田んぼでへをこく

林遊@なんまんだぶつ Posted in 仏教SNSからリモート
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いね

ひえ

ひえの穂

これは越前の方言であるが、田んぼで屁をこく(する)という意味ではない。
画像をUPしたが、田の雑草に稗(ヒエ)というものがある。
このヒエを訛って「へ」と言い、田んぼへ行って稗を扱(こ)く、(抜く)という意味で、田んぼでへをこくと言う。

さて、この稗であるが、稲と同じイネ科の植物であるから画像にあるように、苗の状態では百姓であっては見分け方が難しい。
しかし、成長して大きくなれば稗は独特の穂を付けるので、見分けることが素人でも可能になる。

閑話休題

『大無量寿経』には生因三願として、18、19、20の願がある。
この願の中で阿弥陀如来のご本意の願は18願であることは曇鸞大師の『往生論註』の三願的証を見るまでもなく、浄土真宗では当たり前の事実である。

しかるに、TS会では、18願に入る為には19願に誓われた菩提心を発して、もろもろの功徳(修諸功徳=善)を修さなければならないと説く。
親鸞聖人の顕わされた『教行証文類』は、18願の真のご法義を「教行信証」という体系で説かれ、邪と仮の宗教は「化身土文類」で表しておられる。

いわゆる、教→行→信→証と、真仏土への過程を阿弥陀如来の回向法として顕わしておられるのが18願の、阿弥陀如来の本意の御法義である。
「化身土文類」では仮の宗教を説くのであるが、この化身土文類では最初に、

つつしんで化身土を顕さば、仏は『無量寿仏観経』の説のごとし、真身観の仏これなり。土は『観経』の浄土これなり。また『菩薩処胎経』等の説のごとし、すなはち懈慢界これなり。また『大無量寿経』の説のごとし、すなはち疑城胎宮これなり。
http://wikidharma.org/4b8e7059ea86f

と、最初に往生すべき果である化身土を出されている。

親鸞聖人が、何故このような果を先にする表現をなされたかといえば、結果を先に出すことによって、この化身土文類で説かれている19願20願の道を行くのではありませんよ、とのご注意である。

19願を修している人、20願を修している人には18願の全分他力の道は見えないのである。

[無量寿仏観経の意なり]
至心発願の願 {邪定聚の機 双樹林下往生}
[阿弥陀経の意なり]
至心回向の願 {不定聚の機 難思往生}、
http://wikidharma.org/4b8e79842b38d

と、標挙されて、19願(観経)、20願(阿弥陀経)は『大無量寿経』の教えではないとされている。
至心信楽の願  18願
至心発願の願  19願
至心回向の願  20願
と、三願の<信>を出されて、獲る結果を先に出されているのは、信は似ているようだが結果において違うのですよと、最初に往生すべき果である化身土を出されているのである。

これは、稗の話のように、因である信はよく似ているように見えるが、結果(稗の穂)を見れば違いが歴然とするのですよという、御開山の思し召しである。
化土という結果を先に出されて、この道は行くのではありませんよと仰るのが、「化身土文類」存置の理由なのだが、この仮の本願を利用して人集め金集めをする人間が現れるとは、親鸞聖人の想定外の事であろう。

仮とは、疑いによって如来の真意を領解出来ない人を、真実へ誘引するという意味も、もちろんあるのだが、所詮は偽物であるという事だ。この偽物の稲に似た稗を簡非(えらび捨てる)するのが、結果を先に示す化の浄土である「化身土文類」の説相である。