『大般涅槃經経』をUP(*)したので、御開山の引文部分をザックリとマーキングしてみた。本文は序品と純陀品しか読んでない(笑
あらためで思うのだが、御開山って引文で創作なさってるんだよな。
『教行証文類』では、『涅槃経』と『華厳経』を連引されておられるのだが、これはご自分が居られた天台宗の智顗師の五時教判(釈尊の説かれた教えを五つの時間に分類したもの)が念頭にあったからであろう。
いわゆる釈尊が最初に説かれたのは仏の自内証(さとりの内容)を吐露されたのが『華厳経』であり、最後に説かれたのが『涅槃経』であるという天台の五時教判によって、全仏教を包摂する教えが本願力回向のご法義だと言いたいのだと思ふ。
アルファである『華厳経』とオメガである『涅槃経』を連引され、仏陀の覚りと、涅槃という煩悩の寂滅した浄土を表現する書物が、御開山の『教行証文類』という書物であろう。
仏陀の覚りの智慧と、その智慧が智慧の必然として、慈悲として動きはたらく根源を『無量寿経』の法蔵菩薩の菩提心である本願の世界であるとされ、その始・終を、『華厳経』と『涅槃経』によって表現しようという書物が『教行証文類』である。
もちろん、『教行証文類』という書は、他者を教育する、教科書のような意味の書物ではなく、御開山が見ておられた世界を、仏祖の前で開陳されている書物である。古来から信心無くして『教行証文類』を拝読しても、理解不能であるから疑謗を生ずると言われている。
そもそも、読めば解るという発想そのものが、本願の世界から流出(るしゅつ)する言葉の意味を理解できない立場ではある。あまつさえ、御開山の著書の一部分を断章し、ピックアップしてご法義を語る輩がいるのだが困ったものではある。(真宗の坊さんにも多いのだが、特に罪悪感によって人を悲嘆のどん底に落しいれ、なんまんだぶを称える門徒を愚弄する北陸の一狂惑者に搾取される会の会員は悲惨である)
なんまんだぶという言葉は、仏陀(複数形)の覚りの世界から、煩憂悩乱している林遊に慈悲の至極として届いている言葉となった救いなのであるが、言葉を道具としての把握しか出来ない人には理解不能であろう。
例によって意味不明な言葉の羅列だが、林遊当人にとっては意味があるからどうでもいいか(笑
なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ……