念仏別時意

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善導大師の有名な六字釈

「南無」といふはすなはちこれ帰命なり、またこれ発願回向の義なり。 「阿弥陀仏」といふはすなはちこれその行なり。 この義をもつてのゆゑにかならず往生を得。

を、善導大師がしなければならなかった『攝大乗論』と『攝大乗論釈 』の該当部分をUPしたページを更新してみた。

これで思ひ出すのが、高森親鸞会の高森顕徹氏の「現代の教行信証」とされる「会報」の文である。かって脱会した幹部から入手した文書を斜め読みしてたところ、

別時意趣とは、無著菩薩の書かれた『攝大論』の中に、佛の説法に四趣といって、四通りの説き方があるとして、その一つに別時意趣というのがある。

という文に行き当たって、頭を抱えた(笑
この一段は、高森親鸞会の講師もブログで引文していたので、ネットで突っ込みを入れたら何故かブログごと削除されてしまった。
たぶん高森顕徹氏が、意味も判らずに他の書物から書き写したとき、乗と朱、意と悪を写し間違えたのだろう。 まともな真宗の者なら、六字釈の論破の対象となった『攝大乗論』や「四意趣」という言葉を間違う筈はないのである。
それにしても、数十年の間、誰もチェックしなかったというのは、高森親鸞会の仲間うちで蓮如上人以来の善知識であるという高森顕徹氏の権威に、誰も反論できない空気があったのであろう。これこそ善知識頼みの弊害である。裸の王様に、あなたは裸ですと言えないのであろう。

真宗の布教使も、時々意味不明な言葉を引用するのだが、林遊のような門徒としてはその文言の出拠を言え、と突っ込みたくなるのを我慢していたりするのであった。
坊主を育てるのは門徒の仕事ともいわれるのだが、門徒の声に耳をかさない坊主は困ったものではある。

なんまんだぶ なんまんまんだぶ なんまんだぶ
『摂大乗論』、『摂大乗論釈 』の別時意釈

何を信ずるのか

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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時々、我、何をなすべきかと、我、何を信ずべきかをごっちゃにして浄土真宗の御法義を語る方がいる。
何を信ずるかという時と、何をなすべきかという時では論理の立て方の意味が違う。しかしこれを一緒にして考えるから訳がわからなくなるのだろう。こんなものを一緒にする方がおかしいのである。
何を信ずるのかは、本願の《言葉》を信ずるのである。具体的には第十八願の、

たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。

現代語:
わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます。 (*)

の「本願の言葉」を信ずるのである。

何をなすべきかと信ずるのは、「行に就きて信を立つ(就行立信)である。阿弥陀仏が、私の名である〔なんまんだぶ〕を称えながら生きていきなさいというのである。〔なんまんだぶ〕が本願に選択された往生浄土の行であると信ずるのである。
そのような意味では、浄土真宗は「本願を信じ念仏を申す」という非常に判りやすい、信と行のご法義なのである。我、何を信ずべきかは、本願の言葉を信ずるのである。我、何を行じて生きていくかは〔なんまんだぶ〕の行を称えて生きていくことである。
これを、ごっちゃにするから、御開山は「行に迷ひ信に惑ひ」p.131 と仰ったのであった。

時々、阿弥陀様が判りません、信じられませんという同行がいる。これは信ずる対象が間違っているのである。阿弥陀仏を人格的にとらえて、その人(仏)の存在が肯えたら信じましょうというのである。
そもそも、さとりの「さ」の字も知らない凡夫が、真如法性を体としている阿弥陀如来が、判る筈がないではないか。

御開山は、『唯信鈔文意』で、

法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり。p.709

と、示して下さっているのだが、色も形も無く、心も言葉も及ばない言亡慮絶した法性法身の阿弥陀仏が判るはずがない。判ろうとするのが、そもそも間違いなのである。
とはいえ、全く手掛かりがないのではない。それは、真如法性の世界から、我が名を称えよ、と届いている阿弥陀様の呼び声であった。これが可聞可称の〔なんまんだぶ〕であり、これが浄土真宗の救いの法なのである。

御開山は「行巻」で、元照律師の『弥陀経義』から、

いはんやわが弥陀は名をもつて物を接したまふ。ここをもつて、耳に聞き口に誦するに、無辺の聖徳、識心に攬入す。永く仏種となりて頓に億劫の重罪を除き、無上菩提を獲証す。まことに知んぬ、少善根にあらず、これ多功徳なり。  (*)

