米獲ろうと思たら藁まで採れた

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「信巻」(末)の現生十種の益。

金剛の真心を獲得すれば、横に五趣八難の道を超え、かならず現生に十種の益を獲。
http://wikidharma.org/4ad132af1325b

この文章は少しおかしい文章です。
通常の時系列なら、金剛の真心を獲得すれば、かならず現生に十種の益を獲て、横に五趣八難の道を超え、となる筈です。
信心→十種の益→成仏

ところが、「横に五趣八難の道を超え」と五趣(地獄・餓鬼・畜生・人・天という生存状態)八難(仏に成る事が難しい八つの難)を超えて仏に成ることが先に出され、現生十種の益を後にされている。
信心→成仏→十種の益

これを昔の布教使は、米獲ろうと思たら藁まで採れた、と表現したものです。
米(成仏)を獲ることを目的としていたら、ついでに藁(十種の益)まで採れたということで、仏教は米という成仏が目的であるということです。
現生十種の益には、「十には正定聚に入る益なり」と、正定聚にいる益が説かれていますがこれは信心の利益です。
成仏が決定しているその仲間に入っているという利益のことです。

浄土真宗では「信心正因」といいますが、信心は因であって果ではありません。
果はあくまで成仏であり、信心はその果へ至る為の因であって目的ではありません。
ある団体ではこれを勘違いして、信心を獲れば全ての難が解決し(絶対の幸福)まるでさとりを得たような状態になると教えています。

親鸞聖人は、この正定聚に入っているにも関わらず、
まことに知んぬ、悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥づべし傷むべしと
http://wikidharma.org/4b8b4b1606300
と、述懐なさっておられます。

極論をすれば、信心獲得とは藁ほどの利益です。
米を獲る為に稲作をするのであって、藁を採ろうとして稲を作るならばそれはおかしいと言わざるを得ません。
しかし、ある団体では藁を採ることを前面に打ち出して米を獲ることを教えていません。

念仏成仏これ真宗であり、本願を信じ念仏を申せば仏に成るのが浄土真宗というご法義です。

五十六億七千万
弥勒菩薩はとしをへん
まことの信心うるひとは
このたびさとりをひらくべし

弥勒菩薩は、五十六億七千万年後にこの娑婆世界で竜華樹の下で悟りを開いて仏に成るといわれますが、念仏の衆生は阿弥陀如来の回向された金剛心を得ているから、臨終一念にたちまち完全なさとりを開くというのが浄土真宗のご法義でした。

藁に目を眩まされるのじゃないですよ、今度というこんどは、完全なさとりを開く弥勒と同じ位にまで巻き上げられていて、臨終一念の夕べ、大般涅槃を超証するのですよ、というのが御開山親鸞聖人の思し召しでありましょう。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ、やったね
追記
→「現生十益
→「藁幹喩経

今将談仏力(いままさに仏力を談ぜんとす)

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『証巻』末尾に「他利利他の深義」と親欝聖人が仰るのだが一切の解説がない。

「宗師(曇鸞)は大悲往還の回向を顕示して、ねんごろに他利利他の深義を弘宣したまへり。仰いで奉持すべし、ことに頂戴すべしと。」
証巻」総結

この他利利他は『浄土論註』の「覈求其本釈(カクグゴホンシャク)」からの引文である。

「しかるに覈(まこと)に其の本を求むるに、阿弥陀如来を増上縁となす。他利と利他と、談ずるに左右あり。 もし仏よりしていはば、よろしく利他といふべし。衆生よりしていはば、よろ しく他利といふべし。いままさに仏力を談ぜんとす。このゆゑに「利他」をも つてこれをいふ。」
覈求其本釈」

本来、他利と利他は同義語であって意味に違いはない筈なのだが、曇鸞大師は「談ずるに左右あり」と言われる。
この解釈に古来から和上方が苦労されてきたところで「覈求其本釈」という。覈(まこと)に其の本を求むるにはという、其の本とは一体なにを意味しているかの考察である。

これは親鸞聖人の「他力=利他力=本願力」という思想の根幹になるもので、古来から各種の説が論じられてきた。
今、ここでは梯實圓和上の論文から一部を抜粋してみる。

>>>引用開始
親鸞聖入の他力観(p17) 梯實圓

私は、他利とは他なる仏に衆生が利益されることをいい、利他とは仏が他なる衆生を利益することをいうとする『論註翼解』の説を採用したいと思う。

従来同義語として用いられていた他利と利他とを「談ずるに左右あり」といわれたのは、仏力成就の五念という特別の義意を表すためであった。

それにしてもこのように左右を見ることができたのは、「利」を動詞と見て、それを中心に、「他利」は「他利自(他が自を利す)」の「自」という目的語を省略した語であり、「利他」は、「自利他(自が他を利す)」の主語の「自」を省略した語型と見られたからではなかろうか。

したがって他利は他者である阿弥陀仏が、衆生、ずなわち私を利益するという状況を表現する言葉になる。この場合は救済される者を「自」すなわち「我」とし、救済する如来を「他」すたわち「汝」と見ていることになるから、「衆生よりしていはば宜しく他利といふべし」ということになる.

