困っていると門前の豆腐屋のかみさんがこれを見つけ、頭にかぶっていた手拭を引き裂き鼻緒をすげかえてくれた。

次の日、豆腐屋の前を住職が通るので、かみさんは昨日の礼を言ってくれると思ったが、何も言わずに通り過ぎる。
また次の日も、今度は店先に出て会釈するのだが礼を言わん。

その次の日には、
「この間は大降りの夕立でしたね」
と、話しかけるのだが住職は頷くだけで礼を言わない。

とうとう、あたまにきた豆腐屋のかみさんは、店に来る客たちに、
「今度きた坊主はろくでもない奴や。人に親切にしてもろても、礼も言わん」

こういう坊主を揶揄する噂はなぜか拡がっていく。

この噂はやがて住職の耳にも入ってくる。住職いわく、
「なんだ、豆腐屋のかみさんは、礼を言うて欲しかったのか。わしは一生忘れんつもりだったのじゃが」

因っている人を見て親切に手を貸すのは尊いことだ。しかし、親切をしたぞ、
という想いが心の中で頭を持ちあげ次第に育ってくる。

世俗の凡夫の善には根が生えている、善根といわれるのは、まさにこういう事をいうのだろう。

御開山は『教行証文類』の「信巻末」で長々と『涅槃経』を引文し、
父殺しの阿闍世(あじゃせ)の慙愧による無根の信について語っておられる。

なんまんだぶを称える念仏の行者には、善根にも、貪・瞋・痴の三毒煩悩にも、もう既に根がない、ということのお示しだな。

浄土真宗を標榜するある新興宗教団体では、善を奨めそれが宿善となると教えるそうだが、まるで阿弥陀如来と取引するような事を教えているのでアホである。

無根の信、それが、なんまんだぶの声になって林遊に届いているって、ちょっと感動するな。

悪を止める気持ちが起きた時、如来さまが泣きなさるさけ、わずかの善を為そうとした時は、如来さまの好きな事はしようとおもうさけ、と、思い取らせて下さることも御恩報謝なのかもなあ。

ありがたいこっちゃなあ、なんまんだぶ なんまんだぶ

顕彰隠密

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御開山聖人は「化身土巻」で顕彰隠密として、『観経』には顕著に説かれている教義と隠微にあらわされている教義があるとおっしゃる。
いま、「化身土巻」の十三文例の即便について少しく窺ってみよう。

下記の『観経』で、 即便往生という語についての御開山のお示しである。

もし衆生ありてかの国に生ぜんと願ずるものは、三種の心を発して即便往生す。なんらをか三つとする。一つには至誠心、二つには深心、三つには回向発願心なり。三心を具するものは、かならずかの国に生ず。また三種の衆生ありて、まさに往生を得べし。なんらをか三つとする。一つには慈心にして殺さず、もろもろの戒行を具す。二つには大乗の方等経典を読誦す。三つには六念を修行す。回向発願してかの国に生ぜんと願ず。『観経』P.108

なお、参照用に漢文では
「若有衆生 願生彼国者 発三種心 即便往生 何等為三 一者至誠心二者深心三者廻向発願心 具三心者必生彼国 復有三種衆生 当得往生 何等為三 一者慈心不殺具諸戒行二者読誦大乗方等経典三者修行六念廻向 発願願生彼国」
である。

十三文例

発三種心即便往生」といへり。
また「復有三種衆生当得往生」といへり。これらの文によるに、三輩について三種の三心あり、また二種の往生あり。
まことに知んぬ、これいましこの『経』(観経)に顕彰隠密の義あることを。二経(大経・観経)の三心、まさに一異を談ぜんとす、よく思量すべきなり。『大経』・『観経』、顕の義によれば異なり、彰の義によれば一なり、知るべし。「仮巻」p.383

この「三種心」とは、「至誠心、深心、回向発願心」の三つの心であるが、御開山はこれを三種の衆生が発す三種類の心の彰の義と見られた。

そして、三輩を「三種衆生」とし、浄土願生者を「大経』の弘願の三心、『観経』の定の三心・散の三心の、それぞれの三心を発す者とされたことは以下の文で判る。

機について二種あり。一つには定機、二つには散機なり。また二種の三心あり。
また二種の往生あり。二種の三心とは、一つには定の三心、二つには散の三心なり。定散の心はすなはち自利各別の心なり。二種の往生とは、一つには即往生、二つには便往生なり。便往生とはすなはちこれ胎生辺地、双樹林下の往生なり。即往生とはすなはちこれ報土化生なり。「仮巻」p.392

「二種の三心あり」とし、「二種の三心とは、一つには定の三心、二つには散の三心なり。」とあることから、三種の三心の中に弘願の三心を含めておられる事が判る。

また、『観経』の三心の中に、『大経』の「至心・信楽・欲生」、「至心・発願・欲生」、「至心・廻向・欲生」のそれぞれの往生の三種類の三信が読み込まれている、と見られたとする事もできよう。

