池と鯉

林遊@なんまんだぶつ Post in 仏教SNSからリモート
0

 

ある法事の席でのお坊さんと門徒の会話

法事にはどんな絵がふさわしいかのぉ

そうやねえ

これなんか、どうやろのぉ

見ると池に鯉が泳いでいる絵である

なんで、これが法事に向いているかね。

釈迦は往(い)けという  弥陀は来いという

 

和上からお聞きしたエピソードだが、

よく聴聞した真宗門徒はちょっと油断がならない(笑

よくある、松林に囲まれた池で鯉が泳いでいる絵なら、

釈迦はいけという 弥陀はこいという ご開山はまつという、になるのだが。

この話は、釈尊の発遣と阿弥陀仏の召喚の二河白道の譬喩のはなしである。この譬喩は本願力の大道の話しであって求道を意味するのではない。
しかし、素直に、なんまんだぶを称えて我が国に来たれという如来の召喚を聞けない輩は、白道という語に眩惑されてしまうのかもな。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ

真仮を知らざるによりて

林遊@なんまんだぶつ Post in 管窺録
0

「真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す。」

『教行証文類』「真仏土巻」にある言葉である。以下に引用する。

仮の仏土とは、下にありて知るべし。すでにもつて真仮みなこれ大悲の願海に酬報せり。ゆゑに知んぬ、報仏土なりといふことを。まことに仮の仏土の業因千差なれば、土もまた千差なるべし。これを方便化身・化土と名づく。真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す。これによりて、いま真仏・真土を顕す。これすなはち真宗の正意なり。経家・論家の正説、浄土宗師の解義、仰いで敬信すべし。ことに奉持すべきなり。知るべしとなり。「真仮対弁
(現代語:方便の仏と浄土のことは、次の「化身土文類」に示すので、そこで知るがよい。すでに述べてきたように、真実も方便も、どちらも如来の大いなる慈悲の願の果報として成就されたものであるから、報仏であり報土であると知ることができる。方便の浄土に往生する因は、人によってそれぞれにみな異なるから、往生する浄土もそれぞれに異なるのである。これを方便の化身・方便の化土という。如来の願に真実と方便とがあることを知らないから、如来の広大な恩徳を正しく受け取ることができないのである。このようなわけで、ここに真実の仏・真実の浄土について明らかにした。これが浄土のまことの教えである。釈尊の経説、龍樹菩薩や天親菩薩の説示、浄土の祖師方の解釈を、仰いで敬い信じ、つつしんで承るべきである。よく知るがよい。)

これは、教→行→信→証→真仏土と、真実の教法を述べられた最後に、次に示す「化巻」の方便との「真仮対弁」の文である。真と仮を対弁して仮を誡められているのである。誰が読んでも、浄土の真実の教えに依るのでありで、これから説く「化巻」の方便の行や信に迷うのではないのですよ、という意味になる。当然、「真仏土巻」で説かれているのであるから、真→仮の次第であることは猿でも判る。真実の行信の分別を知らないから「化巻」の方便の行信に迷い、広大な恩徳を正しく受け取ることができないと、懇ろにお示し下さっているのである。

ところが、この「真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す」の文を、方便を知らなければ、真実へ至れないという意味の文である説く人がいる。この文は、仮→真のベクトルであるというのである。これほど屈折したお聖教を読解する人は、未だかって存在しなかったのだが、お聖教を、勝手に断章して切り張りして曲解するから、本物の浄土真宗が判らないのであろう。(*)

このような本物(真実)と偽物(方便)については、むかしから、以下のようなご法話でされていた。

江戸時代の両替商では、丁稚として入ってきた子供に、店の主人がその丁稚に本物の金貨を一枚渡す。丁稚はそれを懐にいれて、暇なときはいつも懐の金貨を手で触る。数年間は丁稚には金貨以外のお金を触らせずに、とにかく手で金貨を触らせる。そうこうするうちに、指先が本物の金貨に慣れ親しんで金貨の感触を丁稚は身体で覚えるようになる。このような訓練で、混じり物がある偽の金貨を触れば、すぐに違いが判るようになる。こうなってから初めて丁稚にほかのいろいろなお金を触らせるようにする。はじめに雑多なお金に触らせてしまうと、本物と偽者の微妙な区別が付かなくなるから、このような教育をした。

