如来大悲の恩徳は

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我々が口になずんだ、

(59)
如来大悲の恩徳は
身を粉にしても報ずべし
師主知識の恩徳も
ほねをくだきても謝すべし

というご和讃は、御開山さんが『尊号真像銘文』法印聖覚和尚の銘文で、

大師聖人(源空)の御をしへの恩おもくふかきことをおもひしるべしとなり。 「粉骨可報之摧身可謝之」といふは、大師聖人の御をしへの恩徳のおもきことをしりて、骨を粉にしても報ずべしとなり、身を摧きても恩徳を報ふべしとなり。よくよくこの和尚(聖覚)のこのをしへを御覧じしるべしと。

の法然聖人の恩徳を和讃されたものである。御開山は法然聖人を阿弥陀仏の化現であるとみられていた。子供の頃には、身を粉にするのも骨を砕くのも嫌だよと、リアルに思ふていて反発したこともあった(笑
ともあれ、『尊号真像銘文』の漢文部分にはこの「粉骨可報之摧身可謝之」を示す語がないので略抄されたのであろうと思っていた。
で、貧乏であまり本は買えないのだが『浄土真宗聖典全書』を買って「聖覚法印表白文」の全文をみて納得したものであった(笑

愚昧な門徒がお聖教を読もうとすると非難中傷する坊さんが多いのだが、蓮如さのお示しには、

一 蓮如上人仰せられ候ふ。本尊は掛けやぶれ、聖教はよみやぶれと、対句に仰せられ候ふ。

とあるので、暇つぶしにお聖教を披くことではあった。ありがたいこっちゃな。

→「聖覚法印表白文

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聞信

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本山の高等遊民は、次々と新しい言葉を生みだす。

しかし門徒は消化不良になっているのでワケが判らん。
御開山の御同行・御同朋を「門信徒」と呼び囲い込む言葉もその一なのだが、はたして「聞信」という言葉を浄土真宗の坊さんが理解しているのかと思い立ち、「聞信」という言葉を考察してみた。

ともあれ、こんな事ばかり書いているから、そのうちに「安芸の蓮崇」のように破門になるかも(笑

「聞信」

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御開山の三哉

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御開山は、日本人に「何をよろこび、何をかなしむべきか」を教えて下さった方であるといわれる。ほとんど自らの感情を語ることのなかった御開山には、三哉(さんかな・さんさい)という文がある。

誠哉 摂取不捨真言 超世希有正法 聞思莫遅慮。

誠なるかな、摂取不捨の真言、超世希有の正法聞思して遅慮することなかれ。(総序 P.132)

爰愚禿釈親鸞 慶哉 西蕃・月支聖典 東夏・日域師釈 難遇 今得遇 難聞已得聞。

ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしいかな、西蕃・月支の聖典、東夏・日域の師釈に、遇ひがたくしていま遇ふことを得たり、聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。(総序 P.132)

御開山は、自らには真実はない、ということを真実とされた方であった。それ故に真実の教えに出遇われたことを「誠哉」「慶哉」といわれたのであろう。
その「誠なるかな」と「慶ばしいかな」を聞思して、

誠知。悲哉愚禿鸞 沈没於愛欲広海 迷惑於名利太山 不喜入定聚之数。

まことに知んぬ、悲しきかな愚禿鸞、愛欲の広海に沈没し、名利の太山に迷惑して、定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近づくことを快しまざることを、恥づべし傷むべしと。(信巻 P.266)

と「悲しきかな愚禿鸞」と述懐されておられた。
それはまた「誠哉」という真実に出合いながら真実たり得ない自己自身の述懐であり、「愚禿鸞」と仏弟子としての釈の字を省かれた意でもあった。真実に出遇いながら真実たり得ない自己の慚愧であり、煩悩にまみれた俗人にありながら真実の光に照し出され摂取された自身を感佩する語であった。
浄土真宗のご法義は悲喜交交(悲喜こもごも)と、喜びと悲嘆が交差する「二種深信」のご法義だといわれるが、この意を大谷派の金子大榮師は、

人と生まれた悲しみを知らないものは、人と生まれた喜びを知らないものだ。(*)