を引文されておられるが、阿弥陀如来は、名をもって我を救いたもうのである。なんまんだぶ なんまんだぶと、阿弥陀如来の呼び声を称えて聞いていることが、もうすでに私は阿弥陀如来の救済の目的の中にいるのであった。
阿弥陀如来の衆生済度の目的を、外から眺めているときは如来と私の対応関係が気になるのだが、なんまんだぶ、なんまんだぶと称えて私が阿弥陀如来の目的の中にいることを信知したとき、私は、摂取不捨の救いの中にいるのであった。
なんまんだぶつが出来たから、我が案ずることはないのであった。ありがたいこっちゃな。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

観心為清浄円明事

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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資料サイトに解脱上人貞慶の「観心為清浄円明事」をUPした。その前書き。

 

解脱上人貞慶は、法相宗の学僧で最初の念仏弾圧事件を引き起こした『興福寺奏状』の起草者といわれる。貞慶は、学徳兼備の名僧として人々から尊敬され戒律の再興に力をそそいでいた。そのような貞慶にとっては、法然聖人の破戒・持戒、有智・無智、善・悪を問わず念仏を専修して浄土へ往生するという教えはとうてい理解できなかったのであろう。
貞慶は、この「観心為清浄円明事」で「出離の道は取(う)ける身の惘然として其の法を聞かざるに非ず、ただ其の心〔清浄円明な菩提心〕の発(おこ)らざるなり。是れ則ち機の教と乖(そむ)き、望みと分と之に違(たが)ふの故か。心広大の門に入らんと欲すれば、我が性堪えず、微少の業を修せむと欲すれば、自心頼み難し、賢老に遇ふ毎に問ふと雖も答へず」と、いっている。
真摯に仏道を修行している貞慶は、菩提心の発らぬことを歎き、機と教が合わないのではないかと「賢老に遇ふ毎に問ふと雖も答へず」と述べている。賢い先輩にあう毎に問うのだが誰も答えてくれる人はいなかった、といっていることから貞慶の信仰は生涯動揺し続けていたのであろう。
梯和上によれば、この問に答えてくれる人は、たった一人、法然聖人だけだったのである。法然聖人もまた同じような求道上の機と法の乖離の悩みを持っていたからである。貞慶はその問に答えるべき法然聖人を敵にまわしてしまったのであった。→「法然聖人の回心」を参照
この、死の半月前に口述された「観心為清浄円明事」では、「予は深く西方を信ずる」としているから、いつしか「但だ予の如き愚人は観念に堪えず」と述懐していた貞慶も浄土教に帰順したのであろう。
しかし、それは選択本願の本願に選択された〔なんまんだぶ〕を称える法然浄土教ではなく、また「学者性相の疑に同ぜず。世人一向の信に同ぜず」という自己の属する法相宗学にも無い貞慶独自の考える浄土教であった。 そして、「真実の正因正業は〔聖衆の来迎の〕瑞相を見て後に希有の心〔正念〕を発す。或は略法を開き、或は被(こう)むる所に依って、暫時と雖も大乗の心〔清浄円明な心〕に住すべし。然る後に正しく浄土に生ずべきなり。其の瑞相不思議と併(なら)びて是れ仏宝法宝不思議なり。」
と、聖衆の来迎によって正念を発し、そこで大乗の心〔清浄円明な菩提心〕に住して往生すると領解していたようである。その意味では、貞慶は生きているうちに〔清浄円明な菩提心〕を決定(けつじょう)できず、結局は臨終の聖衆の来迎に一縷の望みを懸けていたのであった。
法然聖人の示された、生前に信と疑を決判し、現に救いの法が〔なんまんだぶ〕と称えられ聞こえている選択本願念仏の信心に到達できなかったのであった。
聖道の菩提心とは、御開山が述懐されたように、
自力聖道の菩提心
こころもことばもおよばれず
常没流転の凡愚は
いかでか発起せしむべき
であったのである。自力の菩提心は、尊いことではあるが、機と教が乖離していては真のさとりへの階梯ではなかったのであった。御開山が「しかるに菩提心について二種あり」(*)として本願力回向の横超の菩提心を別立した所以である。
トーク:観心為清浄円明事に現代語あり。

観心為清浄円明事(心は清浄にして円明たるを観ずる事)

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

いはれ いわれ 謂れ

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wikiarcに「いはれ」の項を追加した。

いはれ いわれ 謂れ

(由来として)いわれていること。物(モノ)と事(コト)の成り立っている筋道、由(よ)って来たるわけ、理由、来歴。なお一般には〔寺のいわれ〕などのように事物の由緒の意で使う場合もある。
浄土真宗では、『教行証文類』信巻p.251の、

