「ノート:無量光明土」に追記
仏教で光とは智慧の意であり、親鸞聖人は阿弥陀如来の浄土を無量光明土であるとされた。
また煩悩を具足せるわれら、無碍光仏の御ちかひをふたごころなく信ずるゆゑに、無量光明土にいたるなり。光明土にいたれば自然に無量の徳を得しめ、広大のひかりを具足す。広大の光を得るゆゑに、さまざまのさとりをひらくなり。『弥陀如来名号徳』(*)
まことに知んぬ、徳号の慈父ましまさずは能生の因闕けなん。光明の悲母ましまさずは所生の縁乖きなん。能所の因縁和合すべしといへども、信心の業識にあらずは光明土に到ることなし。『教行証文類』「両重因縁釈」(*)
必至無量光明土 諸有衆生皆普化(かならず無量光明土に至れば、諸有の衆生みなあまねく化すといへり。)「正信念仏偈」(*)
無量光明土は、『無量寿経』の異訳である『平等覚経』の以下の文。
速疾超便可到 安楽国之世界。
至無量光明土 供養於無数仏。(*)すみやかに疾(と)く超えて、すなはち安楽国の世界に到るべし。
無量光明土に至りて、無数の仏を供養せん。
からのものである。 『平等覚経』の当面では、無量光明土とは、無量の諸仏のまします光明土の意であるが、御開山はこれを転じて、阿弥陀如来の浄土こそが根源的な無量の光明の土であるとされた。光で象徴される智慧の顕現している世界こそが真に無量光明土だといわれるのである。
『尊号真像銘文』で「帰命尽十方無碍光如来」を釋され、
「無碍」といふはさはることなしとなり、さはることなしと申すは、衆生の煩悩悪業にさへられざるなり。
「光如来」と申すは阿弥陀仏なり、この如来はすなはち不可思議光仏と申す。(*)
と、「無碍」と「光如来」に分節され、阿弥陀如来を「光如来」とされておられるのも同じ意である。阿弥陀仏とは智慧の光の如来であるとされるのである。また、浄土とは、この阿弥陀如来の悟りの智慧によって荘厳される世界であり、土もまた智慧の世界であるということが「無量光明土」の意味であった。この阿弥陀如来の智慧の領域が「誓願一仏乗」といわれ、あらゆる仏陀を仏陀たらしめる淵源であり、そして、あらゆる衆生を救済する本願力の根源であった。「一乗海釈」下で華厳経を引かれ、
『華厳経』にのたまはく、「文殊の法はつねにしかなり。法王はただ一法なり。一切の無碍人、一道より生死を出でたまへり。一切諸仏の身、ただこれ一法身なり。一心一智慧なり。力・無畏もまたしかなり」と。(*)
とあるように、浄土真宗とはあらゆる仏陀が出現される無碍の一道であった。
第十七願に、
「設我得仏 十方世界 無量諸仏 不悉咨嗟 称我名者 不取正覚」(わたしが仏になるとき、すべての世界の数限りない仏がたが、みなわたしの名をほめたたえないようなら、わたしは決してさとりを開きません。)
とあるように、十方世界の無量の諸仏が、林遊に、なんまんだぶを聞かしめ称えさせるというのが、念仏は無碍の一道というご法義であった。
仏の智慧が「如より来生して」大悲として「名声聞十方」と、称えられ聞こえるのが、なんまんだぶという救済の言葉であったのである。それを受け入れたことを信というのであった。
(35)
智慧の念仏うることは
法蔵願力のなせるなり
信心の智慧なかりせば
いかでか涅槃をさとらまし(*)
と、讃詠される所以である。
なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