異なった文化が伝播された時、それを受容する文明の側では既存の文化の中から共通するものと共振させる行為が生まれるのであろう。
インドで生まれた仏教が、異質なシナ文化と触れ合った時、自らの文明の中に共鳴する文化を掘り下げて理解しようと努力するのであろう。
文化と文明という言葉の区分については、以下を参照されたし。
「文化」
我々日本人はシナ文明を漢字によって受容したのだが、ここでも文明の衝突があったのである。漢字で表現されている言葉を、自らの言葉に翻訳することによって受容するとともに、より自らの文化を深化させることができたのであろう。
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子の母をおもふがごとくにて
衆生仏を憶すれば
現前当来とほからず
如来を拝見うたがはず
この和讃は、漢語によって表現されている意味内容を、和語によって再表現する試みである。「おもふ」という日本語と「憶す」と言葉は意味が違うのだが、「ごとく」と、されている御開山の発想がとてもありがたい。
さて、このご和讃の元となる『大仏頂如来密因修証了義諸菩薩万行首楞厳経』(略して『首楞厳経』)をネットで調べていたら以下の動画に遭遇した。
浄土教は阿弥陀如来の智慧が、慈悲へと転換する教義であり慈悲を感ずることは、その慈悲を生み出した仏教の智慧に感動することでもある。
慈しみ悲しむということは、動画中にもあるように、我々浄土真宗の門徒にはなじみの深い『正信念仏偈』(元は『無量寿経』)の、生と死の闇に呻吟している者への十二光仏の光の救済であった。
家の尋常小学校卒の爺さんは、真宗坊主の法話を聞いて、そのご法話の元になった言葉は何処にあるのですか? と、問い坊さんを困らせていた(笑
と、いうわけで、御開山のご和讃の出拠をWikiArcのノートに記した。
http://wikidharma.org/
ちなみに偽経を生み出す背景には、異質な文化を受容しようという先人の智慧があるのだが、大乗非仏説などを論じる輩には仏教の生み出した文化に対する視点が決定的に欠けているのだと思ふ。
なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ これが大乗の至極だな
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