おれの期待 高見 順

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わたくしは、何かを配達しているのだろうか。

おれの期待 高見 順

徹夜の仕事を終えて
外へおれが散歩に出ると
ほのぐらい街を
少年がひとり走っていた
ひとりで新聞配達をしているのだ

おれが少年だった頃から
新聞は少年が配達していた
昔のあの少年は今
なにを配達しているだろう
ほのぐらいこの世間で

なにかおれも配達しているつもりで
今日まで生きてきたのだが
人々の心になにかを配達するのが
おれの仕事なのだが
この少年のようにひたむきに
おれはなにを配達しているだろうか

お早う けなげな少年よ
君は確実に配達できるのだ
少年の君はそれを知らないで配達している
知らないから配達できるのか
配達できるときに配達しておくがいい
楽じゃない配達をしている君に
そんなことを言うのは残酷か

おれがそれを自分に言っては
おれはもうなにも配達できないみたいだ
おれもおれなりに配達をつづけたい
おれを待っていてくれる人々に
幸いその配達先は僅かだから
そうだ おれはおれの心を配達しよう

なんまんだぶのご法義は、私に配達された「法」を「遇ひがたくしていま遇ふことを得たり、聞きがたくしてすでに聞くことを得たり」と、「聞くところを慶び、獲るところを嘆ずるなり」(総序 P.132) ご法義である。
そのような意味で、このご法義の越前の門徒は「聞いてよろこぶご法義」と私に配達されたなんまんだぶを慶んでいたのであった。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

高見順「ガラス」

明頭来也 明頭打

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仏教のさとりとは、あらゆる相対を無化するのだが、普化和尚の以下の句は好きな句である。

明頭来也 明頭打 賢い頭が来たならば、賢い頭を打ってやれ
みょうとうらいや みょうとうた
暗頭来也 暗頭打 愚かな頭が来たならば、愚かな頭を打ってやれ
あんとうらいや あんとうた
四方八面来也 旋風打 四方八方来たならば、旋風のように打ってやれ
しほうはちめんらいや せんぷうた
虚空来也 連架打 虚空が来たならば、棒をもって打ってやれ
こくうらいや れんかだ

しかし、このような色即是空 空即是色的な無差別な生き方は世俗においては誤解されやすい生きにくい生き方であった。どうでもいいけど。

→放下著

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

法然門下での三願の受容

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法然門下では、浄土往生の願は第十八願だけであり、第十九願はその往生に際して来迎の利益を誓う願であるとしていた。その意を知るために浄土宗二祖聖光房弁長上人の『西宗要』から、第十七願、第十八願、第十九願、第二十願の記述について抜粋し読み下ししてみた。

御開山は、第十八願、第十九願、第二十願の三願を「生因三願」とされる。それには明恵上人が『摧邪輪』上で「第十九の願に云く、「発菩提心、修諸功徳」等と云云。是れあに本願にあらずや」という論難に応答するとともに、三願を浄土三経に配当し「願海真仮論」として法然聖人の浄土思想を精密に考証しその真意を洞察されたのであった。ともあれ、同い年の明恵の、

解して曰く、発菩提心は、是れ仏道の正因、是れ体声なり。専念弥陀は、是れ往生の別行、是れ業声なり。汝が体を捨てて業を取るは、火を離れて煙を求むるがごとし。咲ふべし、咲ふべし。まさに知るべし、これらの解釈の文は、皆菩提心においては、置いてこれを論ぜず〈この解釈に菩提心ある委細の義は、また第五門決のごとし.彼に至つて具に知るべし〉、ただ所起の諸行についてこれを判ず。しかるに本願の中にさらに菩提心等の余行なしと言ふは、何が故ぞ。第十九の願に云く、「発菩提心、修諸功徳」等と云云。是れあに本願にあらずや。→「摧邪輪

という「何が故ぞ。第十九の願に云く、「発菩提心、修諸功徳」等と云云。是れあに本願にあらずや」という論難に応答する為にも『大経』の「生因三願」を考察しなければならなかったのであろう。その意を仮をあらわす化身土文類の「真門決釈」で表しておられるのだが、後に三願転入派という異端を生ぜしめるとは御開山は夢にも思わなかったであろう。
真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す」であった。