しかるに『経』に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。

の文によって、聞くとは、仏の願いを聞いて疑う心の無いことを「聞」という。この疑い無き聞が信である(聞即信)から、本願のいわれを聞くことを特に重視する。「疑心あることなし」とは、私のはからいが、無いありさまをいい、信心を私の側にみないということである。これが「すなはち本願力回向の信心」であった。
「生起」とは、阿弥陀仏があらゆる衆生をさとりの界(さかい)である浄土へ往生させようという本願(仏願)を起こされた根本の意図である。本末の「本」とは、阿弥陀仏が本願を成就された因本の修行の意である。「末」とは阿弥陀仏の本願と修行が既に成就して、私に届いて称えられ聞こえている〔なんまんだぶ〕が、さとりの浄土へ往く衆生済度のはたらきをしていることをいう(果末)。
この「仏願の生起本末」を、本願のいわれといい、浄土真宗では、このいわれを聞くこと、つまり聴聞することを御恩報謝の行業として最重要視する。凡夫には、広大な仏陀のさとりの世界は眼で確認(眼見)することは出来ないが、耳で聞く(聞見)ことによって信知することができるのであった。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

「一心正念」といふは、正念はすなはちこれ称名なり。

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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二河白道の画像検索をしたら自宅にある構図と同じ画像があった。
林遊という法名を欲しさに度牒を貰ったのだが、その時に爺さんの奨めで在所の同行に配った複製画像である。

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二河譬はビジュアルな表現なのでインパクトが強く誤解されやすいのだが、「いまさらに行者のために一つの譬喩を説きて、信心を守護して、もつて外邪異見の難を防がん」とあるように、いわゆる譬えである。p.223
浄土真宗は信心を強調するので、ともすれば信心の対象である〔なんまんだぶ〕が忘れられることが多い。
当ブログの「汝一心正念にして直ちに来れ」でも書いたのだが、ここでの正念とは〔なんまんだぶ〕の意である。

御開山は、『浄土文類聚鈔』では、その意を明確に、

【33】 これによりて師釈を披きたるにいはく、「西の岸の上に人ありて喚ばひてのたまはく、〈なんぢ、一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ〉」(散善義 四六七)と。また〈中間の白道〉といふは、すなはち、貪瞋煩悩のなかによく清浄願往生の心を生ぜしむるに喩ふ。仰いで釈迦の発遣を蒙り、また弥陀の招喚したまふによりて、水火二河を顧みず、かの願力の道に乗ず」(散善義 四六八)と。{略出}

【34】 ここに知んぬ、「能生清浄願心」は、これ凡夫自力の心にあらず、大悲回向の心なるがゆゑに清浄願心とのたまへり。しかれば、「一心正念」といふは、正念はすなはちこれ称名なり。称名はすなはちこれ念仏なり。一心はすなはちこれ深心なり。深心はすなはちこれ堅固深信なり。……以下転釈 (*)

と、正念は〔なんまんだぶ〕であるとされておられる。

なんまんだぶ なんまんだぶ要するに、〔なんまんだぶ〕を称えた者を迎えとるという本願の勅命を一心に受け容れて、〔なんまんだぶ なんまんだぶ〕と称えて来いということである。
これが、御開山の仰る、「この心すなはちこれ念仏往生の願(第十八願)より出でたり」(*) というご信心であった。
信心正因の言葉に幻惑されて、信心の対象である可聞可称の「なんまんだぶ」を等閑にする浄土真宗の僧俗が多いのは困ったものである。

 

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

 

五念門

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wikiarcの五念門の脚注が『浄土論』を読む時に、しっくりこないので、天親菩薩の当面であろう五念門をあれこれ資料を漁って追記してみた。
『浄土論』では、奢摩他、毘婆舎那という、いわゆる止観の行を挙げているので、これに言及すべきだと思ふ。
もちろん、御開山は「「観」は願力をこころにうかべみると申す、またしるといふこころなり」(一念多念証文p.691)とされているのだが、思想の発展という意味では天親菩薩の意も示しておかないと、後で学ぶ者が混乱するのではと思ふ。
特に、田舎の愚昧で学ぶことに縁のない林遊のような輩には必要なことだと思っていたりする。
鈴木大拙師は『浄土系思想論』の中で、

