往生拾因

林遊@なんまんだぶつ Post in つれづれ
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『往生拾因』(*)。法然聖人に先行して専修称名を提唱された永観(1033-1111)の著書。
御開山は『信巻』末の「五逆追釈」(*)で永観師の『往生拾因』を引文されておられる。
なんまんだぶを称念することによって必ず浄土へ往生する因を十種の理由をあげているから往生十因というのだが、その中で面白い文章があったので読み下してみた。

第七、一心に阿弥陀仏を称念したまえば、三業相応の故に必ず往生を得る。
『法華玄』云。口業の称名は必ず三業を具す。声を発すは口業、舌を動かすは身業、意に経るるは意業なり。身業の礼拝には身意の二業を具す。意業の存念には唯だ意業のみなり。已上
近代の行者、仏名を念ずる時に、舌口を動かすといえども、声を発せず。あるいは念珠を執りて、ただ数遍を計(かぞ)ふ。ゆえに心、余縁して専念することあたわず。散乱はなはだだ多し。あに成就することを得んや。声を発してたえず仏号を称念すれば、三業相応して専念 自から発る。ゆえに『観経』に説かく。心を至して称名して声をして絶へざらしめよ。(*)

かって、知性と孝養が邪魔をして云々というギャグがあったが、なんまんだぶを称えるという行為は知性や孝養にあふれた現代人には理解しがたい行為になってしまったのであろう。
特に観念論的な大谷派では、ほとんど、なんまんだぶを称える坊主を見かけないのだが、これも近代教学とやらの弊害であろう。
昔はどこの小川にメダカがいたものだが、いつしか見られなくなった。絶滅が危惧されるレッドリストにまで載せられるようになってしまった。
同じように、どこもでもみられた、なんまんだぶを称え喜ぶ人は、ほとんど見られなくなった。信心正因という言葉の意味は、阿弥陀如来が選択摂取した、なんまんだぶを往生の業因として受け入れるか受け入れないかということである。
法然聖人は、それを選択本願念仏と顕し、御開山は本願力回向の行信とされたのである。浄土真宗における信とは、口に称えられ聞こえる、なんまんだぶの上で論ずるのであるが、往くべき浄土を持たない者にとっては、知性と孝養が邪魔をする行為であるのだろう。まさに智愚の毒に侵されているのである。
そもそも、浄土真宗とは仏陀の覚りを目指す宗であり教えである。そして覚りの世界から届けられる名号となった呼び声を、なんまんだぶと聞信するご法義であり、それを先人は聞即信(聞くことは信ずることである)と言い慣わしてきたのであった。
困難ではあるけれど、世俗を捨て、妻子や家族を捨て、あらゆる愛憎煩悩を捨てて修業して智慧をみがき仏陀の覚りを目指す道もたしかにあるであろう。
しかし、仏の教えの前に、一人の愚か者として、あの覚りの世界からの、なんまんだぶという声に自らの生と死をゆだねて浄土へ往生する道もあるのである。
智慧の法然房と呼ばれ勢至菩薩の生まれ変わりと称せられた法然聖人は、

聖道門の修行は、智慧をきわめて生死をはなれ、浄土門の修行は、愚痴にかへりて極楽にむまる。(*)

と、お示しであった。
御開山の肖像画(*)を拝見すると、手に珠数を持ち珠数をつまぐってあられるのだが、浄土真宗のご法義は、なんまんだぶを称えた者を救うというご法義であって、なんまんだぶを称えない者を救うというご法義ではないのである。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ

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