ある日の事でございます。

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ある日の事でございます。御釈迦様さまは極楽の蓮池のふちを、独りでぶらぶら御歩きになっていらっしゃいました。
参照;青空文庫 蜘蛛の糸
うそ付け、極楽は阿弥陀さまで、お釈迦さまなら無勝浄土なんだけど(笑
(浄土とは一般名詞であり、極楽は阿弥陀さまの国のことで固有名詞である)

というわけで、芥川龍之介の『蜘蛛の糸』である。

利己主義がいけないということを、カンダタの行為になぞらえて教える児童文学作品である。

家内が「読み聞かせ」というボランティアをやっているので、この話を、ビハーラの仲間とお寺の子供会でしたそうである。

子供の感想を聞く中で、一人の子が、

僕だったら、みんなを先にのぼらせて僕が最後にのぼるのに。

と、言ったそうである。
お寺へ出入りしている子は優しい子がいるのね、という家内の感想だった。

この話を聞いて、自未得度 他先度(じみとくど たせんど)という言葉を思い出した。
自らはまだ得ていなくても、まず先に他を救済(済度)しようという、大乗菩薩の利他のこころである。

浄土真宗のご法義では、このような菩薩の菩提心を、願作仏心 度衆生心(仏になろうという心は衆生を救済しようという心である)という。

『歎異抄』で、

浄土の慈悲といふは、念仏して、いそぎ仏に成りて、大慈大悲心をもつて、おもふがごとく衆生を利益するをいふべきなり。今生に、いかにいとほし不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ、この慈悲始終なし。しかれば、念仏申すのみぞ、すゑとほりたる大慈悲心にて候ふべきと[云々]。(*)

と、示されるのもその意であろう。
そしてまた、阿弥陀さまの利他(他力)に生かされる者として、自分を犠牲にするのは嫌だが、少しだけ御恩報謝の真似に生きるという道も用意されているのが、このご法義であろうと思ふ。
御恩報謝とは、主体が私ではなく阿弥陀さまであるから、阿弥陀さまの好きな事はするように、阿弥陀さまの嫌いな事はせぬようにという生き方である。
仏さまの捨てたものは捨てなさい。
仏さまの好きなことはやるように。
仏さまが近づくなというところへは近づくな。『愚禿鈔』の第五深信の「唯信仏語」釈の意

しかし、これがなかなか難しいのではあるが……。

ちなみに、「自未得度先度他」という言葉は、『大般涅槃経』にある言葉である。
大正新脩大藏經テキストデータベース

「仏の行ぜ遣めたまふをば、すなはち行ず」
なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ

仏願の生起

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山本周五郎の『季節のない街』を原作にした映画で「どですかでん」という黒澤明監督の作品がある。

この一風変った季節のない街に、廃車になったシトロエンに住む乞食の親子がいる。
父親は、将来住む丘の上の家を思い描く夢の中に住んでおり、知識の豊富な父親は現実を見る勇気が無い。
そのため、幼い子供が残飯を集め、それを日々の糧として二人は生きている。
やがて子供が病気になり飢えながら死んでいく……。

日本人の作家で、このような、淡々と善・悪に拘泥しない世界を描ける作家は、山本周五郎だけだろう。

この映画を見るたびに、仏願の生起本末の「生起」を想う。

御開山は、「正像末和讃」に、

如来の作願をたづぬれば
苦悩の有情をすてずして
回向を首としたまひて
大悲心をば成就せり  『正像末和讃』

と、阿弥陀仏が本願を建てられたのは、回向を首(第一)としてであると讃詠される。

これは、次の『浄土論註』の「回向門」の文の意を和讃されたものである。

いかんが回向する。一切苦悩の衆生を捨てずして、心につねに願を作し、回向を首となす。大悲心を成就することを得んとするがゆゑなり。『浄土論註』

さて、仏願の生起本末だが、『浄土論註』には、浄土の国土荘厳十七種と仏荘厳八種と聖衆荘厳の四種と、合せて三厳二十九種の荘厳功徳が讃嘆されている。
曇鸞大師は、天親菩薩の『浄土論』を釈し、一々の偈に、「仏本(もと)この荘厳清浄功徳を起したまへる所以は」と、阿弥陀仏は、何故このような願を建てなければならなかったのかと「仏願の生起」を顕して下さった。
『浄土論註』の「受用功徳」には、「愛楽仏法味 禅三昧為食」(*)とある。