「二種の往生あり」とは、即便を「」と「便」に分けて、「即」という報土往生と「便」という化土往生に分けられる。

これが、

「二経(大経・観経)の三心、まさに一異を談ぜんとす、よく思量すべきなり。『大経』・『観経』、顕の義によれば異なり、彰の義によれば一なり、知るべし。」

顕彰隠密である。

このように、即便を「即」と「便」に分けられたことは『愚禿鈔 (下)』の末尾の文からも解かる。

また二種の往生あり。
一には即往生、       二には便往生なり。

ひそかに『観経』の三心往生を案ずれば、これすなはち諸機自力各別の三心なり。『大経』の三信に帰せしめんがためなり、諸機を勧誘して三信に通入せしめんと欲ふなり。三信とは、これすなはち金剛の真心、不可思議の信心海なり。また「即往生」とは、これすなはち難思議往生、真の報土なり。「便往生」とは、すなはちこれ諸機各別の業因果成の土なり、胎宮・辺地・懈慢界、双樹林下往生なり、また難思往生なりと、知るべし。『愚禿鈔 (下)』p.541

親鸞会教義の誤り」というブログの、高森親鸞会の『本願寺なぜ答えぬ』によれば、

十九・二十の方便二願は、真実、十八願に転入する、十方衆生の道程と、みておられることが、よくわかる。

と、あり、会員にプロセスとしての三願転入を勧めているそうである。

しかし、このような誤解・錯覚を防ぐ為に、「即」という報土往生と「便」という化土往生を分判され、得るべき果を示し化土を願うのではなく報土往生を願え、といわれている事はあきらかである。

そもそも、「化巻」冒頭の「総釈」に、

つつしんで化身土を顕さば、仏は『無量寿仏観経』の説のごとし、真身観の仏これなり。土は『観経』の浄土これなり。また『菩薩処胎経』等の説のごとし、すなはち懈慢界これなり。また『大無量寿経』の説のごとし、すなはち疑城胎宮これなり。「仮巻」p.375

と、仮の浄土である「化身土」というを先に出しておられることからも判るように、御開山の勧化は第十八願であることは当然であろう。

また、十八願の別名に「選択本願」を挙げられておられる。
この選択という語は、取捨の義といわれるように、真実報土往生の十八願を選び取り、十九願・二十願を選び捨てているのである。

御開山は三願転入を述べられる直前に、

悲しきかな、垢障の凡愚無際よりこのかた助正間雑し、定散心雑するがゆゑに、出離その期なし。みづから流転輪廻を度るに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。まことに傷嗟すべし、深く悲歎すべし。おほよそ大小聖人、一切善人、本願の嘉号をもつておのれが善根とするがゆゑに、信を生ずることあたはず、仏智を了らず。かの因を建立せることを了知することあたはざるゆゑに、報土に入ることなきなり。「仮巻」P.412

と、要門・真門の自力の行者を厳しく誡め、如来の選択したもうた弘願の十八願をお勧め下さっている事はいうまでもない。

そもそも、仏教の目的は成仏であって悟りを得る事である。
仏教とは、
仏説教(仏が説く教え)
説仏教(仏を説く教え)
成仏教(仏に成る教え)
まとめれば、仏教とは、仏が、仏について説く教えを拠り所として、自らが仏になる教えである。

『観経』に説かれる定善・散善のような有漏の善では、まさに「微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし」である。
第十八願の本願力回向の行信に依らなければ、どうして罪深い迷いの凡夫であり、はかり知れない昔から迷い続け、これからも迷い続け、迷いの世界を離れる手がかりのない者が浄土に往生し即成仏するなどという事があり得ようか。ましてや、電光朝露の至極短命の機である者に三願転入などというプロセスを経ている時間などないのである。

浄土真宗の十八願の教説は、今晩聴いて今晩助かる、頓教中の頓である横超のご法義であって、三願転入をしろというような教説ではないのである。

自業自得の救済論でも述べたが、高森親鸞会では三願転入の論理を聖道門の自業自得の因果論によって解釈し、十八願へのプロセスとして「願海真仮論」を誤用し会員に善(世俗の善)を奨め(主として人集め金集め)奨めることは十八願直入の道を遮蔽しているのである。

なお先哲は、御開山の「化巻」撰述の動機を、白紙の上に一点の墨を落とすことによって、いよいよ十八願の真意が明らかになると言われている。

また、全宗教を、真(十八願の浄土門)・仮(偽を仏教に誘引する聖道門)・偽(煩悩を助長する邪義)の三分類で顕わし、雄大な教義体系によって、誓願一仏乗といわれる大乗至極の浄土真宗の法門を顕わされたのである。

推理小説と観経疏

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最近は読んでないが昔は推理小説が好きでよく読んでいた。
なんらかの事件が起り、その解決へ向けて様々な伏線をまじえながら合理的に事件の解決を描いていくのが推理小説だ。

そして、最後に伏線でほのめかされていた事柄が一挙に解決され犯人が解かるという仕掛けになっている。
読者は最後に犯人が解かった時に、結論から本文に描かれていた伏線やエピソードの意味を理解する事が出来るのである。

観経疏』という『観無量寿経』の注釈書がある。
『観無量寿経』とは、精神を統一して浄土と阿弥陀仏や菩薩たちを観想する観法が説かれ(定善)、さらに、精神を統一出来ない者には、その機根に応じて上・中・下の善(散善)を為すことを勧める経典である。

南無阿弥陀仏を称えることはその下品(げぼん)の者の為に説かれている。
下品下生にいたっては、五逆・十悪の「唯知作悪」(ただ悪を作す事のみを知る)の者に称名を勧められている。
いわば、『観無量寿経』では、南無阿弥陀仏を称する事は最低の者に与える行なのである。

