藤原正遠師のご法話

林遊@なんまんだぶつ Posted in 仏教SNSからリモート
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親のこころ、子のこころ
 
私は親のこころを教えて貰い、また子のこころを教えてもらって、救済されました。
親はいつも私たちに詫びつづけていらっしゃるのです。次に親はいつも私たちに頼みつづけていられるのです。また親は、いつも私たちに力づけつづけておられるのです。では親は何を私たちに詫びつづけておられるか。親は私たちに申し訳ないとおっしゃるのです。
 
貪る心のおこるのも、腹の立つのも、愚痴の心のおこるのも無理はない。
みんな私に責任のある事だから相済まぬと、頭を低うして手をついて、あやまりつづけておられるのです。
蛇は青竹で子どもになぶり殺される。無始曠劫からそうである。老猫は首をしめられて川に流され、子猫は余り多く生まれると、野辺にすてられる。
生まれ出てやっと飛べるようになった蛙は、恐ろしい蛇ににらみつけられ、その先の割れたへらへらの舌に巻き込まれ、そのまま蛇の舌に溶けてゆく。
 
私が生み出したからこそ、こんな苦労をお前らにかけるのだ。本当にお侘びの仕様もないとおろおろになって、親は私たちに侘びつづけていられるのです。そうしてまた私たちにお頼みになっているのです。
しかし苦しかろう、やるせなかろう、しかしお前に与わった道を歩いてくれ。その道を歩いてくれないと、私の国がこわれてしまうのだとおっしゃるのです。
足の裏もひどかろう。いつも土だけ踏んで、しばらくも大空に向かって大気を呼吸するひまもない。地上から一足上がったかと思うと、また次には塵芥の土の上に、すでに足の面をすりつけられている。
 
しかし足の裏よ、お前はその大地を踏みつけてくれないと、私の国が毀れるとおっしゃるのです。
松の木よ、お前も動きたかろう。しかし雨の日も嵐の日も、そのままそこに何百年も立ってもらっていないと、私の国が毀れるとおっしゃるのである。
暗い夜。星もささやいてくれない夜、心細くて夜の明けるのがどんなに待ち遠しいことだろう。
しかしその暗さの中に、じっと辛抱してくれ、頼む、とおっしゃるのです。私だけではありません。有情非情、新羅万象に向かって、親は詫びつづけまた頼みつづけていられるのです。
 
そうして今度は私たちを力づけて下さるのです。それでいいのだ、あやまちでない。罪ではない。
みんな私が頼んでしてもらった仕事だから、一切気にしないでそのままやってくれ、そのまま誰が何といっても、すべて私の仕事をしてもらっているのだから、今日までのこともまた明日のことも、何が起ころうと明るく進んでもらいたい。気にせずに行ってもらいたいと力をつけて下さるのが、親のこころであります。
 
私は殺生罪を犯しました。偸盗をいたしました。まったく五戒の破れ通しです。戒どころか一切が悪、一切が非、極重悪人です。
いやいや、そうでない。みんな私の方に責任があることだ。
ほんとうにお前にそんなに心を痛めさせて申し訳ない。みんなそのままお前の一切、悪と思っていることが、私の仕事をしてくれているのだ。
 
罪をおかせば報いが必ずくる。その報いの中で、さぞかしひどかろうが、それも私の仕事だ。
どうかそのまま、その報いの中に歩いてくれとおっしゃるのです。
そうして最後に、さびしかったら私の名前、親の名前「南無阿弥陀仏」と呼んでくれと、お頼みになるのです。
 
南無阿弥陀仏の中に、いつも私はいる。
 
南無阿弥陀仏がお前の親のふところだから、いつも私のふところに帰ってきておくれ、そうして私のふところで泣いてくれ、私のふところの中で怒ってくれ、愚痴を言ってくれ、貪瞋痴のまん中で、三毒の煩悩のくるくる舞いのまん中で私の名を呼んでくれ。
私はいつもお前を両の手で迎える、抱いてあげるとおっしゃるのであります。
 
私の親は、まあ前述のような親様であります。私はこの親の告白をきかされて、白然に親から子のこころをいただいたのであります。「わかりました。」よく親様のおっしゃることがわかりました。私はあなたからいただいたお与えのままに歩かせてもらいます。その道が蛇の道であろうが、蛙の道であろうが、松の木であろうが、もう私は文句は申しませぬ。
お与えのまま歩かせてもらいます。この決意が私の子ごころの心であります。
しかしその決意はまことに立派であったが、しかし実際の生活にぶつかると、一歩も私は私で歩けないのです。
 
しかし幸いなるかな、行き詰まり、ころび、暗闇のところには、親様の方から私の口を割って「南無阿弥陀仏」と流れて下さいまして、そうして私を摂取して下さいます。
私の胸にほのぼのと、やわらかい光、あたたかい光を与えて下さいます。障りが多ければ多いほど、み親の慈光は、私を包んで体のしこりを溶かして下さいます。心の闇を明るくして下さいます。
私の称える念仏なら取りおとすかもしれませぬ。苦しまぎれに忘れるかもしれませぬ。親から廻向のお念仏です。暗いほど灯(ともしび)は明るくなるように、私は孤独になればなるほど、お念仏はしげくあらわれてくださいます。
 
病魔が襲えば襲うほど、清水のわくようにこんこんと大悲の浄水で、体も心も洗って下さいます。
愛欲の広海に沈没して、名利の太山に迷惑し、貪愛瞑憎の雲霧、つねに私の心を閉ざします。
一秒一刻もとどまりませぬ。それにつけても、大悲心の親ごころは、影に形の添うがごとくしばらくも離れられませぬ。
 
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。
 
ほんとうに私は、この親さまのこころにふれて、三世の業障から一時に解放されました。また閉ざされるが、いつもご廻向の念仏によって解放していただきます。
私は全く救済されたと言わねばなりませぬ。また念々救済され通しと言わねばなりませぬ。また明日も、未来永劫に救済されることに間違いないと言わねばなりませぬ。いや、救済されるもされぬもありませぬ。親心に遇い、親が私であり、私が親である。
有限が即無限、無限が即有限である。ここまで知らされますところに、言うことはなくなります。
いや、言うことはなくなりませぬ。言うことだらけであります。苦悩の有情はさらに苦悩の深まるばかりです。だから南無阿弥陀仏の名号が与えられている。
 
障り多きに徳多し。
南無阿弥陀仏。
 
煩悩を断じて言うことがなくなったのでない。
「障り多きに徳多し」の妙薬に遇って、私は言うことがなくなったのであります。
 
「おやのこころこのこころ」藤原正遠師より