五念門

林遊@なんまんだぶつ Posted in WikiArc編集
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wikiarcの五念門の脚注が『浄土論』を読む時に、しっくりこないので、天親菩薩の当面であろう五念門をあれこれ資料を漁って追記してみた。
『浄土論』では、奢摩他、毘婆舎那という、いわゆる止観の行を挙げているので、これに言及すべきだと思ふ。
もちろん、御開山は「「観」は願力をこころにうかべみると申す、またしるといふこころなり」(一念多念証文p.691)とされているのだが、思想の発展という意味では天親菩薩の意も示しておかないと、後で学ぶ者が混乱するのではと思ふ。
特に、田舎の愚昧で学ぶことに縁のない林遊のような輩には必要なことだと思っていたりする。
鈴木大拙師は『浄土系思想論』の中で、

 正統派の学者達は出来上がった御膳立を味わうことに気をとられて、そのものがどうしてそう組み上げられねばならなかったということを問はないようである。つまり自己の宗教体験そのものを深く省みることをしないという傾向がありはしないだろうか。お経の上で弥陀があり、本願があり、浄土があるので、それをその通りに信受して、自らは何故それを信受しなければならぬか、弥陀は何故に歴史性を超越しているのか、本願はどうして成立しなければならぬか、その成就というのはどんな意味になるのか、浄土は何故にこの地上のものでなくて、しかもこの地上と離るべからざるくみあわせにたっているのかというような宗教体験の事実そのものについては、宗学者達は余り思いを煩わさぬのではないか。浄土があり、娑婆があるということにたっている。──これをその通りに受け入れる方に心をとられて、何故自らの心が、これを受け入れねばならぬかについて、反省しないのが、彼等の議論の往往にして議論倒れになって、どうも人の心に深く入りこまぬ所以なのではなかろうか。始めから宗学の中に育ったものは、それでも然るべきであろうが、どうも外部に対しては徹底性を欠きはしないだろうか。p.332-333

と、言われているが、御開山が何故このように領解なさったかという過程を学ぶことで、より深く御開山の示して下さる、なんまんだぶのご法義が領解できるのである。ありがたいこっちゃな。

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