なんまんだぶのご法義は出来上がった体系の上で論ずるのではなく、私という代替不可能な、我の上に、なんまんだぶと称え聞える、

(71)
念仏成仏これ真宗
万行諸善これ仮門
権実真仮をわかずして
自然の浄土をえぞしらぬ

という仏に成るご法義であった。

→「浄土宗要集」

なんまんだぶ なんまんだだぶ なんまんだぶ

彼岸

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「彼岸(かの岸)」という語は、煩悩の激流を渡ってさとりの向こうの岸に到達するという仏教語である。梵語のパーラミター(Pāramitā)の意訳であり、「此岸(この世)」に対する言葉であった。

現代社会は死のない文化ともいわれるそうだが、死を凝視しない文化はどこか奇妙で浅薄である。生しか知らない文明は、実は生の対抗軸を持たない故に真実の「生」の意味が解らないかもである。

現在ということだけを知る者は、実は現在をも知らないのだという言葉が「後生の一大事」という語であった。
大谷派の学僧であった金子大榮師は、

我々をしてその不安の世の中におりながら今日一日を落着き、今日一日を不安なるがゆえに、却ってそれを介して念仏申させて貰うことによって、有り難いという感覚をおこさせるものは一体何だろうかと、そういうような場として、私には後の世というものがあるのであります。死ねばお浄土へ行けるのであると。
人間の生涯の終わりには浄土へ行けるのであり、死の帰するところを浄土におくことによって、それが生の依るところとなって、浄土を憶う心があると、その心から光がでてきて、私達に不安の只中にありながら、そこに安住の地を与えられるのであります。つまり意識はどれほど不安を感じていても、どこかその底に安らかに安住させて頂く力があり、それが本願他力であり、それが浄土の教えであるといってよいのでありましょう。(曽我量深・金子大栄著『往生と成仏』法蔵館から)

と仰ったそうだが、死んで往く浄土をもつことによって、いま生きていることの意味の深さを味わえるのであった。ありがたいこっちゃ。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
オンライン版 仏教辞典

垂名示形

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御開山のご著書はめちゃくちゃ難しい。
そこで、この道の先輩方は種々の名目の補助線を示してお聖教の理解を助けるように工夫されてこられた。

そもそも、口に称えられ聞える〔なんまんだぶ〕は何処から来るのかという説明に先達は「垂名示形」という概念を示して下さっていたのでwikiarcに追記してみた。

垂名示形
すいみょう-じぎょう  漢音では、すいめい-じけい。

垂名示形(名を垂れ形を示す)。名を垂れるとは、一切衆生を済度しようとする法蔵菩薩の願心が、南無阿弥陀仏という名のりとなって十方衆生に称えられ聞かしめられんとすること。形を示すとは、一如より来生した法蔵菩薩の誓願が成就して阿弥陀仏(報身如来)となる因果相(仏願の生起本末)をあらわすことを形を示すといふ。
『一念多念証文』には、

この一如宝海よりかたちをあらはして、法蔵菩薩となのりたまひて、無碍のちかひをおこしたまふをたねとして、阿弥陀仏となりたまふがゆゑに、報身如来と申すなり。これを南無不可思議光仏となづけたてまつれるなり。この如来を南無不可思議光仏とも申すなり。(一多 P.690-P.691)

とあり、法蔵菩薩が「無碍のちかひ」を建立して阿弥陀仏となられた「仏願の生起本末」を説かれている。この「一如宝海よりかたちをあらはして」が示形であり「法蔵菩薩となのりたまひて」南無阿弥陀仏を成就され名号(名のり)としての活動相を垂名と真宗の先達は示されたのであった。
以下はwikiarcとその関連リンクを参照されたし。
「垂名示形」

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

横と竪(よことたて)

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仏教は八万四千の経といわれるように、膨大な経典がある。仏教は迷いを病に喩えて、その病を八万四千に分類し、それを対治(治療)する法も自ずから八万四千の病(迷い)に対して、八万四千の治法の根を説くとされる。いわゆる各人各人に応じた対機説法である。 →(智度論)