しかし、不思議な事に『観無量寿経』の結論である、経典を末代へ流通する部分に至って、突然、「もし念仏するものは、まさに知るべし、この人はこれ人中の分陀利華なり。」といい「なんぢ、よくこの語を持て。この語を持てといふは、すなはちこれ無量寿仏の名(南無阿弥陀仏)を持てとなり」と言われる。

ここに着目したのが善導大師であった。
いわば推理小説で結果が解かった時、その結果から小説に描かれた内容を逆観するのと同じように、結論から『観無量寿経』という経典に説かれている意義を再把握されたのであった。
まさに、御開山が「正信念仏偈」で善導独明仏正意(善導独り仏の正意をあきらかにせり)と讃嘆される由縁である。

善導大師は、「いまこの『観経』はすなはち観仏三昧をもつて宗となし、また念仏三昧をもつて宗となす」「念観両宗」と言われた。
『観無量寿経』の表面は、観仏三昧を説いているようにみえるが、その底には念仏三昧を説いているのだ、と言われるのである。

つまり、観仏三昧が表に顕れている時は念仏三昧が隠され、念仏三昧が表に顕れている場合は観仏三昧は隠れるという事である。
UPした画像は、「ルビンの壷」といわれるもので、図に着目すれば地が消え、地に着目すれば図が消える。壷に着目すれば二つの顔は消え、顔に着目すれば壷は消える。

同じように、一見すれば聖道門の行が説かれているように見える『観無量寿経』だが、釈尊の真意はなんまんだぶを称えさせる事にあり「聖道門の行」は捨てる為に説かれている、と見られたのが法然聖人であり御開山であった。

また、御開山が経に隠顕を見るのは、このような善導大師の説示から示唆されたのであろう。

プロレスと信心

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浄土真宗というご法義はホントに難しい宗教だと思ふ。
深川和上なら、それはお前の頭を使うからだ、と仰るだろうな(笑
 
大辞泉:ネット辞書によれば
しんじん
「名](スル)神仏を信仰する心。また、加護や救済を信じて、神仏に祈ること。
「―が足りない」「―を起こす」「―深い」
 
と、あるように、通常は人間の方が信仰する対象を信ずることを信心という。
自己が主体となって神仏に対応している関係を、浄土真宗以外の宗教では信心という。
 
ところが、浄土真宗ではこの対応が逆である。如来が主体であって衆生が客体だという。
逆対応であって如来という主体が、衆生という客体を包摂している状態を信と呼び、その包摂されている状態を信心と呼ぶ。
 
閑話休題(さて)
1950~60年代はTVの黎明期であり、その中で高い視聴率を誇っていた番組にプロレスがあった。
金曜日の夜8時からのプロレス放送は、白人相手の戦争に負けた腹いせか、黄色人レスラーが白人レスラーを叩きのめすシーンに男どもが喝采をあげていた。
 
ウチのじいさんも、この時間だけはTVの前に陣取って物も言わずにTVに食い入って見ていたものだ。
面白かったのは隣のじいさん。
 
TVの前に張り付いて、
いけ~、そこだ、コラッ後ろから来てるやろ、はよ後ろ見いや、ほらくそったれヤラレてもた。
いけ~いけっ、いけ~いけっ、はよいけ、肘うちじゃ生ぬるい、はよ、空手チョップ出せ~、空手チョップいけ~。
 
拳を振り上げ、声を嗄(か)らしてのプロレス観戦である。
 
二人のじいさんともに、頭の中にあるのはTVのプロレスだけ。
TVを見ている私も、私に見られているTVもそこには無い。じいさん達の頭の中は、ただただプロレスがあるだけだったんだろうな。
 
覚如上人の『報恩講私記』に「至心信楽 忘己速 帰無行不成之願海」(至心信楽おのれを忘れてすみやかに無行不成の願海に帰す」とある。
これは、TVのプロレスを見ていた爺さん達のように、自己をうち忘れて阿弥陀如来の本願を聞信し、その聞信している法が心に充満している事を表現した言葉だろう。
 
自己を忘れるほどの対象に出会えないのが現代の林遊のような存在である。
しかし、なんまんだぶ、なんまんだぶと、キーボードを叩き、文字や声にした時、迷いの皮の中にいる林遊の外部から届けられ眼に見え聞こえて下さる存在はありがたいこっちゃ。
 
林遊を包んでくれている世界があり、その世界が今現在に届けられているというのが浄土真宗の信心なんだろうな。
 
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ やったね

眼見と聞見

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むかしむかし、ある所にお爺さんとお婆さんが住んでいました。
 