それにひきかえ利他は自者である如来が他なる衆生を救済するという状況を表現する言葉になる。

この場合は救済する者を「自」というから如来が「我」であり、救済される衆生は他者すなわち「汝」と見ての発言になる。
それが「仏よりしていはぱ宜しく利他といふべし」といわれた意味であろう。

仏の救済活動を仏の側、すなわち法の側から表すには「我よく汝を救う」と、仏を「我」として衆生を「汝」と呼ぶ表現である「利他」がふさわしいから、「いままさに仏力を談ぜんとす、このゆゑに利他をもつてこれをいふ」といわれたのである。

利他は法の側から仏力を談ずる言葉であるというのである。

後に親欝聖人が本願力回向を表すのに利他という表現を多く用いられたのはその故である。

>>>引用終わり

他利:他利(自) 「他が自を利す」
他である仏(他)が、自である林遊(自)を利益する。

利他:(自)利他 「自が他を利す」
自である仏(自)が、他である林遊(他)を利益する。

つまり、如来の救済を衆生からいえば他(如来)が利すといい、仏からいえば他(衆生)を利すという。ここでは仏の方から語るので利他といわれたのである。

親鸞聖人は、利他深広の信楽、利他真実、利他の真心、利他回向の至心、利他真実の信心、利他真実の欲生心、利他の信海、利他円満の妙位、利他の一心などなど利他という言葉を使われているが、この利他とは、他者に功徳・利益を施して救済することをいい、阿弥陀仏の側からの救いの働きをいう。

これを親鸞聖人は「他力といふは如来の本願力なり。」と仰ったのであって、他が自を救済する意味で他力と仰ったのではない。
「他力釈」

親鸞聖人は『愚禿鈔』の「二河譬」で如来の招喚、

「また、西の岸の上に、人ありて喚ばうていはく、〈汝一心正念にして直ちに来れ、我能く護らん〉」

を釈され、「汝」の言は行者なり、とし、「我」の言は、尽十方無礙光如来なり、不可思議光仏なり、と仰るのもこのような世界をあらわしておられるのである。
http://wikidharma.org/4b7f5e427a7a3

他力という言葉が、他者依存のような意味で用いられているが、本来の他力とは一方的に衆生を救済するという阿弥陀如来の利他力を仏の側から表現した言葉である。
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E4%BB%96%E5%8A%9B

さて、仏力を談ずである。

浄土真宗というご法義の枠内におりながら、信心を頂いたとか頂かないとか、助かったとか助からないとか、それは何時であるかなどと論じる輩がいる。
これを昔から越前では、乞食信心とか約生地獄とか言い、「他力の中の自力とは、いつも御恩が喜べてびくとも動かぬ信心が、私の腹にあるという、凡夫の力みを申すなり」と揶揄してきた。

他力といふは如来の本願力であり、全く如来のひとりばたらきを他力というのであって、凡夫の側の造作が入るならそれは真実ではない。

『浄土論註』の真実功徳相釈に、

「真実功徳相」と は、二種の功徳あり。一には有漏の心より生じて法性に順ぜず。いはゆる凡夫人天の諸善、人天の果報、もしは因もしは果、みなこれ顛倒、みなこれ虚偽なり。このゆゑに不実の功徳と名づく。二には菩薩の智慧清浄の業より起りて 仏事を荘厳す。法性によりて清浄の相に入る。この法顛倒せず、虚偽ならず。 名づけて真実功徳となす。いかんが顛倒せざる。法性によりて二諦に順ずるが ゆゑなり。いかんが虚偽ならざる。衆生を摂して畢竟浄に入らしむるがゆゑ なり。
http://wikidharma.org/4b7620ae57020

凡夫人天の諸善は全て顛倒であり虚偽で不実であり、菩薩(法蔵菩薩)の智慧清浄の業より起こされたものこそが真実であるといわれている。四十八願によって建立された清浄願心の荘厳は、阿弥陀如来の因浄なるがゆゑに果浄なる浄土だからである。

それでは一切の手がかりが無いではないかと言われるであろうが、私を中心とした世界観で物を分別している限り、微塵劫を超過すれども判らないであろう。
何故か、浄土真宗は、私が助かる事を聞くのではなく、私が助けられる法を聞く本願力回向のご法義であるからである。
これが「仏願の生起本末を聞く」という事である。