禅三昧を食とするとは、どういうことか。
拾ったり盗んだりしなければ食べていけない親子がいた。ある日子供が病気になる。拾いにも盗みにもいけないから、食べるものがない、病気の子供に食べさせるものがない。
やがて、子供は病気と飢えのために虫の息、親としては辛い。

そこで、柱にかかっている袋を指差す。袋には砂が入っている。
坊よ、あの袋が見えるか、あの袋の中にはな、真っ白いお米が入っているんだぞ。坊やの病気が良くなったら、あのお米を炊いてお腹いっぱいご飯を食べような、としかいいえない親である。
『浄土論註』には、

あるいは沙を懸けて帒を指すをあひ慰むる方となす。ああ、諸子実に痛心すべし。『浄土論註

と、諸子実に痛心すべしと慨嘆されている。
このょうな親子の為に、食べることに心配しない国を用意したぞ、禅三昧を食とする国を成就したぞというのが、仏願の生起である。

浄土真宗の信心は、ともすれば、阿弥陀さまがいて本願があるから、信じて称えて、その阿弥陀さまの心にかなうようになるのが信心だと思い勝ちである。実際に僧俗ともにそう思っている人が多い。
本願があるから信じようとする、これは間違いである。

「回向を首としたまひて、大悲心をば成就せ」られた阿弥陀さまであるから、仏願の生起のところから衆生への回向であり、衆生の苦悩を材料として建てられたのが本願である。

これが、『無量寿経』の、

令諸衆生功徳成就(もろもろの衆生をして功徳成就せしむ) 『無量寿経

で、ある。

私を取り込んで、私の苦悩煩悩を材料として建てられた本願であるから、私が「信ずる」なら、私は本願の外である。
林遊がいるから、林遊への回向を首としたまひて、林遊を救うご本願が立てられたのである。

御開山は、天親菩薩と曇鸞大師の一字を採られて親鸞と名乗られたが、一々の仏願の生起の根拠を『浄土論』と『浄土論註』に依られたのであろう。
浄土真宗は信じる宗教ではない。林遊を材料として建てられたご本願を、これはこれはと受け容れるのが浄土真宗の、阿弥陀仏から回向されたご信心である。いわばオーダーメード、御仕立てあがりのご本願である。

あとは、これはこれはと、驚くべきご法義に、なんまんだぶ、なんまんだぶである。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ……

漢讃と和讃

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和讃というものがある。

仏の徳をたたえる讚で仏教讃歌の意味。
日本語のものは和讃といい漢文で書かれたものは漢讃という。

御開山の「浄土和讃」は、曇鸞大師の『讃阿弥陀仏偈』という漢讃に依って作られたものである。
ちょっと調べたい事があったので、『讃阿弥陀仏偈』と「浄土和讃」を対応させてみた。(ブログネタの仕込み(笑))

成仏已来歴十劫 寿命方将無有量
法身光輪遍法界 照世盲冥故頂礼

弥陀成仏のこのかたは
いまに十劫をへたまへり
法身の光輪きはもなく
世の盲冥をてらすなり
http://wikidharma.org/4e316d8da8957

上記のように、御開山は、漢文から和語へと翻訳されながら意訳しておられる。
このように漢讃と和讃の対応と、その翻訳された意訳を見ていくと、御開山がどのような言葉に関心をお持ちになっていたかが窺えると思ふ。

大谷派のお勤めでは、「正信念仏偈」で、「三帖和讃」を繰り読み(和讃を六首づつ繰り込んで詠む)するのだが、節が難しいので林遊は後半はよく間違えてしまう(笑

西のだら節、東のしゃくり節と東西の門徒の間では言っているのだが、東派のお勤めは難しい。
小学生の時に箸を持って、博士「はかせ」(偈文の傍らに記してある、音の高低・長短を示す記号)をなぞりながら習ったので、今でもつい指で博士をたどってしまう。

それにしても、鍬を担いでたんぼへ行くような悠長な時代ではないのであるから、もう少し在家のお勤めは簡単にしたらいいのではないかと密かに思っていたりする。
まあ、なんまんだぶを称えることが生きたお勤めであるので、暇がある時か有縁の人の浄土への誕生日などに「正信念仏偈」を讃歎していたりするのではあるが……。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ……これが生きたお勤めである。