このような膨大な仏教思想の真意を解釈する手法が「教相判釈」であり、小乗と大乗の経が混然として同時に流入したシナの仏教徒にとっては、真と仮を判断する「教相判釈」は必須のいとなみであった。
このような教判を承けて確立されたのが、御開山の「二双四重判」の教相判釈であった。道綽禅師の「聖浄二門判」を承けての「横」と「竪」の教判である。
例せば、竹の中という煩悩の中にいる虫が、硬い竹の外という煩悩の寂滅した仏陀のさとり(空)に出る方法には二種の方法があるというのである。

一つには、本願力回向の願力によって「横」に竹を超断されてさとりの界への往生とする「横超」の他力のご法義。もうひとつは、竹の外側は硬いから食い破ることは出来ないので、内部の薄い節の部分を自力で食い破って52段という仏陀になる階梯を順次に修行しようという「竪超」の法義である。
御開山は、この横の「横超」の宗義を「誓願一仏乗」とされたのであった。

御開山は『般舟讃』を引文して、

門々不同にして八万四なり。無明と果と業因とを滅せんための利剣は、すなはちこれ弥陀の号なり。(行巻 P.169)

と、なんまんだぶは、曠劫よりの罪悪生死の煩悩を切るとされている意からもこの竹を横断する譬喩が生まれたのであろうと思ふ。

→「二双四重

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんんだぶ

信罪福心

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信罪福心について、wikiarcに追記した。

罪福心について、御開山は「真仏土文類」の末尾で、

 まことに仮の仏土の業因千差なれば、土もまた千差なるべし。これを方便化身・化土と名づく。真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す。 (真巻 P.373)

とされておられる。この真仮とは、自業自得 (信罪福心) という自利 (自力) の法門と、本願力回向の「誓願一仏乗」の利他力 (他力) の法門の綱格の違いをいふ。この利他力のあらゆる衆生を浄土へ運載する大乗の意を『御消息』では「浄土真宗は大乗のなかの至極なり」(消息 P.737) とされたのであった。

善人悪人を平等に浄土に往生せしめ「済度」するという真宗の法義 (仏法の教義) は人間の思議の常識を超えているから、不可思議の法なのであった。なんまんだぶを称えて「念仏成仏」を目指すご法義であった。

→「罪福]

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浄土真宗における信の歴史

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七祖の補注をUPしてみた。
七祖のそれぞれの解釈が窺えて面白い。一般に浄土真宗では「道俗時衆共同心 唯可信斯高僧説(道俗時衆ともに同心に、ただこの高僧の説を信ずべし)」とあるので、七祖は御開山と同一の事を述べたとされるのだが、それでは七祖に失礼であろうと思ふ。
祖師方は、それぞれがおかれた時代時代に応じて浄土教を顕開して下さったのであった。

で、突然『西方指南抄」の「大胡の太郎實秀へつかわす御返事」の引用が出て来たので、リンクと現代語を付してみた。
『和語灯録』や『西方指南抄』は、お説教のネタの宝庫だと思ふので、もっと真宗の坊さんは読むべきかもである。知らんけど(笑

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
「七祖-補註7」

願作仏心、度衆生心

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wikiarcの願作仏心の項に追記。

明恵高弁は『選択集』を読み、菩提心を撥去する法然は畜生である、悪魔であるとまで罵倒した。それでは汝(明恵自身)は真正の菩提心を発しているのかと自問し、菩提心は発せていないと正直に答えていた。しかし菩提心は発せていないが、法然はわたしが目標としている仏道の正因である菩提心を撥去したことが許せないのだとしていた。
御開山は、

自力聖道の菩提心
こころもことばもおよばれず
常没流転の凡愚は
いかでか発起せしむべき (正像 P.603)