私はいま、如来の救済の真っ只中におりながら、私の救済を求め、ありもしない信心を追い求める事を疑心というのである。

「しかるに『経』(大経・下)に「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。」
http://wikidharma.org/4ad132af1325b

聞くとは、如来の本願を疑いなく聞いている状態を「聞く」という。疑いながら聞いているのではない、疑いなく計らいなく聞いている状態を「聞く」というのである。ここは信によって聞の意味を解釈しているのであって、私のために起こして下さった本願が私に向かって「必ず助けるぞ」と呼びかけていて下さる、それを聞いていることが信心であるというのである。
疑心あることなし、とは無い状態を言うのであって、私に信心という物柄が有るのではない。「信心」といふは、すなはち本願力回向の信心なり、であるからである。
私が助かるか助からないかは如来が心配して下さる事であって、私が心配することではないのである。私が助けられる法を聞く事が、まさに仏力を談ずることである。

月影のいたらぬ里はなけれども、蓋ある水に影はやどさじ

という法然聖人の本歌取りの歌があるが、私が、という想いの蓋を取り除けば、こうこうと御信心の月は照って下さるのである。

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至誠心釈

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『教行証文類』は不思議な書物で70%くらいは経・論・釈の引文で成り立っている。

昔ネットで『教行証文類』は他者の文章を引用してあるだけだ、という非難を浴びた事があった。
たしかに他者の著作を剽窃して自己の著作のようにする某会の会長のような人もいるから、一見そのように思われるのも、むべなるかなであろう。

しかし、親鸞聖人は経・論・釈を引用ではなく引文しておられるのである。
経・論・釈の文章を引文して、その意味を全く変えてしまっておられるのであるから単なる引用ではない。
つまり、引文によって自己の領解を表現するという創作をやっておられるのである。
同じ文章でも文脈によって意味が変わるように、分引というやり方で縦横に経・論・釈引文されている。
だから『教行証文類』はめちゃくちゃ難しい書物であり、元の文章をどのように引文されているのかを見る事によって親鸞聖人のお示しを窺うのであるといわれている。

もちろん「本願を信じ念仏を申さば仏に成る」という実に明快なご法義であって、教学が要求されるご法義ではないのは勿論であるが、面白いHPがあったので少しく日記に書いてみる。

以下、善導大師の『観経疏』の至誠心釈を見てみる事にする。

原漢文:
経云 一者至誠心 至者真 誠者実

『経』(観経)にのたまはく、「一には至誠心」と。「至」とは真なり、「誠」とは実なり。

ここでは、至誠心を至と誠に分けて、それぞれの意味を別の漢字で表す事によって言葉の示す意味を探求する手法をとっている。
漢字そのものは意味が多義的なため、他の用語との関連性において意味を探求しようとするのである。
至誠心が真実であるという事を、「至」とは真なり、「誠」とは実なりと定義し、真実とは何であるかを顕わそうとされる。

この部分は善導大師と親鸞聖人の間には差異はない。

つまり、至誠心の至誠とは真実であるといい、その真実とはどのようなものであるかを以下述べていくのである。

原漢文:
欲明 一切衆生 身口意業所修解行 必須真実心中作

善導大師:
一切衆生の身口意業所修の解行、かならずすべからく真実心のうちになすべきことを明かさんと欲す。

親鸞聖人:
一切衆生の身口意業の所修の解行、かならず真実心のうちになしたまへるを須ゐんことを明かさんと欲ふ。

ここでは、「須」という漢字を親鸞聖人は「もちいる」と読まれて、善導大師の文章の当分である、身口意業の所修の解行は自らの真実心によってなすべきという意味を変えておられる。

この場合の「須ゐる」は、如来の真実心をもちいるのだ、と意味を転じておられる。

原漢文:
不得 外現賢善精進之相 内懐虚仮

善導大師:
外に賢善精進の相を現じ、内に虚仮を懐くことを得ざれ。

親鸞聖人:
外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐いて、

善導大師の文の当分は、真実とは外に賢善精進の相を現じなさい、内に虚仮の心を懐いてはならない事だという。
内と外とが相応して真実であることが真実という意味であるといわれている

しかし、親鸞聖人は真実ということは、内に虚仮を懐いている不実なものが、外に賢善精進の相を現じてはならないとされる。
内が虚仮なのに、外へ賢善な姿を顕わすな、内も外も虚仮ではないかと言われるのである。
つまり、内も外も虚仮であって真実とは自己には無い、ということをもって真実の証明をされているわけである。
真実を解釈する為に自己に真実がないという事をもって真実というのであるから、文章の意味が180度変わってくる。