左文字 おせば右文字 助くるの

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左文字 おせば右文字 助くるの
外に助かる こころやはある (利井鮮妙和上)

阿弥陀仏の「助ける」の左文字を、衆生の心に捺せば「助かる」という右文字が現れるという意味。
印鑑の左文字を紙に捺せば、そのまま右文字が現れる。
左文字のままが右文字で、右文字の他に左文字はなく、別のものではない。
助けるという阿弥陀仏(法)と、衆生が助かるという南無(機)の、機法一体という、いわゆる浄土真宗の安心の話である。
機法一体と機法合体は違う。
機が、法に包摂されていることを機法一体というのであり、いわゆる別々のものが合体するという意味ではない。
回向を首としての本願であるから(*)、Religion(再び結びつける:合体)の訳語としての宗教という語の意味と違うのである。

さて、同じ印鑑でも、これと全く違うのに判子(はんこ)信心というのがある。
誰かに、自らの信心を証明してもらい、これで間違いがないと判子を捺して貰おうという信心である。
自らが拵えた信心を善知識などに間違いがないと証明して欲しいのである。
どうせ判子を捺してもらうなら、阿弥陀さまに捺してもらえばいいのであるが(笑
このような信心に迷う人は、これで必ず救われてくれるという阿弥陀さまの御信心を聞かずに、自らの心に信心を拵え探そうとする。
そして、その信心が間違っていないかどうかの保証を求めるのである。これを判子信心という。

ご信心もなくて、中途半端に浄土真宗の「教学」と称するものを学ぼうとする輩もこの一類であろう。そもそも『教行証文類』を、理解しようというのが間違いである。この書は、御開山の信心の智慧によって書かれた書物であるから、信なくして読んでも意味不明である。
七百数十年以上も、色んな人たちが精魂込めて拝読し続けて、なお『教行証文類』の全体像が掴めず、判らん判らんと言われているほどの書物である。しかし、解からない中でもほんの一部分でも、有り難いなというところもあるから面白い書物であるのも事実ではあるが……。

なにはともあれ、『教行証文類』を読んで信心を得ようとする輩は、所詮、重箱の隅をほじくりかえしているだけであろう。
特に三願転入などという、このご法義をプロセスでしか考えられない輩にとっては、「微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。まことに傷嗟すべし、深く悲歎すべし。」(*)であろう。

物種吉兵衛さんは、
「聞けばわかる、知れば知れる。聞こえたはこっち。知れたはこっち。こっちに用はない。聞こえたこちらはおさらばと捨てる方や。用というのは我ゃ我ゃと向こうから名乗って下さる」
と、言われたそうであるが、聞いた私には用事がないのである。私の努力をゼロにした時、私の信心を離したときに、如来回向のご信心の月は皎々と煩悩の葦の生え繁る心に照って下さるのである。

御開山は、本願名号正定業 至心信楽願為因(本願の名号は、正しく往生の決定する行業である。その行法を受けいれた第十八願の信心を往生の正因とする。 )と、なんまんだぶという行を顕して下さった。

法然聖人は、「諸人伝説の詞」に、

又人目をかざらずして往生の業を相続すれば自然に三心は具足する也。たとへば葦のしげきいけに十五夜の月のやどりたるは、よそにては月やどりたりとも見へねども、よくよくたちよりて見れば、あしまをわけてやどる也。妄念のあしはしげゝれども、三心の月はやどる也。

と、言われておられる。往生の業とは、なんまんだぶである。

浄土真宗は、救済の法であるなんまんだぶを称える宗教である。そのなんまんだぶの法から信を別開して下さったのが御開山である。
ゆえに法のない信はないのである。南無阿弥陀仏とは、行であり教であり法である。何に救われるかといえば名号に救われるのである。
その名号が、なんまんだぶ、なんまんだぶと凡夫の口先に称えられているのを信というのである。
なんまんだぶという言葉は、そのまま来いよ間違わさんぞ待っておるぞという、阿弥陀仏の名号(なのり)である。