と、明恵のいう自力の菩提心の発しがたきことを示し、本願力回向の「大信」は願作仏心・度衆生心の浄土の菩提心であるとされたのであろう。

摧邪輪 浄土宗全書 第8巻750P

問曰 爾者汝有菩提心乎。

問うて曰く、爾れば汝に菩提心ありや。

答 設雖無之 如此知 是正見也。

答う。設い之なしと雖も、此の如く知る、是れ正見なり。

既有正見者 欣可欣 厭可厭。

既に正見ある者は、欣うべきを欣い、厭うべきを厭う。

知菩提心是佛道正因故 念念愛樂之。

菩提心は是れ仏道の正因と知る故に、念念に之を愛楽す。

知汝如所立是邪道故 念念厭惡之 終必可增長菩提心 成無上佛果。

汝が所立は是れ邪道なりと知る故に、念念に之を厭悪し、終に必ず菩提心を増長し無上の仏果を成ずべし。

汝厭惡菩提心 佛種既朽敗。

汝の菩提心を厭悪する、仏種既に朽敗せり。

妙果依何得成。

妙果何に依りてか成ずるを得んや。

况又有相發心 行相麤顯。

況んや又有相の発心、行相麁顕なり。

隨分愛樂佛境者何必非菩菩心乎。

随分に仏境を愛楽するは、何ぞ必ず菩提心にあらずや。

→「願作仏心

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従果還因 従果降因

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某所で還相について法座での坊さんの応答を、『浄土論註』の「無生の生」と「四種の菩薩荘厳」に依って語っていた。
雪降って暇なので少しく考察してみた。

まず往生ということだが、『論註』では、往(ゆ)いて生まれるというなら「生」は迷いの根本であるのに、何故「往生」と「生」というのか、という問いを出し(論註 P.123) 、それに対して、

この疑を釈せんがために、このゆゑにかの浄土の荘厳功徳成就を観ず。かの浄土はこれ阿弥陀如来の清浄本願の無生の生なり。三有虚妄の生のごときにはあらざることを明かすなり。なにをもつてこれをいふとならば、それ法性は清浄にして畢竟無生なり。生といふはこれ得生のひとの情なるのみ。(論註 P.123)

と、浄土に生まれるという「生」の意味は「無生の生」であるとされた。
無生の生

しかし、このような「無生の生」が理解できるのは優れた人(上品生)だけであって凡夫(下下品の人)には不可能ではないかと、問い(論註 P.125)

かの阿弥陀如来の至極無生清浄の宝珠の名号を聞きて、これを濁心に投ぐれば、念々のうちに罪滅して心浄まり、すなはち往生を得。(論註 P.126)

とされ、有名な「氷上燃火(ひょうじょう-ねんか)」の譬えで、実の生ありと生にとらわれる者(見生)であっても、

また氷の上に火を燃くに、火猛ければすなはち氷解く。氷解くればすなはち火滅するがごとし。かの下品の人、法性無生を知らずといへども、ただ仏名を称する力をもつて往生の意をなして、かの土に生ぜんと願ずるに、かの土はこれ無生の界なれば、見生の火、自然に滅するなり。 (論註 P.126)

と、せられていた。ようするに無上宝珠の名号である、なんまんだぶを称えて、いらぬ心配をするなであった(笑
→「無上宝珠

で、往生しての「還相」であるが、これも『論註』の菩薩の四種功徳成就で坊さんが答えていたようである。

『浄土論』では、浄土の荘厳を国土17種、仏8種、菩薩4種の三種の荘厳として説かれておりこれを「三厳二十九種荘厳」といふ。
→「三種の荘厳

このうちの菩薩荘厳四種には名称がないので後世に名を付してそれぞれ、不動遍至功徳、時遍至功徳、無余供養功徳、遍示三法功徳といふ。(論註 P.88)

この菩薩四種荘厳は、浄土の菩薩の衆生教化活動であり、『論註』では八地以上の法性生身の菩薩の活動であるといわれていた。以上はリンク先の『論註』の文を読めば判る。なお菩薩荘厳も「仏本なんがゆゑぞこの荘厳を起したまへる」と仏願の生起から説かれていることに留意。
→八地=「法性生身の菩薩

さて「従果降因」なのだが、御開山は『論註』と少しく違うのでややこしい。『論註』では浄土の菩薩の利他のはたらきを還相というのだが、御開山は仏果を得た仏が因に降って菩薩の相を示現しての救済活動を「還相」とみておられた。これを「従果降因」とも「従果還因」ともいふ。
→「従果降因

もちろん『論註』の菩薩四種荘厳を「従果降因」の相とみることも可能だが、往生即成仏という御開山の立場からは、仏果を獲たものの活動相を「還相」といわれたのであった。
→「還相

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