では何が真実なのですか、と親鸞聖人にお聞きすれば「阿弥陀如来である」という答えが返ってくるであろう。
このような解釈が、古来から浄土真宗における真実という言葉の解釈の一端である。

善導大師の訓点(浄土真宗聖典七祖篇 原典版)
http://wikidharma.org/4b2729bcce30d

御開山の訓点(浄土真宗聖典 原典版)
http://wikidharma.org/4b2729f6b96b9

ところが、浄土真宗を標榜しながら、親鸞聖人の意図に背きこれと全く逆に解釈する団体がある。

高森親鸞会のHP
http://www.shinrankai.or.jp/b/gendai/20080717zensusume.htm
魚拓
http://megalodon.jp/2009-1219-1226-22/www.shinrankai.or.jp/b/gendai/20080717zensusume.htm

>>引用開始
善導大師のご教導

「外に賢善精進の相を現じて、内に虚仮を懐くことを得ざれ」
これは、「大心海化現の善導」と親鸞聖人が称賛される、善導大師の有名なお言葉である。

「外」とは外面(言動)のこと。外面は、光に向かう努力精進の人となり、〝さすが親鸞学徒は違うなぁ〟と信頼される、言葉遣いや行為に努めなさい。
「内」とは内面(心)のこと。外面を幾ら賢善精進に飾っても、内面が醜悪であってはなるまい。心には、ウソ、偽り、妬み、嫉みなど、持たないよう慎むことを心がけなさい。何と厳しい教えではないか。

>>引用終了

高森氏の言葉を借りれば「あっと驚くタメゴロー」なのだが、最初このHPを見た時は驚いて吹いた。
こんなHPって、私たち高森親鸞会は『教行証文類』を読んだ事がありませんって全世界へ公表しているようなものなのだが、誰か注意する人物はいないのであろうか。

この事を指摘すれば、詭弁と弄言の好きな親鸞会では、善導大師の『観経疏』の至誠心釈を引用したのであって間違ってはいない、と抗弁するであろう。

しからば、浄土真宗親鸞会という呼称を止めろと言いたい。
さしずめ、高森氏の独断の解釈に依って成り立っている団体であるから「浄土偽宗高森会」とでもすべきであろう。

豆と豆腐

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林遊は豆と豆腐が大好きである。
特に水に漬けて置いた大豆を、醤油でカリカリになるまで煮詰めた硬い煮豆が好きなのだが、最近は歯がなくて食べられない(泣
 
豆腐は、土鍋に昆布を布いて、豆腐だけを入れる湯豆腐がいい。
熱燗でこれを肴に呑む酒は、酒の味を壊さないので格別である。
 
また、豆腐に醤油をかけて箸で細かく潰し、温かいご飯にかけて食べるのが好きなのだが、知らない人には時々怪訝な顔をされる。
そんな時は「最近は温かいご飯に、色んなものをトッピングして食べるのが流行っているそうですよ」と誤魔化している。
 
閑話休題
 
家の3000以上の聴聞をしたじいさんから聴いた話。
 
ある御法話で、摂取不捨(せっしゅふしゃ)の話があった。
法話の途中で布教使が一人のばあちゃんに、
 
「おばば、摂取不捨ちゅう事が判ったか?」
 
「そら、ご院さん、豆が豆腐になったちゅう事ですがな」
 
「豆が豆腐に?、なんじゃそりゃ」
 
「あら、ご院さん知らんのですか。豆が豆腐になったら、もう二度と豆腐は豆には戻りませんがね」
 
昔は下手な布教使をぺしゃんこにする、恐ろしい門徒が沢山いたものである。
 
十方微塵世界の
念仏の衆生をみそなはし
摂取してすてざれば
阿弥陀となづけたてまつる
 
浄土和讃:「摂取してすてざれば」の摂取の左訓
「摂(おさ)めとる。ひとたびとりて永く捨てぬなり。
摂はものの逃ぐるを追はへ取るなり。摂はをさめとる、取は迎へとる」
 
の左訓、ひとたびとりて永く捨てぬなり、からの法話である。
 
林遊が豆腐を食べる時、嬉しそうににやにやしているのは、この法話を思い出している時だというのは内緒である(笑
 
極重悪人唯称仏
(極重の悪人はただ仏を称すべし)
我亦在彼摂取中
(われまたかの摂取のなかにあれども)
煩悩障眼雖不見
(煩悩、眼を障へて見たてまつらずといへども)
大悲無倦常照我
(大悲、倦きことなくしてつにわれを照らしたまふといへり)
 
現代語訳:
極重の悪人は、ただ仏の名を称えるほかに救われる道はない。
私もまた阿弥陀仏の光明に摂め取られているが、
煩悩に心の眼が遮られて、阿弥陀仏を拝見することはできない。
しかし阿弥陀仏の大悲は、かたときも目を離さずに私を見護っている。
 