という内容の法話である。

偽物は本物と比べてみて、初めて偽物が偽物であると判る。偽物と偽物をたとえ千年の間比べてみても、偽物が偽物だということは判らない。本物と比べてはじめて偽物が偽物だと判るのである。
真実の山からは「仮 」の山の頂上は見えるが、仮の山からは真実の山は見えないのである。虎の絵を描きたいなら虎の絵を手本にすべきであり、決して似て非なる猫の絵を手本に描いてはいけないというではないか(笑

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ……

おっぱいの話

林遊@なんまんだぶつ Post in 仏教SNSからリモート, 管窺録
0

言葉には流行りすたりがあって、生きて来た時代が違うと意味の通じないものになってしまう。
おっぱいという幼児語の語源探索はさておき、’70年代に流行った歌謡に、
「ボインはぁ~赤ちゃんが吸うためにあるんやでぇ~、お父ちゃんのもんとちがうのんやでぇ~」 (月亭可朝:嘆きのボイン
と、いうのがあった。今では擬態語から派生した、このボインという言葉は死語であろうと思ふ。

さて、ボインの方のおっぱいではなく、母乳の方のおっぱいの話である。

最近はどうであるか知らないのだが、昔は赤ちゃんに母親が母乳を飲ませる風景は一般的であり、ほほえましく、かつ崇高な行為であった。赤ちゃんは、時・所を考えずに、お腹が空いたことを訴え、その要求を、泣き声で母親に知らせたものである。初めてお母さんになった女性は、そんな赤ちゃんの泣き声に応じて、恥じらいながらも胸元を開き、赤ちゃんのために授乳したものである。ほほえましくも崇高な姿である。

この母親の全面的な赤ちゃんへの無償の行為を題材にし、全分他力のお喩えとして浄土教では母の慈愛としての法話が語られて来た。もちろん譬喩であるから一分(物事の一部分を表わすこと)であり、阿弥陀如来の救済と比較にならない喩えではある。

おっぱい(母乳)は、母親によって造られるものでありながら、母親には何の用事もないものである。おっぱい(母乳)は、初っめから赤ちゃんのために造られるものであり、母親には必要のないものである。まるで、要求もないのに一方的に衆生の為に建立して下さった阿弥陀如来の本願のようである。浄土教では、このような無私なる母の慈悲を題材として阿弥陀如来の全分他力の救済を喩えて法話してきた。参考までに『往生要集』の「礼拝門」には極大慈悲母という表現がある。御開山も「行文類」で引用なさっておられるのだが、衆生をを包摂する阿弥陀如来の慈悲に母性にを感じられたのであろう。

さて、浄土真宗の教えに近いといわれる浄土宗西山派でも全分他力を説く。
隣の部屋で赤ちゃんが泣いている。母親がよしよし、お腹すいたね、と言って赤ちゃんの泣き声を聞いて立ち上がり、部屋の襖を開けて授乳するのが西山派の言う全分他力説である。赤ちゃんの助命という泣くという声に応じて、立ち上がって下さるのが阿弥陀様である、と表現するのが西山派の教えである。これはもちろん全分他力であって赤ちゃんの造作は無用であるといえる。(浄土宗鎮西派は半自力半他力説であるから、このような喩えは使わない)

ところが、御開山の全分他力説の浄土真宗との違いは、赤ちゃんが泣く必要があるという点である。泣くことすらも知らない赤ちゃんはどうなるのか。
その泣く力も無い赤ちゃんに視点を合わせた大悲のまなざしが、御開山のお示しになる本願力回向の浄土真宗である。南無と泣く手を差し出すことも出来ない衆生を抱いて抱えて摂取するというのが、御開山の仰る浄土真宗であった。
大河のど真ん中で、溺れている者にロープを投げて、このロープに掴まれ掴まれ、南無の手を出して掴まれというのが、西山派の教説である。我が浄土真宗は、ロープを掴まえる力もない溺れた者を、大河の中に飛び込んで抱いて抱えて摂取するという阿弥陀さまのご法義である。

若い頃は、「悪人正機」などという教えは、世間の道理に合わないと思っていたものだが、南無と差し出す手もない林遊の為に、元来は南無とタノム機の側の行為である南無を、阿弥陀如来の本願招喚の勅命(呼び声)であると、南無の機までも成就して下さったご法義が、なんまんだぶというご法義である。

正像末和讃」に、
如来の作願をたづぬれば
苦悩の有情をすてずして
回向を首としたまひて
大悲心をば成就せり
と、あるが、まさに世間にあって、苦悩の有情の為に成就されたのが、阿弥陀如来の救済の本願であった。
この、苦悩の有情を首(はじめ、第一、中心の意)とするのが、慈悲の至極であると、御開山の仰せであった。
これを、聞いた上からは、限りなき御恩報謝の道が用意されているのだが、林遊の場合は煩悩の林の中で遊び、往生浄土までの御恩報謝の暇つぶしで遊んでいたりするのである。

