何を信ずるのか

林遊@なんまんだぶつ Post in つれづれ
0

時々、我、何をなすべきかと、我、何を信ずべきかをごっちゃにして浄土真宗の御法義を語る方がいる。
何を信ずるかという時と、何をなすべきかという時では論理の立て方の意味が違う。しかしこれを一緒にして考えるから訳がわからなくなるのだろう。こんなものを一緒にする方がおかしいのである。
何を信ずるのかは、本願の《言葉》を信ずるのである。具体的には第十八願の、

たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、至心信楽して、わが国に生ぜんと欲ひて、乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ。ただ五逆と誹謗正法とをば除く。

現代語:
わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます。 (*)

の「本願の言葉」を信ずるのである。

何をなすべきかと信ずるのは、「行に就きて信を立つ(就行立信)である。阿弥陀仏が、私の名である〔なんまんだぶ〕を称えながら生きていきなさいというのである。〔なんまんだぶ〕が本願に選択された往生浄土の行であると信ずるのである。
そのような意味では、浄土真宗は「本願を信じ念仏を申す」という非常に判りやすい、信と行のご法義なのである。我、何を信ずべきかは、本願の言葉を信ずるのである。我、何を行じて生きていくかは〔なんまんだぶ〕の行を称えて生きていくことである。
これを、ごっちゃにするから、御開山は「行に迷ひ信に惑ひ」p.131 と仰ったのであった。

時々、阿弥陀様が判りません、信じられませんという同行がいる。これは信ずる対象が間違っているのである。阿弥陀仏を人格的にとらえて、その人(仏)の存在が肯えたら信じましょうというのである。
そもそも、さとりの「さ」の字も知らない凡夫が、真如法性を体としている阿弥陀如来が、判る筈がないではないか。

御開山は、『唯信鈔文意』で、

法身はいろもなし、かたちもましまさず。しかれば、こころもおよばれず、ことばもたえたり。p.709

と、示して下さっているのだが、色も形も無く、心も言葉も及ばない言亡慮絶した法性法身の阿弥陀仏が判るはずがない。判ろうとするのが、そもそも間違いなのである。
とはいえ、全く手掛かりがないのではない。それは、真如法性の世界から、我が名を称えよ、と届いている阿弥陀様の呼び声であった。これが可聞可称の〔なんまんだぶ〕であり、これが浄土真宗の救いの法なのである。

御開山は「行巻」で、元照律師の『弥陀経義』から、

いはんやわが弥陀は名をもつて物を接したまふ。ここをもつて、耳に聞き口に誦するに、無辺の聖徳、識心に攬入す。永く仏種となりて頓に億劫の重罪を除き、無上菩提を獲証す。まことに知んぬ、少善根にあらず、これ多功徳なり。  (*)

を引文されておられるが、阿弥陀如来は、名をもって我を救いたもうのである。なんまんだぶ なんまんだぶと、阿弥陀如来の呼び声を称えて聞いていることが、もうすでに私は阿弥陀如来の救済の目的の中にいるのであった。
阿弥陀如来の衆生済度の目的を、外から眺めているときは如来と私の対応関係が気になるのだが、なんまんだぶ、なんまんだぶと称えて私が阿弥陀如来の目的の中にいることを信知したとき、私は、摂取不捨の救いの中にいるのであった。
なんまんだぶつが出来たから、我が案ずることはないのであった。ありがたいこっちゃな。

なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

« Prev: :Next »

Leave a Reply