信心とか安心を論ずる前に、救済の法である、なんまんだぶを称えてみたらと思うのは老婆心かもな、どうでもいいや(笑い

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ

第十八願と登山ルート

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登山は、した事がないのだが、新しい登山ルートを発見するということは大変であるらしい。
特に、前人跡未踏の山であるなら、クレパスやガレ場など危険な場所を避けて登山ルートを探す事になる。
ルートの選択を間違えれば遭難ということになり、生命の危険と隣りあわせである。
新規の登山ルートを探すということは、自らの足と経験と能力を十二分に発揮して探すということである。
また、試行錯誤された先人の経験を聞くことも、前人未到の新しいルート発見には必要である。
このようにして、あらゆるルートを試行錯誤しながら探し、やがて、ルートを発見し登頂に成功するのである。

後の人は、先人が発見してくれたルートを頼りとして、ルートの地図に随って登山すれば最短の時間で登頂出来るのである。

さて、浄土真宗の所依の経典である『無量寿経』の四十八願には、衆生に誓われた願が三願ある。
至心信楽の第十八願と至心発願の第十九願、至心回向の第二十願の三願である。
この三願のうちで、第十八の願が衆生を浄土へ迎え取るという阿弥陀如来の本意の願であるということは、乃至十念の称名という、なんまんだぶが誓われてあるからであるというのが浄土門仏教の通規である。ゆえにこの願を念仏往生の願というのである。

龍樹菩薩は、『十住毘婆沙論』易行品で、阿弥陀仏の本願はかくのごとし、「もし人われを念じ名を称してみづから帰すれば、すなはち必定に入りて阿耨多羅三藐三菩提を得」と。このゆゑにつねに憶念すべし。(*)と称名を示されて「易行道」を明かして下さった。
「正信念仏偈」の憶念弥陀仏本願 自然即時入必定 唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩(意訳以下同じ:阿弥陀仏の本願の救いを疑いなく聞き受ければ、本願力によって、即時に必ず仏になる位に入れしめられる。それゆえ、つねに名号を称えて、仏のご恩を報謝すべきである」)である。

天親菩薩は、『浄土論』を著して、世尊我一心 帰命尽十方無碍光如来(*)と、本願力回向の一心という信心を示して下さった。「正信念仏偈」の広由本願力回向 為度群生彰一心(本願力の回向によって、普く衆生が救われることを知らせるために、それを受けいれる一心「信心」が往生の因であると彰された。)である。

曇鸞大師は、天親菩薩のお心を『浄土論註』という書物を著し、阿弥陀如来の本願について詳しく解説して下さった。
報土(浄土)への因も果も、阿弥陀如来の誓願によって成就していると他力ということを示して下さった。(*)「正信念仏偈」に「往還回向由他力 正定之因唯信心」( 往相も還相も、すべて本願力によって回向されるから、往生の正因は疑いなく受けいれる信心一つである。 )と説かれたのがその意である。

道綽禅師は、このように先人が示された体系を、龍樹菩薩の易行道と、天親菩薩の阿弥陀仏より回向された信心を、曇鸞大師が示される他力という概念によって浄土門と名づけ、自因自果を説く聖道門という出家仏教とを分判されたのであった。(*)
「正信念仏偈」には、道綽決聖道難証 唯明浄土可通入(道綽禅師は、自力聖道の修行によってこの土でさとることは不可能であり、 ただ浄土に往生することのみが、さとりを得る道であると決着された。)と、ある。

善導大師は、師である道綽禅師の意を受け継ぎ、より精密に阿弥陀如来の救済を顕すことに腐心された。
観仏経典であるとされていた『観無量寿経』流通分にある、汝好持是語 持是語者 即是持 無量寿仏名(そなたはこのことをしっかりと心にとどめるがよい。このことを心にとどめよというのは、すなわち無量寿仏の名「みな」を心にとどめよということである)に着目されたのである。そして『観無量寿経』とは、なんまんだぶをを称える者を、阿弥陀仏が救済する経典であると示されたのである。(*)当然、なんまんだぶを称える凡夫は、阿弥陀仏が建立した報土に往生するという凡夫入報説になる。
「正信念仏偈」では、矜哀定散与逆悪 光明名号顕因縁(善に誇る善人も、悪にひがむ悪人も、ともに哀れむべきものと思し召す阿弥陀仏は、大悲の光明を縁として育て、往生の因となる名号を与えて救いたまうと顕された。 )と、この御手柄を御開山が讃嘆されるゆえんである。

