真諦と俗諦のこと。
浄土真宗では、『浄土真宗辞典』(本願寺派総合研究所編)によれば、
- 真諦は、「第一義諦」の項に、梵語パラマールタ・サトヤ(paramārtha-satya)の意訳。世俗諦に対する語。勝義諦・真諦ともいう。真如法性、真如実相などに同じ。言説を絶した仏自内証の正覚の内容であり、出世間の真理をいう。
- 俗諦は、「世俗諦」の項に、梵語のサンヴリティー・サティヤ(samvrti-satya)の意訳。第一義諦に対する語。俗諦、世諦ともいう。仏の正覚の内容について仮に説きあらわされたものをいう。
とする。後に述べる、仏法を真諦とし王法を俗諦としてきた論理は使われていないようである。
この二諦は、諸経論で種々に論じられるが、代表的な大乗仏教の立場を『仏教学辞典』から部分引用。
- ③大乗仏教では、北本『涅槃経』巻十三 聖行品に、世間一般の人が知っている事柄を世諦とし、仏教の真理に目ざめた出世間の人のみが知っている事柄(例えば四諦)を第一義諦とする。
- 『中論』「観四諦品」には、すべてのものには固定不変な本性(実体、自性)がなく、無生無滅で空であると知るのを第一義諦とし、またすべてのものは、その空性(空なること)が空性としてのはたらき(空のあり得るいわれ、空の目的)をもつために、仮に現実的な物の相において顕れ、相依相待的に存立すると認めるのを世俗諦とする。
- そして、われわれの言語や思想の世界は世俗諦において許されているのであり、しかもこの世俗諦によらなければ言語思慮を超えた第一義を衆生に説くことができず、第一義が得られなければ涅槃のさとりを得ることができないとする。以上『仏教学辞典』より。
御開山が「化巻」で引文された『末法灯明記』(*)には、
- 「それ一如に範衛してもつて化を流すものは法王、四海に光宅してもつて風を垂るるものは仁王なり。しかればすなはち仁王・法王、たがひに顕れて物を開し、真諦・俗諦たがひによりて教を弘む。このゆゑに玄籍宇内に盈ち、嘉猷天下に溢てり」
とあり、真諦・俗諦の二諦の意味を転用し、仏法を真諦、王法を俗諦とする。浄土真宗ではこの説を享けて、宗教的信仰の面を真諦、世間的道徳の面を俗諦とし、この二は相依り相資けあうとしてきた歴史がある。
もちろん、御開山の『末法灯明記』引文(*)の意図は、このような真俗二諦を示すにあるのではない。現在は、末法の時代であることを否定する天台の衆徒の『延暦寺奏状』(*)の論難に対して、日本天台宗の開祖の最澄の著とされた『末法灯明記』の末法の年代の記述をもって対抗されたのである。あなた達の天台の宗祖が現代は末法であると示しているではないか、と『末法灯明記』を引文し浄土門興起の末法の証明としたのである。
また、時の権力(王法)によって、僧の破戒をもって僧尼を弾圧したことに対しての抗議を示す意図もあった。それは、仏教の通規である、戒・定・慧の三学を護り得ずに苦闘苦悩した法然聖人の帰浄(*)を追体験した御開山のプロテストでもあったのである。
それはそれとして、現代の真宗の進歩派僧侶は、仏法を真諦とし時の権力を俗諦とする、いわゆる過去の真俗二諦説を攻撃するのであるが、時間という歴史のカンニングペーパーを使って先人を攻撃するのは如何かと思ふ。真俗二諦説は、在家仏教である浄土真宗に戒がない故に、俗諦はその時代時代の倫理習慣に順応しながら、「当流安心をば内心にふかくたくはへて」(*)生きるしたたかな作戦でもあった。上に政策あれば下に対策ありである。
ともあれ、戒律を用いない浄土真宗においては、至心釈で御開山が引文された因位の阿弥陀仏の「勝行段」(*)に、真実なる生き方とはどのようなものであるかを窺うことであるといえるであろう。
越前の古参の同行は、戒律がなきゆえに、ことあるときは阿弥陀仏と相談し「親様の好きなことはするように、親様の嫌いなことはせぬように」と、自らを戒めていたものであった。
→「真俗二諦」
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