と、仰っていた。

→[僧にあらず俗にあらず

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自力他力についての異説

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稲城選恵和上から、杉和上は浄土真宗の布教使さんの説教を聴かれて、

西山浄土宗のお説教を確かに拝聴いたしました。

と、皮肉っておられたということを聴いたことがある。
浄土真宗では三業惑乱以来、衆生の側の意業の信心を否定するあまり無安心に陥っている面もある。いわゆる往生正覚機法一体の「十劫安心」をご当流のご信心だと誤解している僧俗が多いということであろう。
いわゆる、ひらがな語での「いのち」を強調し、御開山が示された願作仏心、度衆生心という仏道を領解できない仏法の世俗化の罠に嵌っているのかもである。
世俗化とは聖なるものを俗化するのであって、俗化した真宗には衆生を済度する力はないということが、真宗のご法義の衰退の一端を招いているのであろう。

御開山の示された浄土真宗は、

しかれば如来の真説、宗師の釈義、あきらかに知んぬ、安養浄刹は真の報土なることを顕す。惑染の衆生、ここにして性を見ることあたはず、煩悩に覆はるるがゆゑに。p.371

という、往生成仏の仏のさとりを開くご法義なのだが、現世の「いのち」の語に拘泥し往くべき浄土をもたない者には難中之難であろう。
と、いうわけで、法然門下の異流の一端を示す「法然聖人の他力思想」の一段をUPしてみた。

→「法然聖人の他力思想

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極重悪人唯称仏

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「正信念仏偈」に、「極重の悪人はただ仏を称すべし。」とある文の出拠とその背景を論じられた梯實圓和上の考察をwikiarcに記した。

三、四十八願中、於念仏門 別発一願云、乃至十念。若不生者不取正覚。

三には、四十八願のなかに、念仏門において別に一の願を発してのたまはく(同・上意)、「乃至十念せん。もし生ぜずは、正覚を取らじ」(第十八願)と。

四、観経、極重悪人無他方便。唯称念仏、得生極楽。

四には、『観経』(意)に、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と。(要集 P.1098)

御開山は、『唯信紗文意』で『観経』下下品の意を、

「汝若不能念」といふは、五逆・十悪の罪人、不浄説法のもの、やまふのくるしみにとぢられて、こころに弥陀を念じたてまつらずは、ただ口に南無阿弥陀仏ととなへよとすすめたまへる御のりなり。これは称名を本願と誓ひたまへることをあらはさんとなり。 (唯文 P.716)

と示しておられる。ここで「不浄説法のもの」とあるからご自身を下品下生の者とみておられたのであろうか。
ともあれ、御開山のお示しは「ただ口に南無阿弥陀仏ととなへよとすすめたまへる御のりなり。」であった。

「念仏証拠門のなかに…」

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念念称名即嘆仏 念念称名即懴悔

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善導大師は「慚謝(慚愧報謝)」という言葉を教えて下さった。この報謝とは讃嘆でもあるのだが、この意を『尊号真像銘文』から考察してみた。

智栄讃善導別徳云(智栄善導の別徳を()めたもうていわく)

善導阿弥陀仏化身(ぜんどう-あみだぶつけしん) 称仏六字(しょうぶつろくじ) 即嘆仏即懺悔(そくたんぶつ-そくざんげ) 即発願回向(そくほつがんえこう) 一切善根荘厳浄土(いっさいぜんごん-しょうごんじょうど)

善導は阿弥陀仏の化身なり。仏の六字を称せば即ち仏を嘆ずるなり、即ち懺悔するなり、即ち発願回向なり、一切善根浄土を荘厳するなり。(尊号 P.655)

御開山はこの文を釈して、

「称仏六字」といふは、南無阿弥陀仏の六字をとなふるとなり。「即嘆仏」といふは、すなはち南無阿弥陀仏をとなふるは仏をほめたてまつるになるとなり。また「即懺悔」といふは、南無阿弥陀仏をとなふるは、すなはち無始よりこのかたの罪業を懺悔するになると申すなり。
「即発願回向」といふは、南無阿弥陀仏をとなふるは、すなはち安楽浄土に往生せんとおもふになるなり、また一切衆生にこの功徳をあたふるになるとなり。(尊号 P.655)

