御開山は、信心(大信心)を説く「信巻」で、
と、「念仏往生の願」より出でた信を「この大願を選択本願と名づく」とされておられる。
矮小化された「自覚」としての信心しか知らない「信心正因」派の輩は、まるで浄土真宗では「無行単信」のように誤解するのであった。
この「念仏往生の願」と「選択本願」といふ語を、どのように消釈(矛盾点を解消してわかるように解釈すること)するのであろうか。
御開山が第十八願を念仏往生の願とよばれたのは、法然聖人が『三部経大意』で、「念仏衆生摂取不捨」の意を示す中で、
つぎに名号をもて因として、衆生を引摂せむがために、念仏往生の願をたてたまへり。第十八の願これなり。
その名を往生の因としたまへることを、一切衆生にあまねくきかしめむがために諸仏称揚の願をたてたまへり、第十七の願これなり。聖教全書四p.784
といふ文の指示によって、第十八願の「乃至十念」のなんまんだぶを、第十七願に拠って顕されたから後学に様々な問題を起こしたのであろう。
その為に、関東の疑問を持つ門弟に対して、
と、「行信不離」ということを示されたのであった。
そもそも論だが、浄土真宗の門徒は坊さんの説く偏頗な信心に騙されずに、五劫思惟という時を経て、因位の阿弥陀仏が往生の業因として選択摂取したのは、口称のなんまんだぶであった。頭の賢い真宗の坊さんは、これがワカランのです(笑