TS会では善因善果 悪因悪果 自因自果の因果の道理をやかましく言うらしい。これに嵌って苦しんでいる人が多いと思うのでちょっと書いてみる。
米を作る為に因である種籾を播けば、果という稲が出来る。当たり前の事である。
しかし、ちょっと待て、その種は何処から持ってきたと問えば、去年獲れた稲の種籾だと答えるであろう。
つまり、去年取れた「果」である種籾を「因」として今年の果である稲を獲るわけである。
浄土真宗では、因位の阿弥陀如来が法蔵菩薩として五劫兆載の修行の果として、衆生を救う為に全徳施名と名号になって下さったというご法義である。阿弥陀如来から言えば名号は果である。
この如来の徳であり果である名号を林遊が受け取るのを信心といい、これが往生成仏の種(因)であるというのである。
(果=因)→往生成仏の果、ということである。
果である阿弥陀如来の名号が、林遊には因となって往生成仏の果となるのである。
単純に言えば、仏願の正起本末を聞くとは、阿弥陀如来の果を聞くことであり、その果が林遊の往生成仏の因であるという事を聞くことである。
TS会では善因善果として善を奨めているが、人間の行った善は往生成仏の因にはなり得ない。「善をしなければ信仰は進みません」とか「諸善は獲信とよい関係にある」というような理屈は本願力回向の浄土真宗ではあり得ないのである。
人間がどのような善(因)を行っても、それは人間の世界での因果であって阿弥陀仏の世界の因果ではないからである。
『往生論註』真実功徳釈では、真実ということを以下のようにいう。
「真実功徳相」とは、二種の功徳あり。一には有漏の心より生じて法性に順ぜず。いはゆる凡夫 人天の諸善、人天の果報、もしは因もしは果、みなこれ顛倒、みなこれ虚偽なり。このゆゑに不実の功徳と名づく。
二には菩薩の智慧清浄の業より起りて仏事を荘厳す。法性によりて清浄の相に入る。この法顛倒せず、虚偽ならず。名づけて真実功徳となす。いかんが顛倒せざる。法性によりて二諦に順ずるが ゆゑなり。いかんが虚偽ならざる。衆生を摂して畢竟浄に入らしむるがゆゑなり。
「往生論註 p56」
凡夫人天の諸善や果報は、因も果もすべて顛倒であり虚偽であるという。因位の法蔵菩薩の智慧清浄の業によって成就された浄土には、凡夫人天の善行は不実なのである。TS会のように、このような顛倒・虚偽の善を追い求めさせるような幼稚な因果論こそ、会員を虚偽の善へ向かわせて阿弥陀如来の選択された真実の道から遠ざけているのである。
浄土真宗は往生即成仏であり、仏に成る為には仏の果を用い、その果を林遊の因として仏に成るご法義である。
『尊号真像銘文』では、 安養浄土の往生の正因は念仏を本とすとある。これが仏になる種(行業)である。
『選択本願念仏集』といふは、聖人(源空)の御製作なり。「南無阿弥陀仏往生之業念仏為本」といふは、安養浄土の往生の正因は念仏を本とすと申す御ことなりとしるべし。正因といふは、浄土に生れて仏にかならず成るたねと申すなり。
「尊号真像銘文 p665」
人間の種(因)ならまた人間という果を生み、仏の種(因)なら仏に成る(果)のは当然である。仏の果である種、仏の功徳の総体である名号を称えるから何の不思議もなく仏に成るのである。当たり前のことであろう。
なんか、称名正因みたいな文章になっちゃたな、まあいいか(笑
なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ、やったね