さて、因明(仏教論理学)の大家であった源信僧都である。『往生要集』の冒頭に、「予がごとき頑魯のもの、あにあへてせんや。このゆゑに、念仏の一門によりて、いささか経論の要文を集む。これを披きこれを修するに、覚りやすく行じやすし。」(*)と、あるように、仏陀の覚りに至るような仏教の深遠な教理は自らの手にあまるが、念仏一門によって生と死を超える道があると身をもって示したのが源信僧都である。日本に浄土教を持ち込み、日本人の精神文化の基底に阿弥陀仏の浄土を持ち込んでくださったのが源信僧都である。日本の古典を紐解けば、必ず浄土思想に行き着くのだが、近代人は浄土という観念を忘れてしまったゆえに、生と死に煩悶しているのだろうというのは林遊の感慨である。また、地獄という概念が日本人に認知されたのは、『往生要集』であろう。

その地獄を、阿弥陀仏の救済の言葉によって無化したのが、次の「正信念仏偈」の文である。この文は『往生要集』「念仏証拠」の「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」(*) と、「雑略観」の「われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼を障へて、見たてまつることあたはずといへども、大悲倦むことなくして、つねにわが身を照らしたまふ」(*)の文によられたものである。

極重悪人唯称仏 我亦在彼摂取中 煩悩障眼雖不見 大悲無倦常照我(極重の悪人はただ仏を称すべし。われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼を障へて見たてまつらずといへども、大悲、倦きことなくしてつ ねにわれを照らしたまふといへり。)が、それである。

さて、法然聖人である。聖人という呼称は御開山がそのように使われていたからである。
「聖」という言葉は、無分別知と言われる覚りの世界から、分別によってしか自らを措定しえない者に覚りの世界を示す言葉である。『歎異抄』に、
親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり。たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ。
と、ある述懐は、この無分別知の世界から法然聖人を通して届けられたなんまんだぶを感佩するお心を述べておられるのである。
なんまんだぶを称える者を救うというのが、『教行証文類』の「大信釈」にある念仏往生の願(第十八願)である。その阿弥陀仏の教説を、受け入れるか受け入れないかの決断を、法然上人は信疑決判と仰せであった。(*)

それを、「正信念仏偈」に、還来生死輪転家 決以疑情為所止 速入寂静無為楽 必以信心為能入(迷いの境界にとどまり、輪廻を繰り返して離れることができないのは、本願を疑って受けいれないからであり、すみやかに煩悩の寂滅したさとりの領域に入ることができるのは、 善悪平等に救いたまう本願を疑いなく受けいれる信心を因とすると決着された。)といわれるのである。

さて、宿善とか三願転入とか論じている輩は、行信という、如来から回向された、なんまんだぶという行と回向される信という意味が理解できない輩であろう。
南旡阿弥陀仏という仏が成就された名号は、光明名号摂化十方という救いの源泉であり、それを受け入れてなんまんだぶを称えることが信心であり、往生の正因である。

しかるに、この第十八願である念仏往生の願に背いて、自らが新しい登攀ルートを探そうとしている団体がある。
親鸞聖人が、自らの経験を元に、第十九願や第二十願の別ルートを行くのではないですよと、懇切にお示しくださった道を会員に実行させようという団体である。
いわゆる、三願転入というタームで、本物の第十八願へのルートを遮蔽している団体である。
御開山聖人が、自らの経験で、この道は行くのではないのですよと、化身土巻で懇ろにお示し下さった意味が判らずに、自らも御開山聖人と同じような道程を辿り、覚りへの道(ルート)を切り拓こうというのであろうか。
第十九願や二十願に拘泥し、第十八願の念仏往生の願を見失い、有りもしない行なき信心という物柄を求めている会員こそ不憫である。

御開山聖人が生涯をかけてお示しくださった道は、第十八願の全分他力の道である。何を今更、三願転入などという遠回りをする/させるのであろうか。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ

不安の中の安心

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こんな話を聴いたことがある。

講の集まりでのエピソードである。
(講とは浄土真宗のご法義を讃嘆する仲間の集まりのこと)

私は、今朝、家を出がけに浅ましいものを見ました。
実は、隣の爺さんが死にかかっているので可哀想に想い訪ねてみました。

隣の爺さんは、骨と皮ばかりの姿で布団に横たわり、
死にとうない、死にとうないと、寝巻きをはだけ胸を叩いて悶えていました。

その姿を見て、ああ、仏法を聴かん者(もん)は哀れなもんじゃな。
このように浅ましく死んでいくとは、なんと哀れなもんじゃ。
やっぱり、人間は仏法を聴かんと、あのような浅ましい姿で死んでいくのですね。