御恩報謝の論理については、暇があったら書いてみようと思うのだが、覚如上人の言われる「信心正因・称名報恩説」が、今ひとつしっくり来ないのでパス(笑

おきそ同行の話

林遊@なんまんだぶつ Post in つれづれ, 管窺録
0

ネットでは言葉だけの世界だから、コミュニケーションにおける言葉による誤解や錯覚も多い。
林遊の場合は、攻撃的な性格からか、つい、あほとか莫迦という罵倒語を多用するので、より誤解されやすい。言っている当人が一番愚かである事を知っているから、つい相手も同じであろうとキーボードを叩いてしまう。
『涅槃経』には、畢竟軟語畢竟呵責軟語呵責 とあるが、本当の意味での言葉を使われるのは、菩薩・諸仏だけなのであろう。

さて、阿弥陀さまの法の前で、誰が愚かかという話である。

稲城和上から聞いた法話。

山口におきそという三十路(みそじ)を過ぎてなお嫁(とつ)がない浄土真宗の門徒がいた。

おきそ同行は心の変調からか少し頭が足りないと世間で言われている。

そんな、おきそ同行は、毎朝自宅の前を役場へ向かう人力車の村長に声をかけるのが日課だった。両腕を頭の後ろで組んで、

「村長さんは気の毒やなあ」

毎日の事であるから、村長さんも慣れていたのだが、ある日の事少し虫の居所が悪かったのだろう、

「コラッ、おきそ、世間ではお前の事を馬鹿の天保銭のおきそと言っているのを知っているのか、この八文め」

と、人力車を止めておきそ同行を詰問した。

おきそ曰く、

「村長さんは一円銀貨じゃから先が見えん、おきそは穴開き銭(天保銭)の八文じゃから先の後生が見える」

と、言ったそうな。

蓮如上人の御文章には、

「それ、八万の法蔵をしるといふとも、後世をしらざる人を愚者とす。たとひ一文不知の尼入道なりといふとも、後世をしるを智者とすといへり」(八万の法蔵章

と仰せだが、生死を超えた浄土の世界を後世と定めたおきそ同行の言葉に、村長さんもビックリしただろうな。

以下、この法話の時代背景。




明治4年12月19日発令の新貨条令では天保銭10枚を以て八銭となり1枚が八厘(八文)となる。当百が八文通用で、一人前に百文で通用しないので、囃子言葉で馬鹿の八文天保銭と呼んだ。
林遊の子供の頃には、何回同じ事をさせても出来ない林遊に「お前は八文かぁ」と言われた記憶がある。
言葉は歴史的な背景の中で語るものであり、権利とか人権という翻訳語の上でご法義を語るのは、歴史を時間というカンニングペーパーの上で語るような虚しさがあるな。

大人の宗教

林遊@なんまんだぶつ Post in 仏教SNSからリモート, 管窺録
0

高森会という、似非真宗団体の会員のブログをウォッチしてるのだが、宗教的深みがないというか、まるで中高生の宗教ゴッコのようである。
学生時代に偽装勧誘で入会し、社会経験ゼロで教祖のねじまげた似て非なる教義を刷り込まれてしまったためだろう。
時々、社会経験の浅い浄土真宗の坊さんにもこのような輩がいるのだが、煩悩という心の闇を見つめる力が不足しているのではないかと思ふ。浄土真宗のご法義は、浅ましい生活をしているなあという、自らの煩悩の中に、阿弥陀如来から回向された他力(利他力)を仰いでいくご法義である。

以下、梯和上の『親鸞聖人の教え問答集』から、引用。

Q.わかっていると思っていたことがわからなくなってきて、頭の中が混乱してきました。少しずつ整理していきたいと思います。とにかく自力・他力という言葉には常識的な部分と常識を超えた部分とがあるようですね。

A.その通りです。たとえば自力・他力を「自分の力」と「他人の力」というような対句とみるのは常識的な見方です。そして自力とは自分の力をたのみしして修行し、さとりに向かって向上することを勧める教えであるというのは正しいわけです。これは常識的な教えですからね。
しかしその反対に「他力とは他人の力」ということで、他人の力をあてにして、自分は何もしないことであると他力を常識的に理解するのは間違いです。

