聖道門と浄土門

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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TS会の人は浄土真宗を通じてしか仏教という教えを捉えていないのでないかと思ふ。
特に講師と言われる人たちは、高森氏の歪(いびつ)な仏教理解の視点を離れて仏教というものに対して謙虚に学ぶべきだろう。

高森氏自身が聖道門仏教と浄土門仏教の綱格の違いが分からないから、TS会では聖道・浄土の教えが混じり合って、意味不明な高森教になってしまっているのである。
浄土門仏教は聖道門仏教を批判的媒介項とした仏教であって、いわば人間側の論理ではなく如来の側からの論理によって成り立っているのである。このことが理解できないから、

・獲信の因縁(宿善)として諸善をせよ
・諸善と獲信はよい関係にある
・善をしなければ信仰は進みませんよ

などと善という名の献金と人集めを声高に叫び、TS会の講師も高森氏の蒙昧な仏教理解に引きづられて、人生の時間を無駄にしているのであろう。
そもそも、浄土真宗のおける善とは『浄土論註』の真実功徳釈、

「真実功徳相」とは、二種の功徳あり。一には有漏の心より生じて法性に順ぜず。いはゆる凡夫 人天の諸善、人天の果報、もしは因もしは果、みなこれ顛倒、みなこれ虚偽なり。このゆゑに不実の功徳と名づく。『浄土論註』p.56

に、あるように、凡夫 人天の諸善、人天の果報、因も果も、すべて顛倒であり虚偽であるとされている。
たぶん、修善を奨める高森氏が、浄土門と聖道門を分判し仏教の綱格が違うのだという、道綽禅師の「聖浄二門判」を知らないからであろうと思われる。

道綽禅師の『安楽集』の「聖浄二門判」を600年後の法然聖人が、

「いまこの浄土宗は、もし道綽禅師の意によらば、二門を立てて一切を摂す。いはゆる聖道門・浄土門これなり。」『選択本願念仏集』「二門章

と開顕されたのが浄土宗である。

いわゆる、全仏教を聖道門と浄土門に分判し、浄土門仏教は聖道門の論理と全く違う論理による仏教であるとされたのが法然聖人であった。
これは仏教史におけるコペルニクス的転回であって、まさに自己を中心とする世界観ではなく阿弥陀如来を中心とする世界観であった。浄土真宗ではあまり注目されていない道綽禅師だが、この「聖浄二門判」が600年後の法然聖人の琴線に触れたのである。

これを受けた親鸞聖人は、浄土真宗は人間側の論理ではなく、阿弥陀如来の側からの論理によって成り立っていると「本願力回向」という阿弥陀さまの本願のご法義を顕わして下さったのである。
廃悪修善が救済の条件であるなら、廃悪修善ができない人は救済対象ではないのか。犯してしまった悪に泣き苦悩している人は仏教では救われないのか。
このような、自業自得の因果論から、煩悩に悩み苦悩に喘ぐ凡夫に焦点を結んだのが阿弥陀如来の本願のご法義である。
自因自果の自業自得の仏教から、いわば苦悩する衆生への医療の論理で成り立っているのが浄土真宗である。

法然聖人は『選択本願念仏宗』「約対章」で、TS会の奨める雑善に約対して念仏の優位性を、

ただ念仏の力のみありて、よく重罪を滅するに堪へたり。ゆゑに極悪最下の人のために極善最上の法を説くところなり。例するに、かの無明淵源の病は、中道腑臓の薬にあらずはすなはち治することあたはざるがごとし。
いまこの五逆は重病の淵源なり。またこの念仏は霊薬の腑臓なり。この薬にあらずは、なんぞこの病を治せん。『選択本願念仏集』「約対章

と、示されているのもその意であり、親鸞聖人が五逆罪、謗法罪を犯した者、仏教に関心のない者に対して、

それ仏、難治の機を説きて、『涅槃経』(現病品)にのたまはく、「迦葉、世に三人あり、その病治しがたし。一つには謗大乗、二つには五逆罪、三つには一闡提なり。かくのごときの三病、世のなかに極重なり。ことごとく声聞・縁覚・菩薩のよく治するところにあらず。善男子、たとへば病あればかならず死するに、治することなからんに、もし瞻病随意の医薬あらんがごとし。もし瞻病随意の医薬なからん、かくのごときの病、さだめて治すべからず。まさに知るべし、この人かならず死せんこと疑はずと。善男子、この三種の人またまたかくのごとし。仏・菩薩に従ひて聞治を得をはりて、すなはちよく阿耨多羅三藐三菩提心を発せん。『教行証文類』「逆謗摂取釈」

と、医療の論理を説かれているのもその意である。

この阿弥陀如来のご法義の対して、高森教では病気になったら、それは自因自果だからあきらめろ、善をしなかったから自業自得の当然の報いであるから地獄へ行けというのであろう。これはもう仮ですらなく善と恐怖を利用した邪義の宗教と言わねばならないのである。