言に因つて言を遣るなり

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解らんモンが、判らん話をUPするので、分かる訳はないのだが、自分のメモ用にwikiarcにUPしてみた。

→「能説の…知るを」

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称名報恩

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称名報恩説を、なんまんだぶはお礼であるからしなくてもよいという団体があるのだが、莫迦(梵 moha)である。

いわゆる「信心正因 称名報恩」説の誤解なのだが、自覚の信を強調する浄土真宗の僧俗にも多いので困ったものである。
法然聖人は、

 又いはく、本願の念仏には、ひとりたちをせさせて助をささぬ也。助さす程の人は、極楽の辺地にむまる。すけと申すは、智恵をも助にさし、持戒をもすけにさし、道心をも助にさし、慈悲をもすけにさす也。
それに善人は善人なから念仏し、悪人は悪人ながら念仏して、ただむまれつきのままにて、念仏する人を、念仏にすけささぬとは申す也。さりなからも、悪をあらためて善人となりて念仏せん人は、ほとけの御意にかなふべし。かなはぬ物ゆへに、とあらんかくあらんとおもひて、决定の心おこらぬ人は、往生不定の人なるべし。(諸人伝説の詞p.682

と、いわれていた。
「とあらんかくあらんとおもひて、决定の心おこらぬ人は」可哀想である。

→称名報恩

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信心正因

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浄土真宗の「信心正因」とは、信心はわたくしの上にあるけれども、それはわたくしの物(ものがら)ではないことをいう。この無い状態を「正因」というのである。

越前の古参の門徒は、「勅命のほかに領解無し」という言葉で、なんまんだぶという可聞可称の称名法を受容し実践することが「信心正因」の意味であると領解したのである。
真実信をあらわす「信巻」三心結釈で、
「真実信心 必具名号。名号必不具願力信心也(真実の信心はかならず名号を具す。名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり)」(三心結釈p.245)と、された意である。

ともあれ「信心正因」の法を説く真宗坊さんの説く法の真偽を判断する材料は、口称のなんまんだぶを称えているかいないかであった。嘘の法義を説く布教者には真実を説く力はないのである。
「信心正因」とは確固たる信を意味する語ではなく、なんまんだぶと称えることが出来るか出来ないかという意が「信心正因」という語の意味であった。浄土真宗の「信」とは、知の崩壊によってめぐまれる信であった。ありがたいことである。

wikiarcの信心正因の項

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浅原才市さんのうた

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浅原才市さんは、

仏智不思議を疑うことのあさまし
三十四年 罪の詮索するからよ
罪の詮索無益なり

罪の詮索せぬ人は
暖簾すがりかホタすがり
閻魔の前で いんま後悔
罪の詮索する人は
ここで金剛心をいただく

といわれている。
前段では、「罪の詮索無益なり」とされているのだが、後段では「罪の詮索する人はここで金剛心をいただく」とされている。
一見すれば矛盾するような言葉だが、これについて考察してみた。

「トーク:二種深信」

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たとひ大千世界に

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『浄土和讃』の、

たとひ大千世界に
みてらん火をもすぎゆきて
仏の御名をきくひとは
ながく不退にかなふなり (讃阿弥陀仏偈和讃)

という句を真剣に聞法をすべき根拠という理解があるそうだが何を聞くのか明らかではない。
この和讃は、曇鸞大師の『讃阿弥陀仏偈』の漢讃を御開山が和讃したものである。(*) この和讃は二首を一対として領解すべきである。

もし阿弥陀仏の号(みな)を聞きて、歓喜し讃仰し、心帰依すれば、下一念に至るまで大利を得。すなはち功徳の宝を具足すとなす。(讃阿弥陀仏偈)

(30)
阿弥陀仏の御名をきき
歓喜讃仰せしむれば
功徳の宝を具足して
一念大利無上なり (*)

たとひ大千世界に満てらん火をも、またただちに過ぎて仏の名を聞くべし。阿弥陀を聞けば、また退かず。このゆゑに心を至して稽首し礼したてまつる。(讃阿弥陀仏偈)

(31)
たとひ大千世界に
みてらん火をもすぎゆきて
仏の御名をきくひとは
ながく不退にかなふなり (*)