その頃、世間で物騒な事件が起きて、
各家々では戸締りを厳重にしていました。
 
そんなある晩の事でした。
 
夜中に台所でドスーンと大きな音がします。
この音に驚いて目が覚めたお婆さんは、隣に寝ているお爺さんを揺り起こし、
 
お爺さん、台所で物音がした、ひょとしたら泥棒が来たのかも。
 
と、言いました。お爺さんは、
 
よし、ワシが見てくる、危ないからお前はここにじっとしておれ。
 
と、言ってそばにあった箒を掴んで、そろそろと台所へむかいます。
 
お婆さんは布団の上で、こう思いました。
 
ひょっとして最近うわさの強盗じゃたらどうしよう。
お爺さんが、強盗に刃物で刺さたらどうしよう。
私も刃物で刺されて殺されるかもしれん。
 
こう考えると怖くてたまらず、布団の上でブルブルと震えていました。
 
その時、お爺さんの大きな声が聞こえました。
 
ネコじゃ、となりのドラ猫のトロが戸棚の上の鰹節の箱をひっくり返した音じゃ。
 
この声を聞いたとたん、お婆さんの震えは止まってホッっと安心しましたとさ。
 
昔じいさんに聞いた話を昔話風にしてみた。
 
じいさんは、この話をしてから、
布団の上の婆さんは、台所での猫の悪さを見ていないが、爺さんの声で安心する。
 
「見聞一致」というのは、これと同じで覚りの世界を仏さまが見て話す言葉を聞くのが聴聞だと言っていた。
見て知る事と聞いて知る事は同じだと常に言っていたものだ。
 
御開山は「真仏土巻」に涅槃経を引文して、眼見と聞見という事を仰っている。
衆生が、色もなければ形もない仏さまの世界を知らせてもらうのは聞見だとの仰せだ。
 
「信巻」でその聞見のお勧めを、
「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。
との仰せである。
 
浄土真宗は、阿弥陀様がいるのかいないのかを見て信じるご法義ではない。
ただただ、仏願の生起本末を聞くだけのご法義である。
 
「仏願の生起」とは覚りの世界へ行く力の全くない林遊がいるから、「本末」とは、そのような林遊のために願をおこし行を積んでで(本)、現在、なんまんだぶという仏となり、林遊に救いを喚び続けて下さっている(末)のだな。
 
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

なんまんだぶのはなし

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浄土真宗所依の『無量寿経』には衆生に対しての願が三つある。
いわゆる「設我得仏 十方衆生」と衆生を対象にした生因三願(浄土へ生まれさせる三つの願い)である。
 
衆生というのは人間に限らず、生きとし生けるものすべてを指し示す言葉だ。
その三願の中で阿弥陀如来(法蔵菩薩)の御本意の願というのが第十八願である。
 
(十八願) わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます。
 
仏教とは釈尊が人間存在の根底にある苦の原因を「生老病死」であると提示することから始まる。
人という存在は「死」という厳然たる事実の前には、どのような論理も経験も無力であり虚無への墜落を感じないわけにはいかない。
少しく「生きる」という命題を考えたことのある人の前に提示される深刻な問いであり疑問である。
 
浄土真宗ではこの「死」というあらゆるものを虚無に叩き込む命題に対して「往生」という答えを用意している。
それが前掲の十八願だ。
全ての存在を無に帰する「死」というものを「往生」、浄土へ生まれると思いなさいと『無量寿経』の十八願は告げる。
 
死ぬとしか思えない事象を「わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏し」ろと、阿弥陀如来は招喚する。
人間の造った虚妄の価値観に支配され、生と死という妄想に囚われた存在に対する呼びかけであり喚び声である。
 
さて、彼の浄土へ生まれる「いのち」であると思い取れといわれる条件は何であろうか。
「心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して」と、『無量寿経』の十八願は言う。
 
念仏である。なんまんだぶである。
仏語に虚妄はないが、ここで疑問が起きる。
 
はたして、口になんまんだぶと称えるだけの行為が阿弥陀如来の浄土へ生まれる為の価値を持つ因なのであろうか。
 
親鸞聖人は仰る。
「大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。しかるにこの行は大悲の願(第十七願)より出でたり」、と。
 
(十七願) わたしが仏になるとき、すべての世界の数限りない仏がたが、みなわたしの名をほめたたえないようなら、わたしは決してさとりを開きません。
 
ここで、ちょっと親鸞聖人に言いたい。
これは往因三願の衆生が浄土へ往生する願ではないじゃないですか、仏が仏に誓った願がどうして衆生が浄土へ往生する願になるのですか、と。
 
親鸞聖人は仰る。
お前は、自分の口で称えられるなんまんだぶに着目しているのだろう。
それは違う。
お前の口に称えられているなんまんだぶは仏が仏を讃嘆している行なのだよ。
凡夫や羅漢や菩薩が修行する「行」と全く価値が違う行をお前に与えるから「正定の業因はすなはちこれ仏名をとなふるなり。正定の因といふは、かならず無上涅槃のさとりをひらくたねと申すなり」『尊号真像銘文』なんですよと仰る。
 
なんまんだぶの出所が違うのでした。
林遊の口に称えられているなんまんんだぶは、仏が為す仏の行であって仏作仏行である。
 
有り難し、という言葉があるが、kuzさんの婆ちゃんが、なんまんだぶ、あんがたいと常に仰っていたという事を聞くたび、私の人生に有る事がない名号が、仏となり浄土となって顕現して下さることに、有難いなあと嘆息する。
 
