同行の慈海さんに誘われて、円稜(えんりょう=丸岡という地名来由)組の研修会で聴聞してきた。聴聞した寺院は丸岡町近接の金津町の寺院である。
円稜=丸岡(まるおか)とは、日本最古(1948-6-28の福井大地震で倒壊したのを元の材料を使用し復元したので?ともされるが)といわれる天守閣がある丸岡城がある人口三万ほどの町の名から、その一帯の寺院の集合体を円稜組と呼ぶようになったという。
丸岡は、日本一短い手紙と呼ばれる、本多重次の「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」に材をとり、「一筆啓上」の発信地として知られる。この日本一短い手紙を縁として、短文をしたためた言葉を募集し発表する、一筆啓上のイベントをやっている町でもある。この手紙の本文にある「お仙」というのが、本多重次の嫡男である丸岡城主であった本多成重であるからである。
なお「一筆啓上」のイベントは、全国の自治体主催の公募イベントの嚆矢であるとのことである。
この丸岡城については、二十数年前に記した「聴聞雑記」から、阿弥陀さまにダイレクトする、なんまんだぶの意味を転載したことがある。(*)
「なんまんだぶつの城の天守閣に登って阿弥陀様のお慈悲を眺め、なんまんだぶつのいわれを聞けばそれで十分ではないか。何の不足があるのか」という趣旨である。爾来林遊は、ひまつぶしでお聖教を拝読し、城の石垣の組み方を讃嘆していたりするのであった、口悪いけど(笑
というわけで、研修会の御講師は徳永一道勧学和上であった。林遊はあまり寺の組織や坊さんに関心がないので存じ上げなかったのだが、徳永和上は勧学寮(浄土真宗の教学的問題に対して答える役割を持っている機関)の勧学寮頭だそうである。
林遊は、人を救うのは「名となった言葉である」という林遊を育ててくれた越前門徒のシンプルな立場なのだが、それと違った意味で、禅門の鈴木大拙師のいわれる、
「正統派の学者達は出来上がった御膳立を味わうことに気をとられて、そのものがどうしてそう組み上げられねばならなかったということを問はないようである。つまり自己の宗教体験そのものを深く省みることをしないという傾向がありはしないだろうか。お経の上で弥陀があり、本願があり、浄土があるので、それをその通りに信受して、自らは何故それを信受しなければならぬか、弥陀は何故に歴史性を超越しているのか、本願はどうして成立しなければならぬか、その成就というのはどんな意味になるのか、浄土は何故にこの地上のものでなくて、しかもこの地上と離るべからざるくみあわせにたっているのかというような宗教体験の事実そのものについては、宗学者達は余り思いを煩わさぬのではないか。」(浄土系思想論p.332)
という「行信」という硬直した宗義理解に対する批判がある。そのような意味では硬直したと思われる行信論についての徳永一道和上の問題提起には首肯することがあった。観経の「以観仏身故 亦見仏心。仏心者大慈悲是(仏身を観ずるをもつてのゆゑにまた仏心を見る。仏心とは大慈悲これなり)」の慈悲からの視点である。
もっとも『教行証文類』を紐解くこともなく、怠惰にして一片の慚愧なく、坊主という生き方を単純に肯定する「でもしか坊主」の窺いしれないところの話ではあろう、知らんけど。
ともあれ、お聞かせ頂いた法話の趣旨を味わいNETで検索したところ、同意の法話を見つけ読み、「西意、二座の説法聴聞仕うまつりおはりぬ、言語のおよぶところにあらず」と[云々]『口伝鈔』p.879
という言葉を思い出した。この話は、どうも徳永和上の鉄板ネタみたいであるが、ありがたいことであるのでリンクしておく。
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
http://issei-no-kai.blog.eonet.jp/default/2015/03/post-bac0.html
リンク切れなのでバックアップへリンク。
→ものみな金色(こんじき)に輝く。