なんまんだぶの名号を聞信し、歓喜し讃嘆したてまつれば、その功徳はわが身に具わり、たった一声(下至一念)の〔なんまんだぶ〕であっても涅槃をさとる無上の大利益をこうむるとという意が、
「たとひ大千世界に みてらん火をもすぎゆきて 仏の御名をきくひとは ながく不退にかなふなり」という和讃の意であった。なお、この句の元となった『讃阿弥陀仏偈』の「阿弥陀を聞けば、また退かず(聞阿弥陀不復退)」の文も、現生不退(聞名不退)の証左となったのであろう。
御開山の示される御信心とは、本願(第十八願)に示された選択本願の「乃至十念」の〔なんまんだぶ〕を念仏成仏の業因と聞信し受容することを信心正因というのであった。
この「大千世界にみてらん火をもすぎゆきて」聞くべきは仏願の生起本末を全うした〔なんまんだぶ〕を称え聞くことであったのである。御開山が「真実の信心はかならず名号を具す(*)とされた所以である。

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徳大寺の唯蓮坊

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蓮如さんの『御一代記聞書』に、

一 徳大寺の唯蓮坊、摂取不捨のことわりをしりたきと、雲居寺の阿弥陀に祈誓ありければ、夢想に、阿弥陀のいまの人の袖をとらへたまふに、にげけれどもしかととらへてはなしたまはず。摂取といふは、にぐるものをとらへておきたまふやうなることと、ここにて思ひつきたり。これを引き言に仰せられ候ふ。(聞書P.1297)

とあるのだが、徳大寺の唯蓮坊という一段が判らなかったのだが、ネットは便利なもので唯蓮坊のエピソードを発見。

で、暇なのでwikiarcに記述してみた

→「徳大寺の唯蓮坊

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古今楷定

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好奇心の無い者は、たとえ若者であっても老人であり、好奇心のある者はたとえ百歳であっても若者である、というそうだが、「古今楷定」という語を見かけたので好奇心から私見をwikiarcにUPしてみた。

鎌倉時代に生を享けられた御開山は、80過ぎてもなお好奇心を失わずに著述をされておられるのだが、こういう人にとっては老いは忘れ去られているのだろうな。
ある意味では、やがて実現する「無量光明土」という浄土を持つものは、摂取不捨という言(ことば)が実感として感じられるのであろう。ありがたいこっちゃ。

→[古今楷定]

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二種深信

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若い頃には、家のじいさんやばあさんが、ご信心は若い頃に貰え貰えと煩かった。
『御一代記聞書』(63)の、

一 仏法者申され候ふ。わかきとき仏法はたしなめと候ふ。としよれば行歩もかなはず、ねぶたくもあるなり。ただわかきときたしなめと候ふ。 p.1252

の意であろう。
根が単純なので「信心正因」の語に幻惑され、大谷派の機づのりの機の深信が自覚の信であると錯誤して、罪の深いことを知らしてもらうのが浄土真宗の信仰であると思っていたものである。後で知ったのだが御開山は『愚禿鈔』で七深信を挙げられ、

第一の深信は、「決定して自身を深信する」と、すなはちこれ自利の信心なり。p.522

と、機の深信単独では自利(自力)の信であるとせられいた。大谷派の責任者出て来い(笑
ともあれ不惑を過ぎてから、本願寺派の和上さま方の法筵に座すことになったのだが、自力の拵えた自覚の信を抛り投げて、なんまんだぶのご法義を知らしてもらったのはありがたいことであった。
で、御恩報謝の真似事としてネットであちこち書き散らしているのだが、wikiarcの「二種深信」の項に少しく追記してみた。

「二種深信」

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浄土真宗の特長

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「法然聖人と御開山の相違について」という問いを受けたので、梯實圓和上の聖典セミナーの一段をUPしたことがある。
同文中で梯和上は、17の箇条書きで御開山の『教行証文類』撰述の意義を示しておられる。その意味を該当する文や項目へのリンクを作成してみた。
坊さんと違って、かっての林遊のように門徒は教義概念を示す名目の意味が理解しづらいと思ふので、各項にお節介だがリンクしてみた。

ともあれ理論と現象ということがいわれるのだが、理論は知らなくても本願の仰せのとおりに、虚心に〔なんまんだぶ〕を称えている者が「真実の信心はかならず名号を具す。」であり、「如彼名義欲如実修行相応故(かの名義のごとく、実のごとく修行し相応せんと欲(おも)ふがゆゑに)」の実践であった。ありがたいこっちゃ。

浄土真宗の特長

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wikiarcの「教」の項に以下を追記した。

教とは、能詮の言教と、所詮の法義をいい『大無量寿経』は能詮の言教(言語によって表現された教え)であり、所詮の法義(その教えによってあらわされている内容)は「行巻」であらわされている〔なんまんだぶ〕と称える大行である。「行巻」で「しかるに教について念仏諸善比挍対論するに」と四十七対を挙げられている所以である(行巻 P.199)。 この大行が衆生の上にとどいて大信となり、衆生の往生成仏の正因となるのである。

→「教」

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