この言葉が終わるやいなや、声を挙げた同行があった。

あんたは、そのおじいさんの死に様(ざま)以外の死に方が出来るんですか。
ここは、畳を掻き毟りながら、死にとうない、死にとうない、と喚きながら死んでいくことしか出来ない者の講ですよ。
死にたくないという不安におののきながら、その不安ごと抱き取って、必ず浄土へ迎え取るというのが阿弥陀さまのご法義でしたね。

こんな話だった。

なんまんだぶのご法義は、不安の中にありながらその不安ごと抱きしめて下さるというご法義である。
私が不安であるからこそ、阿弥陀さまは、金剛不壊の如来の絶対安心のご信心を決定して下さったのである。
仏願の正起本末を聞くといくことは、私の不安を材料とした阿弥陀さまのご信心を聞くということである。
凡夫の定義に畏怖心の去らぬ者というのがある。
まさに、死におびえ生に苦悩している、そのいのちの現場に飛び込んで、お前は不安でいいよ、お前の不安が私の救いが成就する場である、と阿弥陀さまは仰るのである。その呼び声が、口に称えられる、なんまんだぶであった。

お前が不安であるからこそ、安心して不安なままでいいのだよ、その不安ごと抱きしめて摂取するというのが摂取不捨の意味である。
『無量寿経』には「欲拯群萌 恵以真実之利」(群萌を拯ひ、恵むに真実の利をもつてせんと欲してなり)と、ある。この真実の利(益)とは下巻末で説かれるなんまんだぶの名号であるが、なんまんだぶとは、不安なままで、そのまま来いよ、間違わさんぞ、待っておるぞという、仏の名号(なのり)であった。

ありがたいこっちゃな。林遊がしっかりしないから、阿弥陀さまがしっかりして下さるのだな。これが「他力といふは如来の本願力なり」ということである。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、ようこそ、ようこそ

不断煩悩得涅槃

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不断煩悩得涅槃
(フダンボンノウトクネハン)
読み下し
煩悩を断ぜずして涅槃を得るなり
意訳
煩悩を断ち切らないままで、涅槃の領域にいたる。

『正信念仏偈』にある偈文である。
『論註』では、「不断煩悩得涅槃分」なのだが、偈文は七字なので不断煩悩得涅槃となっている。→『浄土論註』観察体相
この分とは、涅槃の一分なのか、それとも涅槃の全分なのかの論義があるが、往ってみれば判るので煩瑣な議論だと思う(笑
興味のある方は「正信偈講読ノート」を参照されたい。

この論註の「不断煩悩得涅槃分」の元の文は、『維摩経』にある「不斷煩惱而入涅槃」である。
→[大正新脩大藏經テキストデータベース]

漢文なので簡単に読み下し文をコピペしておく。

我、昔かつて林中に於いて、樹下に宴坐(座禅)せり。
時に、維摩詰は来たりて、我に謂いて言わく「『唯、舍利弗よ。必ずしも、この坐を宴坐と為さざれ。
それ宴坐は、三界に於いて、身意を現ぜず、これを宴坐と為す。
滅定より起たずして、諸(もろもろ)の威儀を現ず、これを宴坐と為す。
道法を捨てずして、凡夫の事を現ず、これを宴坐と為す。
{中略}
煩悩を断ぜずして涅槃に入る、これを宴坐と為す。
もし、よく、かくの如く坐する者は、仏の印可したもう所なりと」。

これでは、何のことか判らないかも知れないので、面白い超訳をUP。

>>引用開始
ちょうどその頃、維摩の住むヴァイシャリーの町に来ていた世尊(お釈迦様)は、町外れのマンゴー樹園で、500人の弟子と修行僧8000人、それから32000人の菩薩を相手に説教の真っ最中でした。

