深川和上は毎月、朝日歌壇で採取した短歌に託したご法語を送って下さる。
今月は、
みどり児(ご)を 光背のごと 背に負いて
寒のひと日 ほのぼの 温し
に、材を採った法語であった。
この法語で思い出した和上の法話がある。
我々は48願を聞いたのはどこであったか。
それは、法蔵菩薩の背中におんぶされ、師仏である世自在王のみもとで、
この子をを仏にします、この子を必ず仏にしますと、せつせつと訴えられて建立されたのが48願であるとの仰せであった。
よくお寺で門徒が称える「讃仏偈」には、
仮令身止 諸苦毒中
我行精進 忍終不悔
(たとひ身をもろもろの苦毒のうちに止くとも、わが行、精進にして、忍びてつひに悔いじ)
現代語:
たとえどんな苦難にこの身を沈めても、さとりを求めて耐え忍び、修行に励んで決して悔いることはない。
と、ある。
『無量寿経』に説かれる因位の阿弥陀如来は、初めっから林遊へ回向するために48願を建立されたのである。
生きる意味も目的も絶対の幸福も知らない林遊のために、お前の死の「帰」する処は浄土である、お前の「依」って立つところも浄土であると、生と死の帰依すべき真実というものを告げて下さる。
私の誓願に間違いがないと私が安心しているのだから、お前は不安なままでいいではないか。お前の不安なままが、私が建立した浄土へ迎え取るという誓願なのだと、『無量寿経』の教説は告げて下さる。
生きることに意味があるように、死ぬ事にも意味があるとの教説である。
林遊がしっかりしているから阿弥陀如来がしっかりするのではない。阿弥陀如来がしっかりしているから、不安におののき、貪欲・瞋恚・愚痴の三毒煩悩の中で、なんまんだぶと阿弥陀如来のみ名を呼び、これさえあったらなあと不安の中で安心出来る世界があるのである。
私を背負うて本願となす。如来さまの仕事だ。
なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ…
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