おねんぶつなさいませ。
 
で、家内に読んで聞かせたら、これ切り張りだらけで何が言いたいのと言われて凹んでいる

ケムンパス

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こどもの頃に聞いたはなし。

いわゆる、竪出、横出、横超のご法話。

ちなみに親鸞聖人は、
真実信心の人は仏に成る直前の五十一段にいらっしゃる弥勒菩薩と同じだと仰います。

竪出
けむべーす

ある朝目が覚めたら、なんとケムンパスは、竹の節の中にいました。
不条理ですね。

外から「出してあげるからあなたはそのまま動かないで」という声が聴こえます。

自信家のケムンパスは、
ふん、何言ってるんだい、俺様をなめるな。
人の世話にはなりたかないやい。

たしかに竹の横側は硬くて俺さまでも歯が立たないけど、幸い天井は柔らかいじゃないか。

けむべーす

一段ずつ食い破っていけば、たとえ52段あってもへっちゃらだい。

こうしてケムンパスは一段また一段と竹の内側の柔らかい壁を食い破っていきましたとさ。

横出
けむべーす

ある朝目が覚めたら、なんとケムンパスは、竹の節の中にいました。
不条理ですね。
外から「出してあげるからあなたはそのまま動かないで」という声が聴こえます。
疑い深いケムンパスは、でも、そんなうまい話は信じられないよ、と思いました。
けむべーす

困ったなあと思ったケムンパスは、そうだ困ったときはお念仏をすればいいんだ。
こうして懸命にお念仏を称えていると、なんと固い竹の横に少しずつ穴があいていきます。
けむべーす

やったぞと、ケムンパスは1日、2日、3日~と、一心不乱にお念仏を称えました。

やがて7日目に竹の横っ腹に穴が空いて、ケムンパスはその穴から外へ出ることができましたとさ。

横超
けむべーす

ある朝目が覚めたら、なんとケムンパスは、竹の節の中にいました。
不条理ですね。

外から「出してあげるからあなたはそのまま動かないで」という声が聞こえます。

素直なケムンパスは、
そうか、僕をここから出してくれるって言うんだから、素直に信じてみようと思いました。

けむべーす

するとその時、なんと竹が横に真っ二つにされました。

やったぁと、うれしくて、おもわず、なんまんだぶっと叫んでケムンパスは飛び上がりました。

けむべーす

すると、どうでしょう。
52段もある竹の節の、51段目の高さにケムンパスは、いるではありませんか。

こうして、素直なケムンパスは、なんまんだぶを称えながら暮らしていきましたとさ。

歎異抄の仮定法

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「おのおのの十余箇国のさかひをこえて」で、始る歎異抄二条では不思議な言葉使いがされている。
「身命をかへりみずして」と命懸けではるばる訪ねてきた関東の門弟に、まずいろいろな門弟の問いを整理をされ、結局あなたたちは「往生極楽のみちを問」いにいらしたのですね、とキチンと問いを限定されるところから始る。

以下、その歎異抄の解釈を『歎異抄』梯實圓著によって窺ってみる。

>>引用開始

■「人間の常識を超える」

『歎異抄』には、切れ味のいい逆説的な表現がしばしば使われています。第二条でいえば、

親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。*

と念仏の信を表明されたあと、一転して、

念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり。たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。

といわれていますが、これが親鸞聖人の念仏の信をあらわすぎりぎりのことばだったのでしょう。
こういう逆説でしかあらわせないところに、人間の常識をこえた念仏の世界の超常性があるのだというべきかもしれません。

「念仏はまことに浄土に生まれるたねである」というのが、『大無量寿経』にはじまり、法然聖人にいたるまでの、二千余年にわたる仏祖の教説でした。そして、この仏祖の説かれたみことばこそ、一点の虚偽もまじわらない真実であると、信じきっておられるのが親鸞聖人でした。虚偽は人間の側にある、ただ虚妄なき仏語に信順して、わが身の往生を一定と思い定めよ、とつねづね聖人も仰せられていました。

それゆえ、異端邪説に惑わされて、歩むべき道を見失った関東の門弟たちは、「念仏すれば必ず浄土に生まれることができる、決して地獄におちることはない」という、確信にあふれた聖人の証言を期待してたずねてきたにちがいありません。

しかし、その期待にひそむ危険性を、だれよりも聖人はよく知っておられたのでした。

人間に救いの証言を求めることは、如来のみが知ろしめし、なしたまう救済のわざを、人間の領域にひきおろすことになりますし、人間の証言によって成立した信念は、人間の論難によってすぐにゆらいでしまうにちがいありません。

人のまどわしを受けない信は、ただ仏語によってのみ確立するのです。また、救いの証言を行う人は、しらずしらずのうちに、自己を救済者の側に置く傲慢の罪をおかすことになりましょう。

■「愚にかえる」

法然聖人は、つねに「浄土宗の人は愚者になりて往生す」(『註釈版聖典』七七一頁)と仰せられていたと、親鸞聖人は記されています。
ここでいわれる愚者とは、教法の是非をみきわめる能力もなく、善悪のけじめを知りとおす判断力ももたず、まして生死を超える道の真偽をみきわめるような智力などかけらほどもない、どうしようもないものということです。

親鸞聖人は、つねに、

善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり

とか、

是非しらず邪正もわかぬ
このみなり
小慈小悲もなけれども
名利に人師をこのむなり*

といい、自身を「愚禿」と名のっていかれたのでした。

私はものごとの是非の判断もつかず、邪と正の見きわめもできない愚かものです。小さな慈悲の心さえ起こしきれず、自分の家族さえ救い切れない無力なものであるくせに、名誉欲・財欲といった欲望だけは強くて、指導者面をしたがる恥ずかしい自分であるというのです。こんな言葉で自己を語った宗教者はほかに例をみません。