維摩の思考をテレパシーで察知した世尊は、一番弟子のシャーリプトラ(舎利佛)に言いました。

「おい、維摩のオッサンが見舞いに来て欲しがっているぞ。
シャーリプトラよ、お前さん、ちょっくら行ってきてくれないか?」

表情を曇らせるシャーリプトラ。

「いや、そうしたいのはヤマヤマなのですが、私、どうもあのオッサンが苦手なんですよ・・・
実は以前、林の中で瞑想にふけっている時に、維摩のオッサンに因縁をつけられたことがありましてね。
あのオヤジ、座っている私のところにやってきて、いきなりこう言ったんですよ。
「何をこんなところで引き籠っとるんじゃ、いい若いモンが!!
修行は、ただ座り込んでおればよいというものではないぞ。
あれやこれやと忙しく社会生活をこなし、かつ、心の安定を失わないようにすること、それを修行というんじゃ!わかったか、ボケ!!」
・・・で、私、言われっぱなしで一言も反論できなかったんです。
ホントすみません、あのオッサンだけは勘弁してください・・・」
http://bunchin.com/choyaku/yuima/yuima002.html
>>引用終了

と、まあこういうわけで、本来は社会生活という煩悩の中にありながらも、なおかつ心を落ち着けて人として為すべきことをなしていこうという意味である。煩悩というエネルギーを転じて、よき方向を目指そうという意味であろう。

この『維摩経』の原文の意味を転じて、煩悩を持ったままでも浄土へ往生して涅槃を得ることが出来る、と仰ったのが曇鸞大師の「不断煩悩得涅槃分」である。
それを引き継いだ御開山は、『正信念仏偈』に、「能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃」と、信心一発すれば阿弥陀如来の本願力に依って煩悩を断じて(横截五悪趣 悪趣自然閉)涅槃に入ることが出来ると仰ったのであろう。
真実なるものを自己に求めず、阿弥陀如来の真実を仰いでいくとき、真実に照らされた自らの煩悩の深さを慙愧していく仏道が浄土を真実とする宗教であった。
自らの思い描く罪悪感を、機の深心と錯覚している者がこのご法義にもいるが、真実なる浄土を欣求することを主とするのである。
蓮師が「わが身の罪のふかきことをばうちすて、仏にまかせまゐらせて」『御文章』五の四 と仰るのもその意である。

ともあれ、御開山が使用されている用語の出拠をアレコレ探していると、より『教行証文類』の深みが味わえて面白い。
やはり、なんまんだぶのご法義は大乗の至極ではあるとつくづく思う夏の暑い日である。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ

代受苦

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浄土真宗の所依の経典、『無量寿経』に「讃仏偈」という短い偈文(讃嘆の詩)がある。
その末尾にある句が以下の句である。

仮令身止 諸苦毒中
(たとひ身をもろもろの苦毒のうちに止くとも、)
我行精進 忍終不悔
(わが行、精進にして、忍びてつひに悔いじ。)

阿弥陀如来が法蔵菩薩で在りしとき、自らの決意を偈頌にされたものである。

この句を読誦するたびに、遠藤周作の『深い河』の一節を思い出す。

 

>>引用開始
「・・・・チャームンダーは墓場に住んでいます。だから彼女の足もとには鳥についばまれたり、ジャッカルに食べられている人間の死体があるでしょう。・・・彼女の乳房はもう老婆のように萎びています。
でもその萎びた乳房から乳を出して、並んでいる子供たちに与えています。彼女の右足はハンセン氏病のため、ただれているのがわかりますか。 腹部も飢えでへこみにへこみ、しかもそこにはさそりが噛みついているでしょう。 彼女はそんな病苦や痛みに耐えながらも、萎びた乳房から人間に乳を与えているんです」
一時間前までは愛想よく冗談を言っていた江波がこの時、突然、顔をゆがめた。 彼の頬を流れ落ちる汗はまるで泪のように見えた。「深い河」遠藤周作(220~221頁)
>>引用終了

心を病むということも当人以外には理解しがたい苦悩だが、飢渇や病苦に身を冒され飢えと痛みにのた打ちまわる苦痛もある。慈悲の非の語源はカルナー(呻 き)というそうだが、その呻きに自らを同値して救済しようという象徴的シンボルがインド女神のチャームンダーだろうか。
彼女はインドの死の女神であるが 人々を死の世界へ送り届けると同時に、死の縁となった飢渇や病苦の不条理に終わりのない挑戦を続けている存在でもある。

現在の日本では飢渇、飢えるということは考えられないことかも知れないが、飯時の一椀の白飯を前にして飢えに苦しんだ人々にすまないという想いで箸が止ま ることもある。生きるものを糧としてしか生きられないのが人であり、その罪を代わりに受けて下さる存在が「代受苦」である阿弥陀さまなのかもなあ。
善導大師は、慚謝という言葉を教えて下さった。