なんまんだぶを称うれば、豆が豆腐になるそうな、ありがたいこっちゃナ。
 
なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ

出体釈の話

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親鸞聖人の主著は『教行証文類』といいます。
何故ならご本人が総序で『顕浄土真実教行証文類』と呼んでおられるからです。
文類とは教・論・釈の重要な部分をあつめ整理したものという意味です。

つまり、浄土真宗の、教えと行いとその証(あか)しの重要な内容を顕わした書物ということです。

あれっ、T・S会が喧しく言う信心は何処へ行ったのでしょう。

ありました、「教巻」に、
「つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について真実の教行信証あり。」
現代語:
つつしんで、浄土真宗すなわち浄土真実の法をうかがうと、如来より二種の相が回向されるのである。一つには、わたしたち衆生が浄土に往生し成仏するという往相が回向されるのであり、二つには、さらに迷いの世界へ還って衆生を救うという還相が回向されるのである。往相の回向の中に、真実の教と行と信と証とがある。

とあって、浄土へ生まれて往く往相と浄土から還ってきて衆生を済度する還相の二種の回向と、教(おしえ)・行(おこない)・信(まこと)・証(あかし)が記されています。(ちなみにこれを昔から二回向四法と呼んでいます。)

なお、
教とは、阿弥陀如来の本願を説く『無量寿経』、
行とは、なんまんだぶを称えること、
信とは、回向された御信心、
証とは、無上涅槃の浄土(成仏)、のことです。

では、これの出拠を見てみましょう。

教は、「それ真実の教を顕さば、すなはち『大無量寿経』これなり。」
行には、「大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。」
証には、「つつしんで真実の証を顕さば、すなはちこれ利他円満の妙位、無上涅槃の極果なり。」

と、それぞれ出体釈をなされて体がありますが信にはありません。

タイトルに『教行証文類』と三つの法があり、その内容を「真実の教行信証あり」と、四つの法でお示しですが信には出体釈がありません。

これを昔から行より信を開いた四法といわれ、信別開(しんべっかい)と呼称しています。

信心とは『大無量寿経』の本願文によれば、至心・信楽・欲生の三心です。

その、至心釈に
「この至心はすなはちこれ至徳の尊号をその体とせるなり。」
と、至心は名号が体であるとされています。
信楽釈には、
「すなはち利他回向の至心をもつて信楽の体とするなり。」
と、信楽の体は至心であるとされ、欲生釈には
「すなはち真実の信楽をもつて欲生の体とするなり。」
とありますから、三心の体は至徳の尊号(南無阿弥陀仏の名号)だということになります。

これを昔から、行を離れた信もなく信を離れた行もないというので行信不離と言い習わしています。

T・S会では信心獲得とか信心決定を喧しく言い、名号を軽視していると聞いたことがあります。
なんまんだぶつは御恩報謝であるからしなくてもいいとも教えているそうです。
そして、高森教祖が、なんまんだぶつを称えているのを聞いたことがないという会員の声も聞きました。

すると、T・S会では体のない信を獲得することを奨めている事になるのでしょう。
まるで空中に楼閣を築くようなもので砂上の楼閣の信心であり、作っては壊れ作っては壊れる信心を奨めているのがT・S会でいう信心と言わざるを得ません。

ひょっとして高森教祖は『教行信証』という名目から、独立した信という体(物柄)があると錯覚したのでしょうか。

昔から行と信の関係を体・相で表現します。
体(たい)は南無阿弥陀仏、相(そう)を信といい、水と波の喩えで表現されます。
水が体であり波が相であると言います。

南無阿弥陀仏という救済の名号法が体であり、信心はその相だと言います。
水の無い波が存在しないように、水を離れて単独の波というものは有り得ません。
18願の真実信とは水の上の波であって、波には体という物柄はありません。波は単独では存在しないのです。

この波を単独で拵えようとするならば、それは浄土真宗の信ではありません。

このご法義で、「はっきりしません」とか「安心できません」などと、判ったとか分からないとかいう人は、水を離れて波をこしらえようとしているから永遠に安心が出来ないのです。
T・S会では行と信を別個のものとして捉え、自己に信という水を離れた波が単独で、ある、と教えているから、永遠に御信心を恵まれることはないのでしょう。

浄土真宗では、「体」である南無阿弥陀仏が、信心という「相」をとって、林遊を場所として、なんまんだぶ、なんまんだぶと現れ「用(はたらい)」ている状態を御信心というのでした。

なんか、酔って書いているので突っ込みどころ満載だな(笑

よく御覧よ、根が生えてる

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ある寺の住職が夕立にあったので急いで寺に帰ろうとした。
ところが急いで帰ろうとした為か、下駄の鼻緒が切れた。