「法然聖人の教えにしたがって専修念仏を信じるものは、地獄におちるといいおどす人がいますが、ほんとうに念仏すれば極楽へ往生できるのでしょうか」と問いかけられたとき、聖人は「念仏が、ほんとうに浄土に生まれる因(たね)であるのか、それとも地獄におちる業(因)であるのか、私はまったく知りません。それをたしかめる能力も知力も本来備えていないのがこの私です。
こんな愚かな親鸞のために、如来は本願をたて、我にまかせて念仏せよと、仰せられているとうけたまわり、その慈愛あふれる仰せに身をゆだねて念仏しているばかりです」といわずにおれなかったのです。

聖典セミナー『歎異抄』梯實圓P.91~
>>

さて、ここで、

弥陀の本願まことにおはしまさば、釈尊の説教虚言なるべからず。仏説まことにおはしまさば、善導の御釈虚言したまふべからず。善導の御釈まことならば、法然の仰せそらごとならんや。法然の仰せまことならば、親鸞が申すむね、またもつてむなしかるべからず候ふか。詮ずるところ、愚身の信心におきてはかくのごとし。このうへは、念仏をとりて信じたてまつらんとも、またすてんとも、面々の御はからひなりと[云々]。

と、「おはしまさば」と仮定法で語られている。
一部では、この仮定法を断定であると主張する人がいるようだが、文法的にも合わないし宗祖のお心を知らない解釈である。

梯實圓和上の「歎異抄二条」の法話によれば、人師(善知識)の証言を求めに来られた関東の門弟に、人(善知識)の言葉に従うのではない、如来の仰せに従うのである事を示す為の仮定法である。
親鸞聖人の証言を頼りとし、その言葉を指針とし生きがいとして生きて行こうと思っている門弟に、親鸞聖人は人(善知識)の言葉に従う危険性を示されたのである。

親鸞会HP http://www.shinrankai.or.jp/b/tannisyou/hiraku-comic05.htm
仮定法を断定であると主張する人は、以下のように言いたいのであろう。

<弥陀の本願まことであり、釈尊の説教虚言ではない。仏説まことであり、善導の御釈虚言にあらず。善導の御釈まことであるから、法然の仰せも真実である。法然の仰せまことであるから、親鸞が申すむね、絶対に間違いがないのである。>、と。

そして、それを告げる私(善知識)もまた間違いのない大導師であると、自らが善知識として他者に君臨したいのであろう。
しかし、これでは人師(善知識)の言葉によって、往生極楽の道が証明される事になってしまう。

臨済録には莫受人惑(人惑を受けず)とある。人の言葉によって迷い、他人の言葉によって生き方を右往左往する事を戒めた語である。

そのような善知識頼みの危険性を避けるために、親鸞聖人は、あえて断定を避け仮定法の「おはしまさば」を用いられたのである。

同書からもう一度引用する。
>>

人間に救いの証言を求めることは、如来のみが知ろしめし、なしたまう救済のわざを、人間の領域にひきおろすことになりますし、人間の証言によって成立した信念は、人間の論難によってすぐにゆらいでしまうにちがいありません。
人のまどわしを受けない信は、ただ仏語によってのみ確立するのです。また、救いの証言を行う人は、しらずしらずのうちに、自己を救済者の側に置く傲慢の罪をおかすことになりましょう。

>>

仮定法を文法を無視してまで無理やり断定と言換える人は、自己を絶対の善知識であるとし、救いの証言者としての立場に立とうとするのであろうか。まさに恐るべし恐るべしである。

「歎異抄二条」の法話」url
http://blog.wikidharma.org/blogs/%E9%9F%B3%E5%A3%B0%E6%B3%95%E8%A9%B1/

お浄土があってよかったね

林遊@なんまんだぶつ Post in 仏教SNSからリモート
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現代社会のこのような巨大な世俗化の出来事は、またそれ自身本質的には宗教的な性質をもっているのである。
人々がいろいろな擬似超越というものへ走るのも、超越という宗教的要求が、いつの世にも人間の心にあるという事実を物語っていると言えるだろう。

日本仏教の諸宗派のなかでは浄土真宗が、そういう世俗化の流れと今日でも闘っている珍しい例だとおもわれるが、その浄土真宗の現場においてさえ門信徒との法座の中で、
「<死にたくない>と繰り返す病人の前で、お念仏申せと言えなかった。言った方がよかったか」というような僧侶の意見があったことが報告されている(浄土真宗本願寺派『宗報』平成八年九月号)。
これが今日の浄土真宗の現場の正直な状況であるかもしれない。
しかし、これに対して浄土真宗が現代社会の中で実践されている極めて貴重な記録の一つとして、ある臨床医が書いたつぎのような文章がある。筆者は宮崎病院副院長の宮崎幸枝医師である。

●平成八年十二月十三日

病棟に入る。主任より報告を受け、真っ先にTさんのいる重症室へ。担当のAナースか「待っていました。早く指示を下さい」という目で私を見る。
耳介のチアノーゼだけが遠目にも鮮烈に視野に飛び込んでくる。Aさんが脈拍、呼吸、血圧、尿量と諳んじて言う数値はいずれも末期的な数ばかり。点滴へ、側管へと数種類を指示。