とされておられた。注釈版の脚注では、この「…になる」を、

本願を信じて念仏すれば仏を讃嘆していることになる。念仏は讃嘆の徳をもつ行業として私たちに与えられているので、「…になる」という。以下、懺悔等について「…になる」というのも同様の意。(*)

とあるのだが、如実讃嘆ということから「なるとなり」とされた意を窺えば少しく御開山の示された意と違うのではないかと思ふのでwikiarcに記してみた。

→「智栄讃善導別徳云…」

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無量光明土

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無量光明土

口になずんだ「正信念仏偈」の曇鸞章には、

天親菩薩論註解 報土因果顕誓願

 天親菩薩の論を註解して、報土の因果誓願に顕す。

往還回向由他力 正定之因唯信心

 往還の回向は他力による。正定の因はただ信心なり。

惑染凡夫信心発 証知生死即涅槃

 惑染の凡夫、信心発すれば、生死すなはち涅槃なりと証知せしむ。

必至無量光明土 諸有衆生皆普化

 かならず無量光明土に至れば、諸有の衆生みなあまねく化すといへり。

と、信心一発すれば、必ず「無量光明土」に至るといわれている。

この「無量光明土」の語の出拠は「真仏土文類」で『平等覚経』を引文された、

 速疾に超えて、すなはち安楽国の世界に到るべし。無量光明土に至りて、無数の仏を供養す。

とある「無量光明土」である。
御開山は「に依りてに依らざるべし」という釈風なのだが、その源意を窺うことも御恩報謝の営みであろう。と、いうわけで少しく無量光明土の出拠の意味を考察してみた。

「無量光明土」

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言に因つて言を遣るなり

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解らんモンが、判らん話をUPするので、分かる訳はないのだが、自分のメモ用にwikiarcにUPしてみた。

→「能説の…知るを」

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称名報恩

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称名報恩説を、なんまんだぶはお礼であるからしなくてもよいという団体があるのだが、莫迦(梵 moha)である。

いわゆる「信心正因 称名報恩」説の誤解なのだが、自覚の信を強調する浄土真宗の僧俗にも多いので困ったものである。
法然聖人は、

 又いはく、本願の念仏には、ひとりたちをせさせて助をささぬ也。助さす程の人は、極楽の辺地にむまる。すけと申すは、智恵をも助にさし、持戒をもすけにさし、道心をも助にさし、慈悲をもすけにさす也。
それに善人は善人なから念仏し、悪人は悪人ながら念仏して、ただむまれつきのままにて、念仏する人を、念仏にすけささぬとは申す也。さりなからも、悪をあらためて善人となりて念仏せん人は、ほとけの御意にかなふべし。かなはぬ物ゆへに、とあらんかくあらんとおもひて、决定の心おこらぬ人は、往生不定の人なるべし。(諸人伝説の詞p.682

と、いわれていた。
「とあらんかくあらんとおもひて、决定の心おこらぬ人は」可哀想である。

→称名報恩

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信心正因

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浄土真宗の「信心正因」とは、信心はわたくしの上にあるけれども、それはわたくしの物(ものがら)ではないことをいう。この無い状態を「正因」というのである。

越前の古参の門徒は、「勅命のほかに領解無し」という言葉で、なんまんだぶという可聞可称の称名法を受容し実践することが「信心正因」の意味であると領解したのである。
真実信をあらわす「信巻」三心結釈で、
「真実信心 必具名号。名号必不具願力信心也(真実の信心はかならず名号を具す。名号はかならずしも願力の信心を具せざるなり)」(三心結釈p.245)と、された意である。

ともあれ「信心正因」の法を説く真宗坊さんの説く法の真偽を判断する材料は、口称のなんまんだぶを称えているかいないかであった。嘘の法義を説く布教者には真実を説く力はないのである。
「信心正因」とは確固たる信を意味する語ではなく、なんまんだぶと称えることが出来るか出来ないかという意が「信心正因」という語の意味であった。浄土真宗の「信」とは、知の崩壊によってめぐまれる信であった。ありがたいことである。

wikiarcの信心正因の項

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