 正統派の学者達は出来上がった御膳立を味わうことに気をとられて、そのものがどうしてそう組み上げられねばならなかったということを問はないようである。つまり自己の宗教体験そのものを深く省みることをしないという傾向がありはしないだろうか。お経の上で弥陀があり、本願があり、浄土があるので、それをその通りに信受して、自らは何故それを信受しなければならぬか、弥陀は何故に歴史性を超越しているのか、本願はどうして成立しなければならぬか、その成就というのはどんな意味になるのか、浄土は何故にこの地上のものでなくて、しかもこの地上と離るべからざるくみあわせにたっているのかというような宗教体験の事実そのものについては、宗学者達は余り思いを煩わさぬのではないか。浄土があり、娑婆があるということにたっている。──これをその通りに受け入れる方に心をとられて、何故自らの心が、これを受け入れねばならぬかについて、反省しないのが、彼等の議論の往往にして議論倒れになって、どうも人の心に深く入りこまぬ所以なのではなかろうか。始めから宗学の中に育ったものは、それでも然るべきであろうが、どうも外部に対しては徹底性を欠きはしないだろうか。p.332-333

と、言われているが、御開山が何故このように領解なさったかという過程を学ぶことで、より深く御開山の示して下さる、なんまんだぶのご法義が領解できるのである。ありがたいこっちゃな。

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→「五念門」

教行証文類のこころ

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久しぶりにUPしてある「教行証文類のこころ」を読んで見た。
梯實圓和上は、浄土真宗の根幹のタームである、往相回向と還相回向について述べておられるのだが、和上の意図を掴むには、少しく判りにくい。
往相と還相は、浄土真宗という教法の宗義でいえば、

つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について真実の教行信証あり。「教文類」p.135

であり、法義でいえば

本願力の回向に二種の相あり。一つには往相、二つには還相なり。「浄土文類聚鈔」p.478

の、二種の回向を基底とする本願の宗義である。
浄土真宗は本願力回向という法義なのであり、この本願力回向ということは、浄土教の七祖の誰も論じられなかった義であり、それは御開山の独自の発揮であった。
ともあれ、少しでも理解を助けるために、自分用に脚注を付し、和上の示される第二十二願の3種類の読み方をノートにUPしてみた。
返って判りにくくなったかもしれないが、まあいいか。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ
→「教行証文類のこころ」二日目二講

真俗二諦

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浄土真宗における社会との関わりについて、批判の対象とされてきた真俗二諦説についてWikiArcに記述した。

→「真俗二諦」

真俗二諦

 しんぞく-にたい

真諦(しんたい)俗諦(ぞくたい)のこと。

浄土真宗では、『浄土真宗辞典』(本願寺派総合研究所編)によれば、

真諦は、「第一義諦」の項に、梵語パラマールタ・サトヤ(paramārtha-satya)の意訳。世俗諦に対する語。勝義諦・真諦ともいう。真如法性、真如実相などに同じ。言説を絶した仏自内証の正覚の内容であり、出世間の真理をいう。
俗諦は、「世俗諦」の項に、梵語のサンヴリティー・サティヤ(samvrti-satya)の意訳。第一義諦に対する語。俗諦、世諦ともいう。仏の正覚の内容について仮に説きあらわされたものをいう。

とする。後に述べる、仏法を真諦とし王法を俗諦としてきた論理は使われていないようである。

この二諦は、諸経論で種々に論じられるが、代表的な大乗仏教の立場を『仏教学辞典』から部分引用。

③大乗仏教では、北本『涅槃経』巻十三 聖行品に、世間一般の人が知っている事柄を世諦とし、仏教の真理に目ざめた出世間の人のみが知っている事柄(例えば四諦)を第一義諦とする。
『中論』「観四諦品」には、すべてのものには固定不変な本性(実体、自性)がなく、無生無滅で空であると知るのを第一義諦とし、またすべてのものは、その空性(空なること)が空性としてのはたらき(空のあり得るいわれ、空の目的)をもつために、仮に現実的な物の相において顕れ、相依(そうえ)相待(そうたい)的に存立すると認めるのを世俗諦とする。
そして、われわれの言語や思想の世界は世俗諦において許されているのであり、しかもこの世俗諦によらなければ言語思慮を超えた第一義を衆生に説くことができず、第一義が得られなければ涅槃のさとりを得ることができないとする。以上『仏教学辞典』より。

御開山が「化巻」で引文された『末法灯明記』(*)には、

「それ一如に範衛してもつて化を流すものは法王、四海に光宅してもつて風を垂るるものは仁王なり。しかればすなはち仁王・法王、たがひに顕れて物を開し、真諦・俗諦たがひによりて教を弘む。このゆゑに玄籍宇内に盈ち、嘉猷天下に溢てり」