胃ガン摘出後四年を経てこの度肺へ転移。長いおつき合いのTさん。八四歳女性。
数日前のこと
「こんどは治らないかもしれないね」というと
「そう?」
と、か細いが、はっきりした声。そして
「やっぱり…」
という淋しげな表情。
「Tさん。たとえTさんがいま命終わったとしてもね、Tさんはこれでおしまいじゃないのよね。ビハーラで聞いたお話…」と仏様のお慈悲のお話をした。まだ症状は軽くゆっくりお話ができた。

今日、容態は一変した。厳しくせっぱつまった状況である。眉間の深い縦じわが苦痛を示し、不安そうな目を向ける。
「どこが苦しいですか?」
「ゼンブ!」
「何が一番不安ですか?」
「ゼンブ!」
聞くと即座にはね返すような返事。

先日の仏様のお話の続きが自然と私の口を動かしてはじまった。
「Tさん、お念仏はね。仏様が<私を頼りにしておくれ。必ずお浄土にあなたを迎えてお悟りの仏様にするよ>という仏様のお声なのよ。
お浄土があるよ。仏様と一緒にいるのだよって、今、仏様はTさんをだっこしてくださっているのよ。心配ないのよ」
「ウン」
「お浄土があってよかったね。私もTさんのあとから必ず往くからね。お念仏しましょう」

この時突然、Tさんの眉間のしわが消えた。そして満面の笑みがあらわれた。「ナマンダブツ」と称名。
「センセ、アリガトー」と言われる。よかった…と、その時傍らでびっくりすることが起こった。
今までベッドをはさんで向かい側Tさんの足許近くで聞いていたナースのAさんが突然大きい声で「Tさんよかったね」とTさんに近寄り言った。その目には涙が光っていた。彼女の感動が私にも伝わり、胸が熱くなる。

人間の、科学の限界である。三人三様の無力感の中に、知らず知らずのうちに仏語に頭が下がっていたのだろう。仏様の大きなお慈悲の前に、三人は裸のいのち三つをそこに並べていた。
『ようこそ』第9号、医療法人精光会宮崎病院、平成九年五月発行)
『蓮如のラディカリズム』大嶺顕著P45~


阿弥陀経には「倶会一処」とあるが、また倶(とも)に会える世界を持てるのはありがたいこっちゃな。
宮崎先生とは大昔に温泉津での深川和上の法話会の懇親会で一杯呑んだ事があったが、ありがたいお医者さんだな。

なんまんだだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ…

自業自得の救済論

林遊@なんまんだぶつ Post in つれづれ
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高森親鸞会という浄土真宗を名乗る新興宗教の団体がある。 この団体は、かって本願寺派紅楳英顕氏との間で宿善について論争したことがある。 紅楳氏の「破邪顕正や財施を修することが獲信のための宿善となる」という文証があれば示して欲しいとの主張を、「真宗に善をすすめる文証などあろうはずがない」と言い換え、紅楳氏の主張を歪曲し非難した過去がある。「派外からの異説について

その論争の中で真宗における善の勧めの根拠として高森親鸞会から提示されたのが「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教」という七仏通誡偈であった。 この、七仏通誡偈をもって真宗に善の勧めがある、と高森親鸞会は主張するのである。

か くて、大上段に〝修善をすすめた文証など、あろうはずがない〟と、アッと驚く、タメゴローならぬ、外道よりも、あさましい放言をなさるのである。【本願寺なぜこたえぬ p138】

仏教で『七仏通戒偈』は、有名である。 すべての、仏教に共通した教えを、一言で喝破しているからだ。 「諸悪莫作、衆善奉行、自浄其意、是諸仏教」 〝もろもろの、悪をなすことなかれ、もろもろの、善をなして、心を浄くせよ、これが、諸仏の教えだ〟というのである。 本願寺サン、『七仏通戒偈』も、お忘れになったのか、と驚かされる。【本願寺なぜこたえぬ p138】

本願寺派では、あまりにも浄土真宗の基礎を知らない幼稚な主張にあきれはてて放置しておいたのだろうが、これをもって高森親鸞会内部では本願寺を論破した稀代の善知識として会員獲得のスローガンになっているらしい。

また、 「善因善果 悪因悪果 自因自果」の厳然たる因果の道理を知らされた者は、必ず「廃悪修善」の心が起きる。
高森親鸞会HP
と、主張し、「廃悪修善」を勧めていることは周知の事実である。 同様に、高森親鸞会では「善の勧めはなぜなのか」と自問し、

「十方衆生のほとんどが、仏とも法とも知らぬのだから、まず宇宙の真理である「善因善果、悪因悪果、自因自果」の因果の大道理から、廃悪修善の必要性を納得させ、実行を勧め、十八願の無碍の一道まで誘導するのが弥陀の目的なのだ。 要門と言われる十九願は、善を捨てさす為のものではなく、善を実行させる為の願であることは、明々白々である。 実践しなければ果報は来ない。 知った分かったの合点だけでは、信仰は進まないのである。」
同HP

と主張している。 親鸞聖人には「願海真仮論」があるが、高森親鸞会では、この三願転入の論理を聖道門の自業自得の因果論によって解釈し、会員に善を勧め(主として人集め金集め)十八願直入の道を遮蔽しているのである。

十八願は阿弥陀如来の本意の願であり、十九願二十願は不本意の願である事は親鸞聖人の「願海真仮論」によって顕かである。何故に会員に阿弥陀如来の不本意の十九願二十願を勧め、ましてや六度万行(六波羅蜜)という法蔵菩薩の五劫兆歳永劫の修行を会員に策励するのであろうか。 本願寺派勧学梯實圓和上は自著『顕浄土方便化身土文類講讃』で以下のように述べられている。

