「一心正念」といふは、正念はすなはちこれ称名なり。

林遊@なんまんだぶつ Post in つれづれ
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二河白道の画像検索をしたら自宅にある構図と同じ画像があった。
林遊という法名を欲しさに度牒を貰ったのだが、その時に爺さんの奨めで在所の同行に配った複製画像である。

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二河譬はビジュアルな表現なのでインパクトが強く誤解されやすいのだが、「いまさらに行者のために一つの譬喩を説きて、信心を守護して、もつて外邪異見の難を防がん」とあるように、いわゆる譬えである。p.223
浄土真宗は信心を強調するので、ともすれば信心の対象である〔なんまんだぶ〕が忘れられることが多い。
当ブログの「汝一心正念にして直ちに来れ」でも書いたのだが、ここでの正念とは〔なんまんだぶ〕の意である。

御開山は、『浄土文類聚鈔』では、その意を明確に、

【33】 これによりて師釈を披きたるにいはく、「西の岸の上に人ありて喚ばひてのたまはく、〈なんぢ、一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ〉」(散善義 四六七)と。また〈中間の白道〉といふは、すなはち、貪瞋煩悩のなかによく清浄願往生の心を生ぜしむるに喩ふ。仰いで釈迦の発遣を蒙り、また弥陀の招喚したまふによりて、水火二河を顧みず、かの願力の道に乗ず」(散善義 四六八)と。{略出}

【34】 ここに知んぬ、「能生清浄願心」は、これ凡夫自力の心にあらず、大悲回向の心なるがゆゑに清浄願心とのたまへり。しかれば、「一心正念」といふは、正念はすなはちこれ称名なり。称名はすなはちこれ念仏なり。一心はすなはちこれ深心なり。深心はすなはちこれ堅固深信なり。……以下転釈 (*)

と、正念は〔なんまんだぶ〕であるとされておられる。

なんまんだぶ なんまんだぶ要するに、〔なんまんだぶ〕を称えた者を迎えとるという本願の勅命を一心に受け容れて、〔なんまんだぶ なんまんだぶ〕と称えて来いということである。
これが、御開山の仰る、「この心すなはちこれ念仏往生の願(第十八願)より出でたり」(*) というご信心であった。
信心正因の言葉に幻惑されて、信心の対象である可聞可称の「なんまんだぶ」を等閑にする浄土真宗の僧俗が多いのは困ったものである。

 

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

 

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