困っていると門前の豆腐屋のかみさんがこれを見つけ、頭にかぶっていた手拭を引き裂き鼻緒をすげかえてくれた。

次の日、豆腐屋の前を住職が通るので、かみさんは昨日の礼を言ってくれると思ったが、何も言わずに通り過ぎる。
また次の日も、今度は店先に出て会釈するのだが礼を言わん。

その次の日には、
「この間は大降りの夕立でしたね」
と、話しかけるのだが住職は頷くだけで礼を言わない。

とうとう、あたまにきた豆腐屋のかみさんは、店に来る客たちに、
「今度きた坊主はろくでもない奴や。人に親切にしてもろても、礼も言わん」

こういう坊主を揶揄する噂はなぜか拡がっていく。

この噂はやがて住職の耳にも入ってくる。住職いわく、
「なんだ、豆腐屋のかみさんは、礼を言うて欲しかったのか。わしは一生忘れんつもりだったのじゃが」

因っている人を見て親切に手を貸すのは尊いことだ。しかし、親切をしたぞ、
という想いが心の中で頭を持ちあげ次第に育ってくる。

世俗の凡夫の善には根が生えている、善根といわれるのは、まさにこういう事をいうのだろう。

御開山は『教行証文類』の「信巻末」で長々と『涅槃経』を引文し、
父殺しの阿闍世(あじゃせ)の慙愧による無根の信について語っておられる。

なんまんだぶを称える念仏の行者には、善根にも、貪・瞋・痴の三毒煩悩にも、もう既に根がない、ということのお示しだな。

浄土真宗を標榜するある新興宗教団体では、善を奨めそれが宿善となると教えるそうだが、まるで阿弥陀如来と取引するような事を教えているのでアホである。

無根の信、それが、なんまんだぶの声になって林遊に届いているって、ちょっと感動するな。

悪を止める気持ちが起きた時、如来さまが泣きなさるさけ、わずかの善を為そうとした時は、如来さまの好きな事はしようとおもうさけ、と、思い取らせて下さることも御恩報謝なのかもなあ。

ありがたいこっちゃなあ、なんまんだぶ なんまんだぶ

推理小説と観経疏

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最近は読んでないが昔は推理小説が好きでよく読んでいた。
なんらかの事件が起り、その解決へ向けて様々な伏線をまじえながら合理的に事件の解決を描いていくのが推理小説だ。

そして、最後に伏線でほのめかされていた事柄が一挙に解決され犯人が解かるという仕掛けになっている。
読者は最後に犯人が解かった時に、結論から本文に描かれていた伏線やエピソードの意味を理解する事が出来るのである。

観経疏』という『観無量寿経』の注釈書がある。
『観無量寿経』とは、精神を統一して浄土と阿弥陀仏や菩薩たちを観想する観法が説かれ(定善)、さらに、精神を統一出来ない者には、その機根に応じて上・中・下の善(散善)を為すことを勧める経典である。

南無阿弥陀仏を称えることはその下品(げぼん)の者の為に説かれている。
下品下生にいたっては、五逆・十悪の「唯知作悪」(ただ悪を作す事のみを知る)の者に称名を勧められている。
いわば、『観無量寿経』では、南無阿弥陀仏を称する事は最低の者に与える行なのである。

しかし、不思議な事に『観無量寿経』の結論である、経典を末代へ流通する部分に至って、突然、「もし念仏するものは、まさに知るべし、この人はこれ人中の分陀利華なり。」といい「なんぢ、よくこの語を持て。この語を持てといふは、すなはちこれ無量寿仏の名(南無阿弥陀仏)を持てとなり」と言われる。

ここに着目したのが善導大師であった。
いわば推理小説で結果が解かった時、その結果から小説に描かれた内容を逆観するのと同じように、結論から『観無量寿経』という経典に説かれている意義を再把握されたのであった。
まさに、御開山が「正信念仏偈」で善導独明仏正意(善導独り仏の正意をあきらかにせり)と讃嘆される由縁である。

善導大師は、「いまこの『観経』はすなはち観仏三昧をもつて宗となし、また念仏三昧をもつて宗となす」「念観両宗」と言われた。
『観無量寿経』の表面は、観仏三昧を説いているようにみえるが、その底には念仏三昧を説いているのだ、と言われるのである。

つまり、観仏三昧が表に顕れている時は念仏三昧が隠され、念仏三昧が表に顕れている場合は観仏三昧は隠れるという事である。
UPした画像は、「ルビンの壷」といわれるもので、図に着目すれば地が消え、地に着目すれば図が消える。壷に着目すれば二つの顔は消え、顔に着目すれば壷は消える。