それというのも浄土教というのは、元来大人の宗教なんです。いい歳をして悪いことだと知りながら、性懲りもなく愛憎や憎悪の煩悩を起こし、人を妬んだりそねんだりして、自分で悩み苦しんでいる。そんな自分の愚かさと惨めさに気づきながら、その悪循環を断ち切れない自分に絶望したところから、浄土教は始るのです。その意味で浄土の教えは決して「きれいごと」の宗教ではありません。
そうした自分のぶざまな愚かさを見すえながら、そんな自分に希望と安らぎを与えてくれる阿弥陀如来の本願のはたらきを「他力」と仰いでいるのです。だから他力とは、私を人間の常識を超えた精神の領域へと開眼させ、導く阿弥陀仏の本願力を讃える言葉だったのです。

設我得仏 十方衆生 至心信楽欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆誹謗正法
(たとえ私が仏陀になることができたとしても、もし十方の世界の衆生が、この本願には嘘も詐りもないと、疑いなく信じ、私の国に生まれることができると思って、わずか十声であっても私の名を称えるものは、必ず往生させましょう。もし往生させることができないならば、私は決して仏陀の位には登りません。ただし五逆罪を犯して反省もせず、正法を謗って恥じないような者は除きます)

馬鹿は死ななきゃ治らない、とかいうが、死ななければならないほどの、自分でもてあますどうしようもない煩悩を抱えて、死ぬ間際まで、煩悩の火を燃やしながら生きていかざるを得ないのが林遊のような存在である。生きている限りは、煩悩具足の凡夫でしかあり得ない。浄土に往生しなければ仏に成れないということである。

これを慚愧し、「信は仏辺に仰ぎ、慈悲は罪悪機中に味わう」というのが浄土真宗のご法義である。若不生者不取正覚(もし生ぜずは、正覚を取らじ)と、自己の覚りと林遊の往生を不二と誓われたのが本願である。愛憎の煩悩に苦しむ者にとって、煩悩の寂滅した世界があり、その世界を目指して生きよというのが本願の言葉である。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ

三恒河沙の諸仏の

林遊@なんまんだぶつ Post in つれづれ, 管窺録
0

(17)
三恒河沙の諸仏の
出世のみもとにありしとき
大菩提心おこせども
自力かなはで流転せり
正像末和讃

このご和讃は、『安楽集』「発心の久近」から材を採られたものである。

『安楽集』では、『涅槃経』の意を引いて、今、お念仏を称えこの教えを聞くようになったのは、ただ事ではない。実は三恒河沙のガンジス河の砂の数を三倍したような諸仏にお会いしたから、この『無量寿経』の第十八願を聞き、お念仏する者になったという意味である。

しかし、御開山は、この『安楽集』の意味を転じていらっしゃる。
ガンジス河の砂の数を三倍したような諸仏の前で菩提心を発して善行に励んで来たのに、何故いまも煩悩具足の凡夫でいるのかという問いである。
それは、諸仏の前で菩提心を発したが、それは自力の菩提心であったからというのが前掲の和讃の意味である。もちろん仏道において菩提心は大切であって、御開山も「大菩提心おこせども」と大の字を使っておられる。それは、阿弥陀仏が法蔵菩薩の時に、世自在王仏の前で発した大菩提心であって、末世の凡夫が発すようなものではないからである。

菩提心については「度断学成 (どだんがくじょう)」でも触れたが、全ての菩薩が発すという四弘誓願が基本である。この四弘誓願については『往生要集』の作願門に説明がある。(*)

御開山は、『無量寿経』に説かれる生因三願を分別(ぶんべつ)され、仮を捨て真に帰せよとの意から真仮を分判して下さった。それが「願海真仮論」である。

三 願 三 経 三 門 三 藏 三 機 三往生
第十八願 仏説無量寿経 弘願 福智蔵 正定聚 難思議往生
第十九願 仏説観無量寿経 要門 福徳蔵 邪定聚 双樹林下往生
第二十願 仏説阿弥陀経 真門 功徳蔵 不定聚 難思往生

つまり、『無量寿経』、『観無量寿経』、『阿弥陀経』を、それぞれ『無量寿経』の三願に配当し、第十九願や第二十願の道を行くのではないですよ、と懇ろにお勧めくださってある。また、下図のように二双四重の教判によって、浄土真宗では、横超、弘願、頓教のご法義であって、今晩聞いて今晩助かる頓教の第十八願を示して下さってある。これが本願力回向の浄土真宗というご法義である。御開山は、自力の要門や真門に迷うのではないですよと懇切丁寧にお示しである。