真仮論の救済論的意義ー自業自得の救済論

阿弥陀仏の本願のなかに真実と方便を分判し、浄土三部経にも真実教と方便教があるといわれた親鸞聖人は、そのように真仮を分判しなければならないのは「真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す」るからであるといわれていた。逆にいえば、真仮を分判することによって、はじめて如来の救いの真相が明らかになるというのであった。

その意味で真仮論は、聖人の救済論の根幹にかかわることがらだったのである。 真仮論とは、浄土教を、さらに広くいえば仏教を、二つのタイブの救済観に分けることであった。

第一は、自業自得の因果論に立った救済観であり、それは論功行賞的な発想による救済観であった。 第二は、大悲の必然として救いが恵まれるとする自然法爾の救済観であって、それは医療に似た救済観であった。 自業自得の因果論に立脚した救済観というのは「誠疑讃」に

自力諸善のひとはみな
仏智の不思議をうたがへば
自業自得の道理にて
七宝の獄にぞいりにける

といわれているような、自力の行信因果をもって救済を考えていく思想をいう。
それは浄土教というよりも、むしろ仏教に一般的に共通した思考形態であったといえよう. 有名な七仏通誠の偈とよばれる詩句がある。

諸悪莫作(もろもろの悪は作すことなかれ)
衆善奉行(もろもろの善は奉行せよ)
自浄其意(自らその意を浄くす)
是諸仏教(これ諸仏の教えなり)

というのである。悪を廃して善を行じ、無明煩悩を断じて、自心を浄化し、安らかな涅槃の境地に至ることを教えるのが、すべての仏陀の教えであるというのである。

このように廃悪修善によって涅槃の果徳を実現しようとする自業自得の修道の因果論が、七仏通誠といわれるように、仏教理解の基本的な枠組みであった。 このような自業自得の因果論の延長線上に浄土教の救済を見るのが第一の立場であった。

法然聖人を論難した『興福寺奏状』の第六「浄土に暗き失」によれば、諸行往生を認めない法然は『観経』等の浄土経典や、曇鸞、道綽、善導にも背く妄説をもって人々を誤るものであるといっている。 すなわち『観経』には、三福九品の諸行による凡聖の往生が説かれているが、彼等が往生するとき、仏はその先世の徳行の高下に応じて上々から下々に至る九品の階級を授けられていく、それが自業自得の道理の必然だからである。

たとえば帝王が天に代わって官を授くるのに賢愚の品に随い、功績に応ずるようなものである。しかるに専修のものは、下々の悪人が、上々の賢善者と倶に生ずるように主張しているが、「偏へに仏力を憑みて涯分を測らざる、是れ則ち愚痴の過」を犯していると非難している。
これは明らかに自業自得、廃悪修善の因果論をもって、法然教学を批判しているもので、『興福寺奏状』の起草者、解脱上人貞慶からみれば法然聖人の浄土教は、仏教の基本的な枠をはみ出した異端でしかなかったのである。 『顕浄土方便化身土文類講讃』(梯實圓著)P61~


高森親鸞会のHP「承元の法難」には何故か『興福寺奏状』の第六「浄土に暗き失」が意図的に省かれている。
同HP
参考の為に意図的に省略された『興福寺奏状』の第六「浄土に暗き失」の部分を提示しておく。→興福寺奏状

これは、前掲の梯實圓和上の説にもあるように、高森親鸞会の主張する「廃悪修善」「自業自得の因果論」にとって都合の悪いものであるから意図的に省いたのであろう。

承元の法難では『興福寺奏状』に説かれる論理によって、法然聖人の門弟四人の死罪、法然聖人と親鸞聖人など中心的な門弟七人が流罪に処さるという未曾有の念仏弾圧が行われた。 高森親鸞会では、同じような廃悪修善の因果論の論理によって、まさに法然・親鸞という両聖人が説かれた選択本願念仏という宗義を破壊し毀損しているとしか思えないのである。 親鸞聖人は、

西路を指授せしかども
自障障他せしほどに
曠劫以来もいたづらに
むなしくこそはすぎにけれ

と、自らが迷い人を惑わせることを自障障他と言われているが、高森親鸞会の講師の方々に言いたい。 自らが迷うなら、それこそ自らの属する高森親鸞会の信条である「自因自果」であるが、どうか他者である会員を惑わせないで頂きたい。

加筆:
興福寺奏状に直接、「七仏通誡偈」の文言はない。

しかし、親鸞聖人の『教行証文類』撰述の動機となったといわれる、嘉禄の念仏弾圧事件の端緒となった元仁元年の『延暦寺奏状』には、この「七仏通誡偈」を論拠として念仏弾圧を行った事は明白であろう。

浄土真宗の根本の願である十八願には善の勧めはない。
この、阿弥陀如来から信心を恵まれる事に善の勧めがないことを根拠にして、念仏往生のご法義を弾圧して してきたのが聖道門であり世俗の法であった。

親鸞会は、まさに念仏弾圧の元となった廃悪修善の「七仏通誡偈」の論理をもって自らの依って立つ教義としているのであろうか。

『本願寺なぜこたえぬ』(高森顕徹著)恥ずかしい書物である。