同じように、一見すれば聖道門の行が説かれているように見える『観無量寿経』だが、釈尊の真意はなんまんだぶを称えさせる事にあり「聖道門の行」は捨てる為に説かれている、と見られたのが法然聖人であり御開山であった。

また、御開山が経に隠顕を見るのは、このような善導大師の説示から示唆されたのであろう。

プロレスと信心

林遊@なんまんだぶつ Posted in 仏教SNSからリモート
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浄土真宗というご法義はホントに難しい宗教だと思ふ。
深川和上なら、それはお前の頭を使うからだ、と仰るだろうな(笑
 
大辞泉:ネット辞書によれば
しんじん
「名](スル)神仏を信仰する心。また、加護や救済を信じて、神仏に祈ること。
「―が足りない」「―を起こす」「―深い」
 
と、あるように、通常は人間の方が信仰する対象を信ずることを信心という。
自己が主体となって神仏に対応している関係を、浄土真宗以外の宗教では信心という。
 
ところが、浄土真宗ではこの対応が逆である。如来が主体であって衆生が客体だという。
逆対応であって如来という主体が、衆生という客体を包摂している状態を信と呼び、その包摂されている状態を信心と呼ぶ。
 
閑話休題(さて)
1950~60年代はTVの黎明期であり、その中で高い視聴率を誇っていた番組にプロレスがあった。
金曜日の夜8時からのプロレス放送は、白人相手の戦争に負けた腹いせか、黄色人レスラーが白人レスラーを叩きのめすシーンに男どもが喝采をあげていた。
 
ウチのじいさんも、この時間だけはTVの前に陣取って物も言わずにTVに食い入って見ていたものだ。
面白かったのは隣のじいさん。
 
TVの前に張り付いて、
いけ~、そこだ、コラッ後ろから来てるやろ、はよ後ろ見いや、ほらくそったれヤラレてもた。
いけ~いけっ、いけ~いけっ、はよいけ、肘うちじゃ生ぬるい、はよ、空手チョップ出せ~、空手チョップいけ~。
 
拳を振り上げ、声を嗄(か)らしてのプロレス観戦である。
 
二人のじいさんともに、頭の中にあるのはTVのプロレスだけ。
TVを見ている私も、私に見られているTVもそこには無い。じいさん達の頭の中は、ただただプロレスがあるだけだったんだろうな。
 
覚如上人の『報恩講私記』に「至心信楽 忘己速 帰無行不成之願海」(至心信楽おのれを忘れてすみやかに無行不成の願海に帰す」とある。
これは、TVのプロレスを見ていた爺さん達のように、自己をうち忘れて阿弥陀如来の本願を聞信し、その聞信している法が心に充満している事を表現した言葉だろう。
 
自己を忘れるほどの対象に出会えないのが現代の林遊のような存在である。
しかし、なんまんだぶ、なんまんだぶと、キーボードを叩き、文字や声にした時、迷いの皮の中にいる林遊の外部から届けられ眼に見え聞こえて下さる存在はありがたいこっちゃ。
 
林遊を包んでくれている世界があり、その世界が今現在に届けられているというのが浄土真宗の信心なんだろうな。
 
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ やったね

眼見と聞見

林遊@なんまんだぶつ Posted in 仏教SNSからリモート
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むかしむかし、ある所にお爺さんとお婆さんが住んでいました。
 
その頃、世間で物騒な事件が起きて、
各家々では戸締りを厳重にしていました。
 
そんなある晩の事でした。
 
夜中に台所でドスーンと大きな音がします。
この音に驚いて目が覚めたお婆さんは、隣に寝ているお爺さんを揺り起こし、
 
お爺さん、台所で物音がした、ひょとしたら泥棒が来たのかも。
 
と、言いました。お爺さんは、
 
よし、ワシが見てくる、危ないからお前はここにじっとしておれ。
 
と、言ってそばにあった箒を掴んで、そろそろと台所へむかいます。
 
お婆さんは布団の上で、こう思いました。
 
ひょっとして最近うわさの強盗じゃたらどうしよう。
お爺さんが、強盗に刃物で刺さたらどうしよう。
私も刃物で刺されて殺されるかもしれん。
 
こう考えると怖くてたまらず、布団の上でブルブルと震えていました。
 
その時、お爺さんの大きな声が聞こえました。
 
ネコじゃ、となりのドラ猫のトロが戸棚の上の鰹節の箱をひっくり返した音じゃ。
 
この声を聞いたとたん、お婆さんの震えは止まってホッっと安心しましたとさ。
 
昔じいさんに聞いた話を昔話風にしてみた。
 
じいさんは、この話をしてから、
布団の上の婆さんは、台所での猫の悪さを見ていないが、爺さんの声で安心する。
 
「見聞一致」というのは、これと同じで覚りの世界を仏さまが見て話す言葉を聞くのが聴聞だと言っていた。
見て知る事と聞いて知る事は同じだと常に言っていたものだ。
 
御開山は「真仏土巻」に涅槃経を引文して、眼見と聞見という事を仰っている。
衆生が、色もなければ形もない仏さまの世界を知らせてもらうのは聞見だとの仰せだ。
 
「信巻」でその聞見のお勧めを、
「聞」といふは、衆生、仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし、これを聞といふなり。
との仰せである。
 
