無慚無愧

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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慙愧ということについては「信巻」末で引文されておられる『涅槃経』の父殺しの阿闍世の段に詳しい。御開山は「王、罪をなすといへども、心に重悔を生じて慚愧を懐けり」と、阿闍世は慚愧によって仏陀の救済を受けたと示される。しかるに、ご自身は以下の和讃のごとく無慚無愧であると言われるのであった。

(97)
無慚無愧のこの身にて
まことのこころはなけれども
弥陀の回向の御名なれば
功徳は十方にみちたまふ

「後悔と懺悔」という名でブログを記したが、
http://wikidharma.org/500030aac9f3b
どうやら御開山のおっしゃる悪という概念は、林遊が思うような悪とは次元を異にしているようである。「悲歎述懐」では「身」ということを強調されておられるが、この身を持つゆえの悲歎であったのであろう。「信巻」で難治の三機を説く前に、

まことに知んぬ、悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥づべし傷むべしと。

と、述懐されているごとくである。
ともすれば、反省とか後悔という人間の思考の範疇で語られる悪であるが、「無慚無愧のこの身にて」という述懐は、真実なる光に出遇った者に開示される世界であろうと思ふ。
以下、星野元豊氏の著述に少しく耳を傾けてみよう。

古来、「悪人正機説」として、『歎異妙』の「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」という有名な言葉に代表されて、親鸞のすぐれた特色とされているものである。たしかにそれは本願の呼び声に接して不信の自已を徹底的に見つめた者の呟かずにはおれなかった述懐であろう。親鸞の罪悪深重、虚仮不実の告白もここから生まれたものである。謗法こそ罪悪の極である。親鸞の罪悪への徹見は多くの人の胸をうち、共感をよび、その罪悪観は彼の特色として高く評価されてきている。たしかに罪悪深重煩悩熾盛の痛烈なる体験は他に比をみない。
ところが親鸞のこの罪悪観に共鳴する人たちが、道徳的罪悪の深化したものとして理解しがちであるように思う。より正確にいうと、人間的反省に反省を加えた極、獲られた罪悪観ととりがちであった。例えば「わが身は罪深き悪人なりと思いつめて」というごとき表現によって示されるような罪悪の自覚と同一視されがちであった。しかし親鸞の罪悪はただ如来の本願力に遇うた時にのみ、はじめて知らされる罪悪深重である。仏の光に照らし出されて見せしめられる悪業煩悩である。
人間的な罪悪の自覚とは全く質的に異なり、次元を異にしたものなのである。人間的罪悪と親鸞のいう罪悪とは絶対に混同することの許されないものである。もしそれが一厘でも混同されるとき、親鸞の罪悪観はたちまち甘いセンチメンタリズムに堕するか、すべてを深刻ぶって表現する道学者の罪悪観に顛落するであろうからである。わたくしは今までいく度かその例を見ているがゆえに、人間的罪悪観と親鸞の罪悪観との区別を厳しく誠めたいと思う。
といってわたくしは血肉なき概念的な罪悪論を正しいとするものではない、罪悪深重煩悩熾盛は体験の事態である、従って体験の事態として理解さるべきものであるが、上に述べたごとく、あくまで摂取の光明の中にあっての自覚であることが忘れられてはならない。わたくしはこのようなことから、あえてこの説明をする以前には罪悪という言葉を使うことを避けた。かくして親鸞にとっては、本願の呼びかけに応じようとしない不信の私こそ罪悪深重というに値するものなのである。「原典日本仏教の思想」より

数十年前に、友人の坊さんから、親鸞聖人の「悲歎述懐」は暗いですね、あれほど自己を見つめる視点を持つのは、人間にとって不可能じゃないかな、ということを聞いた。
即座に、本物に出遇ったから、真実の光に照らされている自己を讃嘆しておられる和讃でしょ、と答えたものだ。本願の光に照らされているからこそ、その智慧の光によって照らされている自らの罪業を知ることが出来なさったのであろうと、管を用いて仏教の玄妙な天を窺う己を知らされるのではあった。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