さて、『無量寿経』の第十九願に、は、「十方衆生発菩提心修諸功徳」(十方の衆生、菩提心を発し、もろもろの功徳を修せ)とある。御開山のお心を窺えば、これは『観無量寿経』に説かれた仮の教説であり、邪定聚への道であって捨てるべきものである。

しかるに、第十九願の菩提心を発して往生を欣求せよと教える輩がいる。汝らは菩提心とはどういうものか知っているのかと問いたいのだが、彼の輩は「善のすすめ」といって行じて修するということを説き人々を騙している。

三恒河沙の諸仏の
出世のみもとにありしとき
大菩提心おこせども
自力かなはで流転せり

と、御開山が自力の菩提心や回向する善を否定しているのも関わらず、第十九願の菩提心を勧め「修諸功徳」という名での善を勧励し、自らの名聞利養を図るのである。
菩提心は我々が発すのではなく、阿弥陀如来の菩提心に感動し、それに包まれて生と死を越えて行くのが浄土真宗のご法義である。

昔の布教使は、このような修善に迷う人には「あんたぁ、果遂の願があるからもう一回りしてくるこっちゃ」などと言っていたが、彼の善を奨める団体では、なんまんだぶを称えないから一回りではなく、御開山の仰るように「微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。まことに傷嗟すべし、深く悲歎すべし。」「真門決釈」ではある。
仮のご法義を示す「化身土巻」で説かれる三願転入の文は、私はこのような経過をたどりましたが、皆さんは決してこのような道に迷うのではないですよと、簡非して下さっている文である。某団体の教祖は、私もゼロから出発してこのような御殿を建てたのだから、あなた達もその道を歩みなさいと言っているそうだが、御開山のお心と比較対照にならない言葉ではある。

そもそも蓮師の言われる、後生ほどの一大事を自らが判断して学ぶこともなく、ただ一人の妄説を吐く一個の人格に委ねることが間違いなのだが、最初の刷り込みによって本物と偽者の区別がつかなくなったのであろう。悲しむことではある。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ

気持ちのいい言葉ほど危ないものはない

林遊@なんまんだぶつ Post in つれづれ, 仏教SNSからリモート
0

 

真宗教団で、「生かされているいのち」とか、「尊いいのち」とか「いのちがあなたを生きている」など耳障りのよい言葉が多すぎる。

未来の見えない派遣労働で働く兄ちゃんや、リストカットを繰り返すお姉ちゃんや、病院のベッドにくくられているボケ老人にも命はあるのである。

悪人という語が、世間倫理の枠から外れ、聖道門仏教からも相手にされない者を指すならば、悪人正機を標榜する浄土真宗に、気持ちのいい言葉は似合わない。
正機とは傍機に対する言葉である。阿弥陀仏の慈悲の眼(まなこ)が、誰に焦点を結んでいるかが正機という表現である。

美しい耳障りのよい言葉を使い続けることは、本当にご法義をお伝えしなければならない方たちとの交渉を絶つ事だと思ふ。

「諸仏の大悲は苦ある者に於てす。心偏に常没の衆生を愍念す」「玄義分」なのだから。
なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ…

[20080803]

後悔と懺悔

林遊@なんまんだぶつ Post in 仏教SNSからリモート
1

 

人は後悔をする。あの時ああすればとか、こうしておいたらという後悔の念を抱いたことのない人はいないであろう。
しかし、後悔というものに沈潜している限り、救いのない状態が続いているだけであって、本当の解決にはならない。

西田幾多郎は、わが子を亡くしたことを綴って以下のように言う。

最後に、いかなる人も我子の死という如きことに対しては、種々の迷を起さぬものはなかろう。あれをしたらばよかった、これをしたらよかったなど、思うて返らぬ事ながら徒らなる後悔の念に心を悩ますのである。
しかし何事も運命と諦めるより外はない。運命は外から働くばかりでなく内からも働く。我々の過失の背後には、不可思議の力が支配しているようである、後悔の念の起るのは自己の力を信じ過ぎるからである。我々はかかる場合において、深く己の無力なるを知り、己を棄てて絶大の力に帰依《きえ》する時、後悔の念は転じて懺悔《ざんげ》の念となり、心は重荷を卸《おろ》した如く、自ら救い、また死者に詫びることができる。『歎異抄』に「念仏はまことに浄土に生るゝ種にてやはんべるらん、また地獄に堕《お》つべき業にてやはんべるらん、総じてもて存知せざるなり」といえる尊き信念の面影をも窺《うかが》うを得て、無限の新生命に接することができる。『我が子の死』西田幾多郎

