令和の新作領解文騒動は、いわゆる唱和の推進などのように宗教の運動論なのだと思ふ。宗義との整合性をはかる為に、御用学者である宗学者によって色々な会通(一見、矛盾しているようにみえる記述を一貫した趣意のものとして説明すること。)が行われるのだろう。要するに矛盾を糊塗する曲学阿世(時代の好みにおもねり,世間の人に気に入られるような説を唱えること)の輩の会通ゴッコであろう。
何故このような令和の新作領解文騒動が起こったかといへば、浄土真宗の中に「運動論」を持ち込んだ為であった。あらゆる場ですべての人に唱和させようといふ企図は、スローガン(団体や運動の主義・主張を、言い表した語句。標語)によって大衆(門徒)に行動を扇動する左派の運動論であった。
大谷派の金子大榮師は、御開山の七百回忌で「浄土の機縁」といふ法話をされた。
その中で浄土の機縁(教えを求める者〔機〕が、教えを聞くきっかけ〔縁〕となること)として「生活意識」と「行動意識」といふことを述べておられた。
そして、
〔浄土の教え、真宗の教えというものは、生活に潤いをあたえ、生活の智慧となるものであって、行動の原理となるものでないと、私はそういうふうに思うのであります。〕
と述べておられた。
>>「浄土の機縁」の抜粋
さて、その生活と行動というものに伴なう感情を申しますと、生活における感情は、悲しみと喜びというものであります。行動者には喜びとか悲しみということがあるのであろうか。親鸞が日本人に教えたものは、なにを悲しむべきか、なにを喜ぶべきかということであるといっている人がおります。いかにもそのとおりでしょう。私も人と生まれた悲しみを知らないものは、人と生まれた喜びを知らないものだと語ってみたこともありました。このような時代に生まれて、人間の生活は、いろいろのことに悩まされ、わずらわされておる。そして、それにたいしてどうすることもできないというところに、人生生活の悲しみというものがある。その人生生活の悲しみにおいて、それを介してはじめて大悲の本願をいただくことができる。そこにふかい喜びがある。このような意味において、ほんとうに悲しむべきこととほんとうに喜ぶべきこととは、生活に即するところの宗教だけが与えているのであるといってよいのでしょう。
それが行動ということになりますと、どうでしょうか。それは、悲しみとか喜びとかいう言葉を使うとか使わないとかいうことではありません。善悪ということで動いている行動なのでありますから、その行動が成しとげられたときと、成しとげられなかったときには喜ばしい悲しいというよりも、快・不快というようなことではなかろうか。あのときは痛快だった。また負けたときは千載のうらみというようなことをいう。このような行動の世界では、”我は善なり、汝は悪なり”というようなことで争うことよりほかにないのであります。こうして、行動の意欲は”戦い勝ちとるために”ということになっているのであります。
➡「浄土の機縁」
>>
と述べておられた。
ともあれ、浄土真宗には世俗の行為について ~をなせといふことは無い。何故なら ~が出来ない人はどうなるのですか?といふことになるからである。
その意味で行動といふ運動論と最も離れているのが、浄土真宗のご法義であった。
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