約仏、約生

林遊@なんまんだぶつ Posted in WikiArc編集
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『教行証文類』を初めて披いたころ、深川倫雄和上が「教・行・信・証」は約仏(やくぶつ)の論理で書かれている書だから自分の字力では読まないようにと仰っていた。
約仏とは、仏の救いっぷりを仏の側から語るという意味である。私が助かるか助からないかは如来が心配して下さる事であって、私が心配することではないのである。
普通の書物を読むときは、自己が主体として読むから、解らないことが苦になる。しかし、約仏の姿勢で『教行証文類』を拝読していると、解らないことが苦でなくなるのであった。
もちろん全く解らないということではなく、少しは解るのであり、年を経て読んでいれば20年前には解らなかったことが、そういうことだったのかと突然判ることもある。まるで脳内シナプスの発火による結合のように、言葉と言葉が結合して新しい領域を示してくれる。
そのような意味では、慌ただしい日々に、たとえ一文での『教行証文類』の文を拝読することは楽しみ事ではある。ともあれ『教行証文類』は不思議な書物である。

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原理と現象

林遊@なんまんだぶつ Posted in つれづれ
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FBより転載

かなり昔だが、パソコン通信をしていた時に、浄土真宗は山のごとき高き教学と、底辺の愚鈍な門徒の総体である、というようなことを言われたことがあった。
底辺の愚直な門徒である林遊はブチキレたのだが、抗弁のしようが無かったので悶々としていた記憶がある。
何の間違いか、不惑を過ぎてお聖教というものを披いて学び、よくよく考えてみたら逆であった。原理と現象とか理論と実践ということが言われるが、本願を信じ念仏を申せば仏に成る、と愚直に〔なんまんだぶ〕を称える行を実践している門徒を、底辺で支えているのが浄土真宗の教学であった。
もっとも、現在の真宗学は、かっての阿毘達磨のごとき煩瑣教学の様相を示しているので、もう少し門徒にも判るような教法の体系が必要なのではなかろうか。
そのような意味において、浄土真宗の坊さんは門徒の行信を支える為にもっと勉強して成果をネットなどに公開してもらいたいと思っていたりする。
こんな事を書いてるから坊さんに敬遠されるんだろうな、どうでもいいけど(笑

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