疑ひながらも、念仏すれば、往生す

林遊@なんまんだぶつ Post in つれづれ
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徒然(つれづれ)とは、退屈で手持ちぶさたということである。することがなくて暇なので、徒然なる思いを草したものに『徒然草』がある。この『徒然草』の中に、法然聖人のご法語が載せられている。

1.或人、法然上人に、「念仏の時、睡にをかされて、行を怠り侍る事、いかゞして、この障りを止め侍らん」と申しければ、「目の醒めたらんほど、念仏し給へ」と答へられたりける、いと尊かりけり。

2.また、「往生は、一定と思へば一定、不定と思へば不定なり」と言はれけり。これも尊し。

3.また、「疑ひながらも、念仏すれば、往生す」とも言はれけり。これもまた尊し。〈39段)

意訳:
1.なんまんだぶを称えている時に眠たくなることがあるのですが、これはどうしたらよいのでしょうか、という問いに、法然聖人は、寝てしまったら目が醒めた時に、なんまんだぶをしたらよいであろうと答えられた。尊いことである。

2.また、なんまんだぶを称える者にとって、往生ということは、もう決まっている事であるから決定しているのであり、これを確かでないと思うなら往生は不定であると言われた。これもまた勿体ないことである。

3.また、疑いながらも、念仏すれば、往生するのだ、とも言われたのであるが、どれも尊く有難いことである。

ありがたいご法語である。
しかし、信心正因という言葉をドグマ的に理解している者にとっては、3のご法語は疑心往生説のように受けとられるのであろう。
何故ならば、なんまんだぶを称えていないからであり、仏智の不可思議の世界からの救済の言葉がなんまんだぶであるという事に、未だかって思いを致したことがないからである。

まさに善導大師が、「往生別時意」を破す論法で使われたように、

ただその願のみあるは、願すなはち虚しくしてまた至るところなし。 かならずすべからく願行あひ扶けて所為みな剋すべしと。(*)

である。
ただ、往生したいという願いのみであれば、虚しい観念の遊戯であって浄土に至ること無いのである。もちろん行のみでは「ただその行のみあるは、行すなはち孤にしてまた至るところなし。」(*)であるのはいうまでもない。
「行なき信は観念の遊戯であり、信なき行は不安の叫び」である、といわれるごとくである。

さて、「疑ひながらも、念仏すれば、往生す」のご法語であるが、ここでの疑いとは、先の「疑情」で述べた猶予不定(*)をいうのではない。
この人は、既に、「南無阿弥陀仏 往生之業 念仏為本」(「南無阿弥陀仏、浄土往生の正しい行は、この念仏にほかならない」)の、なんまんだぶを称えている行者である。
「本願名号正定業」(本願の名号は、正しく往生の決定する行業である。)であるという、阿弥陀如来の選択摂取された教法を実践しているのである。
本願成就文に、「聞其名号 信心歓喜」とあるごとく、なんまんだぶという名号は、林遊をして仏の名を称名させ、救いの名を聞かしめて、願うべき悟りの世界を知らせる、本願力のはたらきであった。
本願力とは論註の「荘厳不虚作住持功徳成就」にあるごとく

「願以成力 力以就願 願不徒然 力不虚設 力願相苻 畢竟不差 故曰成就」(願もつて力を成ず、力もつて願に就く。願徒然ならず、力虚設ならず。力・願あひ符ひて畢竟じて差はざるがゆゑに成就といふ )(*)

である。
ほとんど意味が判らないのだが、莫迦な林遊にも本願力が成就し、はたらいているという事は肯がうことが出来る。
先人の句に、

引く足も、称うる口も、拝む手も、弥陀願力の不思議なりけり

と、あるが、暇つぶしに下手な説教を聞こうと聴聞の場へ足を運ぶ思いも、なんまんだぶと称える口業も、阿弥陀様を礼拝する拝む手も、阿弥陀如来の本願力が林遊の上ではたらき顕現するすがた(相)であった。ありがたいこっちゃな。

私の口から、なんまんだぶと称えられていることの驚きが信心ですと言われた先人がいるが、「疑ひながらも、念仏すれば、往生す」という法然聖人のご法語は、自らの疑いという枠を越えた世界から、届けられ行じられる行業であるから、どれだけ疑っても、念仏すれば、自然に往生の業因は決定するのであった。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ

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