とあり、真諦・俗諦の二諦の意味を転用し、仏法を真諦、王法を俗諦とする。浄土真宗ではこの説を享けて、宗教的信仰の面を真諦、世間的道徳の面を俗諦とし、この二は相依り相(たす)けあうとしてきた歴史がある。
もちろん、御開山の『末法灯明記』引文(*)の意図は、このような真俗二諦を示すにあるのではない。現在は、末法の時代であることを否定する天台の衆徒の『延暦寺奏状』(*)の論難に対して、日本天台宗の開祖の最澄の著とされた『末法灯明記』の末法の年代の記述をもって対抗されたのである。あなた達の天台の宗祖が現代は末法であると示しているではないか、と『末法灯明記』を引文し浄土門興起の末法の証明としたのである。
また、時の権力(王法)によって、僧の破戒をもって僧尼を弾圧したことに対しての抗議を示す意図もあった。それは、仏教の通規である、戒・定・慧の三学を護り得ずに苦闘苦悩した法然聖人の帰浄(*)を追体験した御開山のプロテストでもあったのである。
それはそれとして、現代の真宗の進歩派僧侶は、仏法を真諦とし時の権力を俗諦とする、いわゆる過去の真俗二諦説を攻撃するのであるが、時間という歴史のカンニングペーパーを使って先人を攻撃するのは如何かと思ふ。真俗二諦説は、在家仏教である浄土真宗に戒がない故に、俗諦はその時代時代の倫理習慣に順応しながら、「当流安心をば内心にふかくたくはへて」(*)生きるしたたかな作戦でもあった。上に政策あれば下に対策ありである。
ともあれ、戒律を用いない浄土真宗においては、至心釈で御開山が引文された因位の阿弥陀仏の「勝行段」(*)に、真実なる生き方とはどのようなものであるかを窺うことであるといえるであろう。
越前の古参の同行は、戒律がなきゆえに、ことあるときは阿弥陀仏と相談し「親様の好きなことはするように、親様の嫌いなことはせぬように」と、自らを戒めていたものであった。

→「真俗二諦」

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約仏、約生

林遊@なんまんだぶつ Posted in WikiArc編集
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WikiArcに「約仏、約生」の項目を追加。→「約仏、約生」

『教行証文類』を初めて披いたころ、深川倫雄和上が「教・行・信・証」は約仏(やくぶつ)の論理で書かれている書だから自分の字力では読まないようにと仰っていた。
約仏とは、仏の救いっぷりを仏の側から語るという意味である。私が助かるか助からないかは如来が心配して下さる事であって、私が心配することではないのである。
普通の書物を読むときは、自己が主体として読むから、解らないことが苦になる。しかし、約仏の姿勢で『教行証文類』を拝読していると、解らないことが苦でなくなるのであった。
もちろん全く解らないということではなく、少しは解るのであり、年を経て読んでいれば20年前には解らなかったことが、そういうことだったのかと突然判ることもある。まるで脳内シナプスの発火による結合のように、言葉と言葉が結合して新しい領域を示してくれる。
そのような意味では、慌ただしい日々に、たとえ一文での『教行証文類』の文を拝読することは楽しみ事ではある。ともあれ『教行証文類』は不思議な書物である。

→「約仏、約生」

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原理と現象

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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FBより転載

かなり昔だが、パソコン通信をしていた時に、浄土真宗は山のごとき高き教学と、底辺の愚鈍な門徒の総体である、というようなことを言われたことがあった。
底辺の愚直な門徒である林遊はブチキレたのだが、抗弁のしようが無かったので悶々としていた記憶がある。
何の間違いか、不惑を過ぎてお聖教というものを披いて学び、よくよく考えてみたら逆であった。原理と現象とか理論と実践ということが言われるが、本願を信じ念仏を申せば仏に成る、と愚直に〔なんまんだぶ〕を称える行を実践している門徒を、底辺で支えているのが浄土真宗の教学であった。
もっとも、現在の真宗学は、かっての阿毘達磨のごとき煩瑣教学の様相を示しているので、もう少し門徒にも判るような教法の体系が必要なのではなかろうか。
そのような意味において、浄土真宗の坊さんは門徒の行信を支える為にもっと勉強して成果をネットなどに公開してもらいたいと思っていたりする。
こんな事を書いてるから坊さんに敬遠されるんだろうな、どうでもいいけど(笑

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