すまんこっちゃな。
なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ、慚謝、慚謝。

[101223]

他力の信の特色

林遊@なんまんだぶつ Posted in 仏教SNSからリモート
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お聴聞は、いいものである。

浄土真宗は、「聴聞に極まる」という。
究めるのではなく極まるのである。
このご法義の先人は、聴聞を、聴けば聞こえると和語にして下さった。
聴聞の聴は、聴く私が主体の能動性であるが、聞は受動性の聞であるという意味である。
聴いた法が、聞こえたとおりにはたらいている状態を聴聞というのである。
聴を究めるのではなく、聞に極まるのである。

ここで、何を聴くかといえば自らの「救い」を聴くのである。
救いの条件を聴くのではなく、聴けば聞こえる、阿弥陀如来の本願を聞信するのが浄土真宗の聴聞の作法である。
親鸞聖人は、「信文類(末)」で、大経下巻の「聞其名号信心歓喜乃至一念」を、「聞といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり。」(*)と釈されておられる。
聞を信で解釈なされているいるのだが、この本願力回向の信心という言葉の意味を理解できないから、古来「信」に迷う人が跡を絶たないのである。
浄土真宗の信心とは、受動性であり受容するという意味なのだが、明治以来のキリスト教の影響からか、信じるという方向に力点をおき受動性という信が判らなくなっているのであろうか。

と、いうわけで「他力の信の特色」という稲城和上の法話を法話サイト「阿弥陀さまがごいっしょです」のサイトにUPしてみた。
他力の信の特色を、
信順性 「そのまま」ということ。
逆対応性  「如来先手の法」ということ。
無所得性 「ものがらが無い」ということ。
の三種に分けて語って下さったものである。ライブのご法話を文字にしたものであり、和上の口吻、話し方/口ぶりがことに有り難い法話である。

「いつでも どこでも だれにでも 阿弥陀さまがごいっしょです」
http://hongwan.net/4e0f8d9268d57

一太郎やぁあい

林遊@なんまんだぶつ Posted in 仏教SNSからリモート
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ジャストシステムの宣伝ではない(笑
旧国定教科書国語読本に載っているエピソードである。

多度津の港から日露戦争に出兵する倅が出征する。
港から五里も離れた山奥の老いたおっ母さんは、倅に餅を食わそう、ぼた餅を食わそうと用意した。
それを腰にぶら下げて五里の山道をわらじがけで多度津の港へ急ぐ。
しかし、あにはからんや、倅を乗せた軍船は港を離れて出て行く。

いったろうやぁい、母が来たぞう~。
ぼた餅持って来たぞぉ、餅ついてお前に食わそうと持ってきたぞぉ~。
聞こえたら鉄砲上げろぉ。

おっ母さんの声は海原を渡る。
すると甲板の上で鉄砲を上げたものがいる。

一太郎やぁあい、とおっ母さんの声。

おむつを取替え、かき抱いて乳を飲ませて育てた倅が出征する。
産んで育てた倅の出征。
あらゆる想いを載せ、まさに万感の想いを込めて倅の名前を呼ぶのであろう。

一太郎やぁあい。

人の想いは何に載せて届けられるのだろう。
法蔵菩薩は、声となって称えられる如来になると願われた。
人の嘆きや悲しみや感謝や慙愧、あらゆる想いを載せて我が名を称えよ、と阿弥陀如来に成られた。
もし、声となって称えられなければ正覚を取らないと誓われた。
なんまんだぶの声である。
言葉にならない想い、言葉以前の言葉が、なんまんだぶである。

そして、自分で称える、なんまんだぶは、そのまま来いよ、間違わさんぞ、待っておるぞ、と林遊の耳に聞こえる。
法然聖人は、「声につきて決定往生のおもいをなすべし」と仰せであった。

我、名号となりて
衆生にいたり
衆生かえらずんば
我もまた還らじ

蛇足:
コメント欄のなんまんだぶによって、想いにならない思いというものを想起して、むかし法話で聴いた「一太郎やぁあい」の話を思い出して書いてみた。

参照「一太郎やぁあい」
http://www5b.biglobe.ne.jp/t-kamada/Museum/graphtadotsu/i…

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