浄土真宗は、阿弥陀様がいるのかいないのかを見て信じるご法義ではない。
ただただ、仏願の生起本末を聞くだけのご法義である。
 
「仏願の生起」とは覚りの世界へ行く力の全くない林遊がいるから、「本末」とは、そのような林遊のために願をおこし行を積んでで(本)、現在、なんまんだぶという仏となり、林遊に救いを喚び続けて下さっている(末)のだな。
 
なんまんだぶ なんまんだぶ なんまんだぶ

なんまんだぶのはなし

林遊@なんまんだぶつ Posted in 仏教SNSからリモート
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浄土真宗所依の『無量寿経』には衆生に対しての願が三つある。
いわゆる「設我得仏 十方衆生」と衆生を対象にした生因三願(浄土へ生まれさせる三つの願い)である。
 
衆生というのは人間に限らず、生きとし生けるものすべてを指し示す言葉だ。
その三願の中で阿弥陀如来(法蔵菩薩)の御本意の願というのが第十八願である。
 
(十八願) わたしが仏になるとき、すべての人々が心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して、もし生れることができないようなら、わたしは決してさとりを開きません。ただし、五逆の罪を犯したり、仏の教えを謗るものだけは除かれます。
 
仏教とは釈尊が人間存在の根底にある苦の原因を「生老病死」であると提示することから始まる。
人という存在は「死」という厳然たる事実の前には、どのような論理も経験も無力であり虚無への墜落を感じないわけにはいかない。
少しく「生きる」という命題を考えたことのある人の前に提示される深刻な問いであり疑問である。
 
浄土真宗ではこの「死」というあらゆるものを虚無に叩き込む命題に対して「往生」という答えを用意している。
それが前掲の十八願だ。
全ての存在を無に帰する「死」というものを「往生」、浄土へ生まれると思いなさいと『無量寿経』の十八願は告げる。
 
死ぬとしか思えない事象を「わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏し」ろと、阿弥陀如来は招喚する。
人間の造った虚妄の価値観に支配され、生と死という妄想に囚われた存在に対する呼びかけであり喚び声である。
 
さて、彼の浄土へ生まれる「いのち」であると思い取れといわれる条件は何であろうか。
「心から信じて、わたしの国に生れたいと願い、わずか十回でも念仏して」と、『無量寿経』の十八願は言う。
 
念仏である。なんまんだぶである。
仏語に虚妄はないが、ここで疑問が起きる。
 
はたして、口になんまんだぶと称えるだけの行為が阿弥陀如来の浄土へ生まれる為の価値を持つ因なのであろうか。
 
親鸞聖人は仰る。
「大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく。しかるにこの行は大悲の願(第十七願)より出でたり」、と。
 
(十七願) わたしが仏になるとき、すべての世界の数限りない仏がたが、みなわたしの名をほめたたえないようなら、わたしは決してさとりを開きません。
 
ここで、ちょっと親鸞聖人に言いたい。
これは往因三願の衆生が浄土へ往生する願ではないじゃないですか、仏が仏に誓った願がどうして衆生が浄土へ往生する願になるのですか、と。
 
親鸞聖人は仰る。
お前は、自分の口で称えられるなんまんだぶに着目しているのだろう。
それは違う。
お前の口に称えられているなんまんだぶは仏が仏を讃嘆している行なのだよ。
凡夫や羅漢や菩薩が修行する「行」と全く価値が違う行をお前に与えるから「正定の業因はすなはちこれ仏名をとなふるなり。正定の因といふは、かならず無上涅槃のさとりをひらくたねと申すなり」『尊号真像銘文』なんですよと仰る。
 
なんまんだぶの出所が違うのでした。
林遊の口に称えられているなんまんんだぶは、仏が為す仏の行であって仏作仏行である。
 
有り難し、という言葉があるが、kuzさんの婆ちゃんが、なんまんだぶ、あんがたいと常に仰っていたという事を聞くたび、私の人生に有る事がない名号が、仏となり浄土となって顕現して下さることに、有難いなあと嘆息する。
 
おねんぶつなさいませ。
 
で、家内に読んで聞かせたら、これ切り張りだらけで何が言いたいのと言われて凹んでいる