西田幾多郎は、後悔の思いが起こるのは自らを信じているからだという。後悔することは自らの心の中での、逡巡でありそのような行為には救いがないということであろう。
仏教では「懺悔」という行為がある。

懺悔
懺は梵語クシャマ(kşama 懺摩)の音略で、忍の意。罪のゆるしを他人に請うこと。悔は追悔、悔過の意。あやまちを悔い改めるために、ありのままを仏・菩薩・師長(師や先輩)・大衆に告白して謝ること。すなわち、自らがなした罪過を悔いてゆるしを請うこと。浄土教では、阿弥陀仏の名号を称える念仏に懺悔の徳があるとされる。

仏に対して懺悔することにより、仏がその懺悔を摂受して下さることにより、為した行為が許されるというのが懺悔である。自らで始末のつかない後悔を、自らの力で乗り越えていくことは出来ない。自らを超えたものによってこそ許しがあり救いがあるのであろう。

親鸞聖人は、『尊号真像銘文』で「称仏六字 即嘆仏即懺悔」を釈し、

「称仏六字」といふは、南無阿弥陀仏の六字をとなふるとなり。「即嘆仏」といふは、すなはち南無阿弥陀仏をとなふるは仏をほめたてまつるになるとなり。また「即懺悔」といふは、南無阿弥陀仏をとなふるは、すなはち無始よりこのかたの罪業を懺悔するになると申すなり。『唐朝光明寺善導和尚真像銘文

と、仰せである。
一声、ひとこえのなんまんだぶつが、如来の徳を讃嘆することになり、そして自らの行為を懺悔することになると仰るのである。自らが自らを裁き許しを乞うのではなく、仏のみ名を称えることにより阿弥陀如来が懺悔を摂受して下さるのである。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ、慚謝、慚謝

[20100727]過去日記より

暑い夏、熱い夏

林遊@なんまんだぶつ Post in つれづれ
0


     火葬場の少年


少年はけなげに弟の骸(むくろ)を背負い、そして歯を食いしばって何を見ているのだろう。

8月6日
広島平和記念日,広島原爆忌

1945年8月6日午前8時15分、米軍のB29爆撃機エノラ・ゲイが、広島市上空で世界初の原子爆弾リトルボーイを投下した。市街は壊滅し約14万人の死者を出した。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ、辛いよなあ

度断学成 (どだんがくじょう)

林遊@なんまんだぶつ Post in 仏教SNSからリモート, 管窺録
0

衆生無辺誓願度(しゅじょうむへんせいがんど)
あらゆる生き物をすべて救済するという誓願

煩悩無量誓願断(ぼんのうむりょうせいがんだん)
煩悩は無量だが、すべて断つという誓願

法門無量誓願学(ほうもんむじんせいががく)
法門は無尽だが、すべて学び尽くそうという誓願

仏道無上誓願成(ぶつどうむじょうせいがんじょう)
仏の道は無上だが、かならず成仏するという誓願

大乗仏教の全ての菩薩が発すという総願の四弘誓願である。

♪しゅ~じょぉむへんせいがんだ~ん♪等とお寺などで唱和する機会もあるので知っている人も多いと思ふ。

衆生無辺誓願度、とあらゆる生きとし生ける者(衆生)を済度(救う)するという一番目の願がメインで、後の三願はそれを実行しようという菩薩の決意の願である。

ある和上が、この四弘誓願について、本当にこの願を発そうとしたら人間は死んでいる暇は無い。ありとあらゆる迷いの世界(此岸)の衆生を、さとりの世界(彼岸)に渡すことを発願するというような言葉は人間の世界から生まれて来るような言葉ではない、と仰った事がある。

ちょっとビックリした。言葉と言葉が指し示す意味内容を何も判らずに唱和していた事に恥ずかしさを覚えた事であった。
同時に、そのような誓願の中に願われ、重ねて『本当に疑いなく私の国に生まれるのだと欲(おも)え、そして私の名を称えながら生きていけ』という、なんまんだぶつの御本願がたのもしかった。

私が願(菩提心)を発すのではない。菩薩の発した願に包まれ、願の意味を聴かせて下さる仏教がある事の再発見ではあったな、ありがたいこっちゃ。

なんまんだぶ、なんまんだぶ、なんまんだぶ……
[20080804] SNS